蜂子

 祖母の命日だった。亡くなってから十五年になる。

 夕暮れ時に墓を訪れたのだが、結局、今日は誰も来なかったようだ。線香も造花も新しくなっていない。と言っても、祖母に人望がなかったわけではない。時代の流れのせいだろう。親族の繋がりだとか、墓参りだとか、そういう文化はことごとく破壊されてしまった。

 身内にはそれぞれの都合があって、来られないのを知っている。遠くで暮らしていたり、体を痛めていたり、あるいは他に優先する仕事とか遊びがあるのだ。それでも年に一遍は墓参りに来る。身内でもその程度なのだから、知り合いなんかはさらに遠慮する。足を運んでも、勝手に墓をいじくったりはしない。

「とりあえず、俺が来ただけでも良いだろう、ばあちゃん」

 俺は墓に話しかけた。目を閉じ、手を合わせても、答えはない。

 簡単な掃除をする。雑草を抜き、落ち葉を拾い集め、墓石をタオルで拭く。造花の水も一応交換し、湯呑みにポカリスエットを淹れてお供えする。ばあちゃんが好きだった飲みものだ。そこまで済むと線香をお供えして、また手を合わせた。

 目を開けると、俺は小さな悲鳴を上げてしまう。

「ばあちゃん?」

 墓石に蜂が止まっていた。

 よく母さんが言っていることなのだが、死んだ人は動物や虫に姿を代えて会いに来るのだと。それが、母さんの妄言なのか、宗教上の根拠があるのかは知らないが、俺もなんとなく信じていた。だから、墓石に止まった蜂を見て、真っ先にばあちゃんだと思ったのだ。

 だとして、俺は蜂とコミュニケーションを取ろうとまでは思わない。俺は蜂が嫌いだった。子供の頃に刺されて死にかけたことがあるのだ。そのことはばあちゃんも知っているはずで、よりにもよって蜂の姿で会いに来んでもいいのにと思う。

 俺はそっと墓から離れた。他人様の墓が左右に並んだ小道を通り、下り階段の前に来る。遠く夕日を見る。なかなかの見晴らしだ。風が吹き、ざわざわと梢が揺れる音がする。振り返ると、青々とした山だ。

 寺と墓所は山の入り口にあった。ばあちゃんの墓と地上の駐車場とは百段近くある石の階段に隔てられている。俺は階段を下り始める。急な石の階段には、最近やっと手すりが取り付けられた。それをつたいながら、のんびりと下る。

 地上までなにごともなく下りきる。ほっと胸をなでおろす。転んで怪我でもしないか心配だった。それくらいおぼつかない階段だ。しかし作り直すほどの費用はないのだろう。

 寺と墓所の境辺りに巨大な焼き場がある。もちろん人間の焼き場ではない、落ち葉や細々したものを焼く場所だ。俺は火のくすぶっているところに、ゴミを投げ込む。

 俺は用が済むと気が抜けて、近くの石段に腰を下ろした。その瞬間、ぐしゃりと嫌な感覚がケツを襲った。ぱっと立ち上がる。石段を見ると、虫が潰れていた。よく観察してみると蜂だった。黒と黄のボーダー柄に、俺はぞっとしてケツを払った。痛みはない。刺されはしなかったようだ。その後、ばあちゃんのことを思い出す。

「ばあちゃんを踏み潰してしまった」

 俺は呆然としてひとりごちた。

「いやいや、ばあちゃんじゃない、これは、ばあちゃんじゃない。ただの蜂だ」

 俺は自分にそう言い聞かせて、ポカリスエットのキャップを開けた。ごくごく喉を鳴らして飲み干す。ばあちゃんに手向けて余った分だ。

 気分が落ち着き、忘れものに気がついた。

「やっちまった」

 俺は百段近くもある階段とその先のばあちゃんの墓を見上げた。

「ポカリスエット、そのまんまだ……」

 甘いスポーツ飲料など、墓に残していったら、虫が集まるだろう。放ってはおけない。俺は仕方なし、また長い石階段を登り始める。息を切らして登る。

 ばあちゃんの墓に蜂はいなくなっていた。さっき踏み潰してしまった蜂は墓に止まっていた蜂だったのだろうか。わからない。俺はポカリスエットを水道にこぼして、湯呑みを洗い、墓の水鉢の上に伏せた。そしてまた長い石階段を下り始める。

