温泉タマゴ

 仕事で温泉旅館に泊まる機会があった。旅館と言っても古風なところではなくて、バブル景気のときに建てられた十二階建ての豪奢なホテルだ。エントランスとラウンジなんかは吹き抜けになっていて、広い日本庭園を見下ろせる。茶菓子も食べ放題。

 おれは温泉が好きだから、早めにホテルに行って、仕事前に一風呂、浴びることにした。素っ裸になり、開放感の中、露天風呂に繰り出す。体をざっと洗うと、いきなりざぶんと沈む。

「あぁ~、いきかえるぅ~」

 おれは独りごちる。歳をくったなぁとか実感する。

 しばらくはぼうっと青空を見ていた。白い雲と、ときどき、鳥が滑空して通り過ぎた。

 梢がざわざわと鳴ったのをきっかけに、視線を下に移す。おれ以外、露天風呂に人影はなく、貸切状態だった。

「ごくらく、ごくらく」

 そう言ってしまってから、あまりのジジ臭さに自分で苦笑する。

 まあ、いいさ、温泉くらい自由にしよう。

 露天風呂は大きな岩に囲まれていた。ああいう何気ない岩でも、うん百万円という値打ちがつくこともあるらしい。そう考えると宝物に見えてきた。岩には自然の美しい模様が刻まれている。充分、鑑賞に堪える代物だ。

 じっと見ていると浮かび上がってくる模様もあった。それは楕円形だった。タマゴ型と言えばいいか。そこだけあとから描いたみたいで不自然だった。いや、観察しなければ気づかない程度の違和感ではあるが。

 おれは立ち上がって、岩のところまで、じゃぶじゃぶ歩き、タマゴ模様の部分を擦ったり、お湯をかけたりしたが、なにもわからなかった。こんなことを気にしているのもバカバカしくなったし、金玉がゆでタマゴになる前に、別の風呂も試してみたかった。

 誰もいないから、恥ずかしさもない。人工衛星にピースサインを送りつつ、わざと金玉をぶらぶらさせて風を起こし冷却する。足元に注意しつつ、てくてく歩いて、いろいろな種類の風呂に入ってまわる。

 寝転がって入れる浅い風呂、立って入れる深い風呂、檜風呂、樽風呂、ジャグジー風呂(これは温泉ではない)、一巡りして、またメインの広い露天風呂に戻ってきた。

「やっぱり、ここが一番いいな」

 おれはざぶんと沈み、最初の場所に腰を落ち着けた。

 ふと思い出して、前を見る。岩の表面を目でなぞると、さっき見つけたタマゴ型の模様は、当然まだあった。しかし、おれは目をこすった。タマゴ型の模様のてっぺんに、短い線が入っているではないか。亀裂のように見えた。

 そろそろ仕事の時間であることを金玉タイマーが告げていた。ゆだり加減から言って、二十分は経っている。のぼせてもいけないし、仕事の前に体を冷ます時間も必要だった。湯気を立てながら、取り引き先の前に出たりしたら、笑いものだ。

 おれはタマゴ型の模様のことが気になりつつも、温泉から引き上げた。

 仕事の話は昼間だけで、夜は飲んで食べて、カラオケで熱唱した。付き合いで風呂にも入ったが、短い時間だけで物足りなかった。

 酔っ払って寝たのだが、おれは早朝にきっちり目を開けた。もう一風呂、浴びるためだ。そっと部屋を抜け出して、温泉へ向かった。

 前日の朝と似たような行程で風呂を渡り歩き、最後にメインの露天風呂に沈んだ。そこで昨日と同じ姿勢をとったからだろう。すっかり忘れていたタマゴ型の模様のことを思い出し、また岩の表面に視線をはわせた。

 タマゴ型の模様はすぐに見つかった。

「あっ!」

 おれは思わず声を上げた。

 タマゴ型の模様はまた少し変わっていた。てっぺんに入っていた短い線が延長され、ギザギザとした線になって、タマゴ型の模様を分断していた。

「なにか生まれそうだな」

 そう思って、そのまま口をついた。

 ヒヨコのタマゴにしては大きい。ダチョウのタマゴがこのくらいの大きさだっただろうか。考え出すと止まらなくなった。この模様はなんなのだ。触ってみてもなにもわからない。お湯をかけても変化はない。最初はただのタマゴ型の模様だった。どうしてこの短時間に割れ目などできたのか。生きているのだろうか。幽霊かなにかの仕業なのか。それとも、おれの頭がおかしくなったのか。ほかの人間に聞いてみてはどうか。今はおれひとりしかいないが、誰か呼んできて、いや、頭がおかしくなったと思われたら、どうしよう。取り引き先もいる。日を改めて来るというのはどうだ。そこまですることだろうか。目を閉じて、開けたら、消えているかも、消えていない。生まれるとしたら、なんだろう、ダチョウが生まれて……。

