ワープタブレット

   ワープタブレット(転移錠剤)


 自分で望んだ仕事ではなかった。野球選手になりたかったが、才能もなかったし、努力もできなかった。だから、望まずに就いた仕事ではあるが、なるべくしてなったとも言える。俺は諦めの感情と寄り添いながら日々、平凡な仕事をこなしていた。こういう人間は多いんじゃないかと思う。

 出張の多い仕事で、とくに体にこたえるのは移動時間の長さだ。俺は大柄だから、フィットする座席はなかなかない。公共交通機関で窮屈そうに、もぞもぞしている男を見たことはないだろうか。あなたが見たのは俺だったかもしれない。

 俺はほぼ毎日、日本中、ひどいときには外国にも行かなければならない。こう聞かされると、会社の金で旅行ができて、得な仕事じゃないかと思う人もいる。だが実際に毎日となると旅行という感じじゃなくなってくるし、行った先々で頭を下げて回ることを考えると憂鬱になる。

 ここまで愚痴ってしまうと、誰からも転職をすすめられた。俺も悩んだ時期があったが、いざとなると転職ほど億劫なことはない。なかなか行動に移せないまま、小骨が喉に刺さっているような気分で働いていた。

 しかし今は、すっきりしている。転職をする気など一切なくしてしまったからだ。ワープタブレットのおかげで、悩みがすべて解消したのだ。


 十年も前のある日、俺が新幹線でいつものようにもぞもぞやっていると、隣に男が座った。がら空きの自由席なのに妙だと思った。その男は格好も妙だった。全身白ずくめの正装で、結婚式から抜け出してきた新郎か、お笑い芸人のようにも見えた。

 隣に座られるのが嫌だったので文句を言おうとしたが、先を越された。

「随分、窮屈そうにしていますね」

「いやあ、いつもグリーン車に乗れたらいいんですけど」

 内心、あんたが隣に座るから、余計窮屈になったよと思った。

「大変でしょう」

「ええ、まあ、図体が大きいと損ですね」

「移動時間は無駄だと思いませんか」

「無駄ですね、大無駄……」

 俺は苦笑し、冗談を言う。

「はやくワープ装置でも作ってほしいですよ」

 内心、いらいらしていても話好き、冗談好きの性格は勝手に口をついて出る。

 白い服の男はにやりとした。

「移動時間を活用して、読書とか、仕事の書類作りでもしたらどうですか」

「あいにく、酔いやすい質なんです」

「なるほど、あなたにピッタリのものがあるのですが」

 あ、営業か、と気付いてゲンナリした。車掌に通報しようか。

「ワープ装置のようなものです」

 その言葉を聞いて、冗談だと思った。

 暇ではあるし、もう少しだけ話に付き合うことにした。


 ところが話を聞いているうちに、俺はまるで洗脳されたみたいに、白い服の男の話を信じ切ってしまった。男は天使アクチエルと名乗り……今ではその肩書さえ俺は信じている。彼は俺にある錠剤を買わせた。

 その錠剤を飲むと、瞬時に意識を失い、移動時間中、ぐっすり眠っていられる。それが主な効能だった。天使はこの錠剤をワープタブレットと説明した。

 確かに、移動時間中だけぐっすり眠っていられるなら、それはワープしたのと同じように思えた。しかも、その間に仕事は進み、電話の対応までしてくれるという優れものだ。意識を失っている間、夢遊病よろしく勝手に体が動くとのこと。

 高い金を支払ってワープタブレットを購入した俺だったが、使ってみるまでは疑いもあった。しかしワープタブレットは本当に本物だった。天使が語った効能はすべてその通りだった。

 俺はワープタブレットを常用した。移動時間はもちろん飲んだし、寝むれない夜にも飲むことがあった。嫌な仕事をしなければならないときにも飲んだ。


 こうして俺の仕事はとても楽なものになった。いや、ワープタブレットさえあれば、どんな仕事でも楽になるだろう。楽しい部分だけを味わい、辛い部分は飛ばしてしまえばいい。

 副作用もあった。ワープタブレットを飲み尽くしてしまうという恐怖だ。大量に買ったが、ついにすべて飲んでしまうときがきた。天使に会ってから、ちょうど十年の月日が経っていた。

 離陸した飛行機の中で、俺は最後のワープタブレットを眺めていた。

 そのとき、天使アクチエルが現れ、十年前のように隣りに座った。

 俺は嬉しさのあまり叫んだ。

「ああ! 良かった! また会えて!」

 天使はにやりと笑った。

「久しぶりですね」

「ワープタブレットを飲み尽くしてしまうところだったんです」

「そうですか」

「あの、また買わせてもらえませんか。お金ならいくらでも払います」

「あなたにはもう、ワープタブレットは必要ありません」

「どうして?」

 聞きながら、すぐに理由がわかった。飛行機が大きく揺れたのだ。爆発音も聞こえた。ついに死ぬときが来てしまったのだ。

 ああ、こんなことなら、もっと自分の時間を大切にすれば良かった。そう思っていながら、俺は死の恐怖に負け、最後のワープタブレットを口に含んだ。神に祈る。

 ――どうせなら天国へワープを。

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