母の絶叫
「電話してくれた?」
「うん、したけど」
「……けど?」
母はいぶかしがった。
マンション、一応高層階だけど、手狭な一室。
ぼくは六十を過ぎた母とたった二人で暮らしている。
片付けの苦手な母は、数百着もある自分の服を、
リビングも寝室も関係なくぶちまけている。
「管理会社の人は……」
「うん」
「こっそり教えてくれたんだけど」
「なに?」
「隣室には女性は住んでいないはずですって」
「そんなはずないでしょう!」
ぼくは、カンカンに怒った母をなだめようとするが、
甲斐なく、しわがれ声を張り上げられる。
隣室に聞こえるようにわざとだ。
壁に向かって、絶叫する。
「子供の声はいいわよ。でも、うるさいのは母親の方。あんな、ヒステリー聞かされ続けたら、こっちの気が狂うわ。朝っぱらから、早くしろ! 早くしろ! 早くしろ! 夕方は宿題しろだの、ゲームするなだの、もっと静かに言えないの! 殺す、とか、死ねって言ってたこともあるのよ。そりゃ、子供もおかしくなるわ! ねえ! そうでしょう!? わたし、間違ってる?」
「うんうん、そうだね、そうだね」
ひとしきり言いまくって、向こうから返答がないと、
母は、洋服でいっぱいになったソファにすとんと崩れ落ちた。
ぼくは冷たいお茶をいれて、渡すそぶりをする。
ものにあたることはないから、
なにか持たせてあげたほうが落ち着いてくれる。
「……ありがとう」
「母さん、今朝、渡したボイスレコーダーだけど」
「ええ」
「録音はしてくれた?」
「しっかり録音したわよ」
「良かった」
「管理会社が対応しないなら、裁判ね」
「そうだね」
ぼくはそう答えて、食卓からボイスレコーダーを拾った。
自室で着替えを済ませる。
母との食事を済ませる。
風呂を済ませる。
やることがなくなって早めにベッドに入る。
ぼくはボイスレコーダーにイヤホンをさし、そのLRを耳にさした。
リモコンで照明を落とし、数時間におよぶ、家の中での音を流し始める。
疲れているのに、一睡もできなかったから、最後まで聞くことができた。
母の言うような、母親のヒステリー声は少しも録音されていなかった。
カーテンから差し込む青っぽい光を見ながら思う。
今日こそは隣の家を訪ねて、確認しなければならないだろう。
母親はいるのか、子供はいるのか。
だけど、ぼくは、たまらなく行きたくない。
◆
朝食後、ぼくはついに決心して、隣人を訪ねた。
無精そうな若い男が出てきた。
挨拶を済ませたあと、
まごまごしても仕方ないので、本題に入る。
そして、隣人は、管理会社の言うとおり、
女性もいなければ、子供もいない、
男の一人暮らしであることがはっきりした。
やはり、おかしいのはぼくの母なのだ。
気が狂って、幻聴を聞いているのだ。
とすると、こちらが謝らなければならない。
「すいません。うちの母がうるさくして」
「なんのことですか? いや、気にしないでください。なにも、うるさくないですよ。壁が厚いんじゃないかな」
「本当ですか?」
「嘘を言っても仕方ないじゃないですか」
「昨日の夜は?」
「家にいましたけど、静かなもんでしたよ。いつも通り」
「そうですか……。お騒がせしました。失礼します」
「いえいえ」
ぼくは少しだけ気が楽になった。
母の絶叫について、反対側の隣人と、上下階も訪ねたが、
だれも聞いていなかった。
ぼくは自室のリビングに戻る。
ソファ、母の隣に座って、ほっと胸を撫で下ろす。
近所が、霊感のない人ばかりで良かった。
「なにか言った?」
「ううん、母さん、なんでもないよ。ずっと一緒に暮らそうね」
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