 ぐるぐるぐるぐる思考はめぐり、ついに目まで回ってしまった。


 目を覚ますと、狐顔の女がいた。

「や、ばかされたのか」

「いきなり失礼な人ですねぇ」

 狐顔は目をさらに細めて笑った。

「わたくしは当旅館の若女将でございます」

「あ、そうか、いや、これは、失礼」

 気付くと膝枕され、団扇であおがれていた。恥ずかしいのと同時に、得な気持ちにもなる。すぐに起き上がろうとはしなかった。太ももを借りて寝転がったまま若女将に聞く。

「おれはどうしちゃったんですか?」

「お客さん、のぼせてしまったんですよ」

「なるほど……」

「昨日のお酒が残っていたんでしょう」

 おれは即答する。

「いえ、違います。酒のせいではありません」

 若女将は首を傾げる。

「なにかあったんですか?」

「タマゴです」

「タマゴ?」

 若女将はきょとんとしている。

 おれは昨日からの経緯を説明した。そして最後にこう聞いた。

「あのタマゴについて、なにか知りませんか?」

「タマゴですか」

 若女将はそう呟いて、フフフと笑った。

「やはり、なにか知っているんですね。教えてくれませんか。気になって、もしや、もうなにか生まれて……」

「お客さんの言う、タマゴと関係があるのかどうか……、思い出し笑いで……」

「なんです? なんでもいいから、教えてください、お願いします」

「そうまで、おっしゃるなら」

 若女将は語りだした。

「先代の大女将、わたくしの曾祖母からよく聞かされた話なんですけれど、昔、当旅館を高名な数学者の方がご利用になられたことがあって、……亡くなられてしまったんです」

おれはぞっとした。

「この旅館でですか、まさかあの温泉で……」

「ええ、だいたいご想像のとおりです。当時は今のようにホテルなんか建っていませんが、温泉は似たつくりだったらしいですから。でも、亡くなられる方がいるというのは温泉旅館では珍しいことではありません。そうとう高齢の方だったということもありますし」

「心臓発作ですか?」

「いえ、その方の場合は、のぼせてしまったんです。脱水症ということになるんでしょうね。数学者の方というのはみなさん一度考え出すと、訳がわからなくなるほど考え込んでしまうらしいです。だから、いつもは家族の方とかお弟子さんがついていたそうですが。その日は一人で温泉に入ってしまったんです。そこで発作的に考え込んで、のぼせて、亡くなられてしまったというわけです」

「いやあ、人間の業というか、なんというか。そういえば、おれもタマゴのせいで考え込んでしまったんだ。それじゃあ、あれはその数学者が仲間をつくろうと……、それともまさかそれ以前から……」

「お客さん、ここだけの話にしてくださいね」

「わかっています。おれも温泉好きの端くれですから、でも今の話で、笑うところなんかありましたか?」

 若女将はクスクスまた笑った。

「曾祖母はこのお話を面白く話したんです。不謹慎なんですけどね。わたくしが幼稚園に通っていた頃の話です。温泉タマゴというタイトルまでつけていました。なつかしいなあ」

「温泉タマゴですか。おれからしたら寒気がしますよ。やっぱりあのタマゴにはなにか意味が……」

「いえ、意味なんか……」

 言いながら、若女将は笑いをこらえている。

「なにが温泉タマゴなんですか? どういう意味なんですか?」

 おれが問いただすと、若女将は肩を震わせた。

「かんにん、かんにんです……」

「辛い話なら無理には聞きませんよ。しかし、あなたは笑っているじゃないですか」

「そ、それなら、無礼講で構いませんね?」

「いいですよ。気になってしょうがないんです」

 若女将は鼻をすすって、努めて澄まして言った。

「温泉タマゴというのは、その数学者の頭のことです。温泉好きのタマゴ頭で、温泉タマゴ。この話のオチは、温泉タマゴが、ゆでダコだ」

 あ、この女狐、おれのハゲ頭を笑ってやがったな。頭に血がのぼる。

「ああ、そんなに、また頭を赤くして、かんにんです。無礼講と言ったじゃないですか」

 言いながら、若女将は笑い続けた。

「温泉タマゴが、ゆでダコじゃないですか、まるっきり、フフフ……アハハ……、かんにん、かんにんして……」

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