 行ったり来たりしている間に夕日は沈み、暗がりの寺と墓所はちょっと嫌なムードになってきた。急に肌寒くなってきたし、とっとと帰りたいと思う。

 さっき俺が蜂を踏み潰した辺りが見えてくる。そこは街頭に照らされ、袈裟を着た坊主が座っているのが見えた。駐車場に行くためにはそこを通らなければならない。ほかの道は、けっこうな遠回りになってしまう。

「こんばんわ」

 俺は挨拶した。

「こんばんわ」

 坊主は朗らかに答えた。

 良かった、と俺は思う。まともな人らしい。いや、寺なんだから袈裟の坊主なんて当たり前の存在だろう。どうして不安がったのか自分で自分がおかしい。

 それで立ち去れば良かったのだが、俺は世間話を始めてしまう。

「どうかされたんですか?」

 その言葉にたいした意味はなかった。

 坊主は答えた。

「蜂が……」

「蜂ですか?」

 俺はぎょっとした。

 よく見ると坊主は唐草模様の手ぬぐいの上に蜂の死骸の欠片を集めていた。

「蜂が死んでいたので」

「供養するんですか?」

「いえ」

「じゃあ、どうするんですか?」

「気になりますか?」

 坊主はにやりと笑い。俺は背中が冷たくなった。

「食べるんじゃないでしょうね」

 俺は生来の軽口を飛ばす。

「食べたりはしませんよ。これはあなたのおばあさまでしょう?」

 俺は自分の耳を疑った。

「は? え?」

 坊主は冗談だとも訂正せず、蜂の死骸をいじりだした。

 俺は気を取り直して言った。

「さっきの独り言、聞かれちゃいましたか」

 俺は坊主が笑ってネタバラシをするのを待った。

 坊主は無視して話す。

「身内を殺してしまうのは、事故であっても気分が悪いでしょう」

 俺は気味の悪さがだんだんと怒りに変わっていくのを感じた。

「そんなふうにからかわないでください! たかが蜂でしょう」

「それはすぐにわかりますよ」

 坊主は蜂の死骸を手のひらに載せて、こちらに見せた。

 ぶうんと羽音が鳴る。

 俺は腰を抜かした。アスファルトの地面に転ぶ。

 ぶうんぶうんと鳴らして蜂は坊主の手の上から飛び立った。

 まっすぐ俺に向かってくる。逃げたかったが上手く体が動かなかった。

 蜂は耳元に寄ってきた。

「――――――」

 蜂は俺の名前を囁いた。

 耳元で羽音とともに。

「あっ……ひ……」

 俺の悲鳴はまともに声にならなかった。

「どうやら、この蜂はあなたのおばあさまで間違いないようですね」

 坊主は言う。その声はひどく遠くに聞こえる。

 俺は答えられない。

「私はですね、壊れたものを直すのが好きなんです。子供の頃はよくゲーム機やコンピューターなんかを修理して、友人たちに重宝がられました。リサイクルショップをやって儲けていた時代もありました。楽器なんかがよく売れましたよ。そんな修理好きの私も、ある時、大切なものを壊してしまいましてね」

 坊主はあさっての方を指差す。

 俺は目だけ動かして、そちらを見た。そこには二人の女が突っ立っていた。華やかなパーティドレス姿。顔の周辺だけ塗りつぶされたみたいに暗く、表情はうかがえない。

「妻と娘です。身内を殺してしまうのは、本当に気分が悪いです。だから私は直すことにしたんです。上手く行きましたよ。才能があったんでしょうね」

 坊主が長々と話しているのが、現実のことなのか、俺の頭が狂ってしまったのか、俺にはもうわからなかった。

 やっと体に力が入り、俺は立ち上がるとともに駆け出した。

 二人の女が立ちはだかり、俺を捕まえた。二人とも女とは思えない怪力だった。俺はアスファルトに押さえ付けられる。

「いてえ! なにしやがる!」

 ジタバタするが、どうにもならない。

「くそ! はなせ!」

「まあまあ、落ちついてください。心配はいりません」

 坊主は俺の目の前に来ると、しゃがんだ。

「自分の才能に気付いてからのことです。私は、ほうぼうを旅して、壊れてしまった人たちを直して回ることにしたんです」

「だから、どうした! 俺には関係ない! 勝手にやってろ!」

「そして気付いたんですよ。直してみると、壊れる前より、ずっと性能がよくなっているんです。この二人はどうです。すごい力が出るようになりました。今では私に殺されたことさえ感謝しているんです」

「やめろ! 俺は何も聞いてない! 見てない!」

「そんなわけないじゃないですか。壊れてしまったんですかな。どれ、見せてください。直してさしあげます」

 そう言って、坊主は俺の頭を掴む。太い指がこめかみに食い込んでいく。頭が割れる。

「やめろ! やめろおおおぉぉぉ!」

 はっと気付く。俺は自宅のベッドに寝そべっていた。飛び起きて探すが、袈裟の坊主も二人の女もいない。

 ばあちゃんの墓にも行ってみたが、線香の燃え残りがあるだけだった。


 数年後、俺は結婚することになった。相手は願ってもない素晴らしい女性だ。その披露宴に袈裟の坊主がふらっと現れた。

 俺はスピーチで家族への感謝の言葉に続けて、袈裟の坊主への言葉を即興で述べた。

「あなたに出会ってから、俺の人生は順風満帆でした。仕事でミスをすることもなくなり、資格の勉強もすらすら頭に入ってくる。自分に合った会社への転職も叶いました。病気や怪我は一度もないし、旧友とのスポーツクラブも楽しんでいます。そして人生の伴侶とも出会えました。すべて、あなたのおかげです」

 その言葉が本心から出たものなのか。あるいは、袈裟の坊主に頭を改造されて、そう言うように仕向けられているのか。俺には判断のしようがない。だが、話した内容はすべて事実だ。記憶が正しいなら。

 披露宴会場はしんと静まり返り、次の瞬間、拍手喝采で溢れた。笑いながら泣いているものもいる。

「ブラボ!」

「いいぞ!」

「すべて彼のおかげだ!」

 大歓声を聞いて、俺はほっとした。なんだよ、もうみんな、袈裟の坊主に改造されていたのだ。謎が解けた。だから近頃では悪いニュースを一つも聞かない。戦争はなくなったし、平均寿命も伸びる一方だ。それも全部、彼のおかげだったのだ。彼は救世主さまに違いない。

 世の中が悪かったのは、大勢が壊れてしまっていたからだったのだ。袈裟の坊主さまは壊れてしまった人をみんな直してくれる。いやもうみんな直してくれたのかもしれない。

 俺のばあちゃんがマイクを奪って言う。

「わたしも孫も、たいへん、お世話になりまして、今日は来ていただいて、ありがとうございます」

 袈裟の坊主にスポットライトが当たる。彼は謙遜した。

「私のことはいいですよ。今日はお孫さんたちが主役ですから」

 招待客たちは許さずに、彼を胴上げしだした。

 そして、てんとう虫のサンバが流れ出す。音響係が気を利かせてくれたのだろう。

「アンコール!」

 その言葉がしだいに大きく鳴り響き、破裂しそうなほど膨らむと、袈裟の坊主はついに観念した。今日披露してくれた余興をもう一度見せてくれる。ハイトーンと華麗なステップ、みんな真似して踊りだした。

 俺のばあちゃんも踊る。ぶうんぶうんと羽音を鳴らした。上下左右縦横無尽に躍動する。ばあちゃんの紹介で出会った俺の妻も一緒にぶうんぶうんと羽音を鳴らしている。

 黄色と黒のボーダー柄に純白のウエディングドレスがまぶしい。はやく曾孫の顔を見せてやりたいな。蜂子と名づけるつもりだ。安直すぎるだろうか。俺ははにかむ。

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