水の惑星

 地球は干上がりつつあった。その理由を誰も知らなかった。

「海面が十メートルも下がったらしいぜ」

 イットリは四六版に広げたスマートペーパーを読みながら言った。

「十メートル下がったということは、海水がXリットルも失われたということらしい。これは地球上の水のYパーセント程度だが」

「ふうん」

 俺が生返事すると、イットリは鼻息を荒くする。

「ふうんとはなんだ。このまま行けば、地球が干上がっちまうんだぞ」

 眠くてうまく考えられない。適当な言葉を引っ張り出して答えてみる。

「このまま行けば、だろ? ちょっと前までは真逆のことで騒いでいたじゃないか。海面の上昇で、ビーチが沈没しちまうって、あれはいったいどうなったんだ?」

 イットリは即答する。

「海面上昇とはわけが違う。あれは理由がわかっていた。南極や海底の氷が溶けたせいだ。海水の熱膨張とか地殻変動も関係あるがね」

「じゃあ、海面降下は南極の氷が増えたからだろう」

「それが違うらしい。誰も理由を知らないんだ」

 俺はビールをあおった。

「金持ちは知ってるだろうな。そして庶民には知らせないんだ」

「お得意の陰謀論か」

 イットリは鼻で笑う。

 俺は言い返す。

「お前こそ、地球が干上がるなんて話を本気にしてるじゃないか」

「明日も明後日も海面が下がり続けるなら、可能性はあるだろう。見る見る間に地球は火星みたいな枯れた星になるぜ」

「それが俺らになんの関係がある?」

「大勢の命に関わる問題だろ」

 イットリはやたらに混ぜた酒を舐める。

「きっと水の争奪戦が起きる。命がけの」

 まだ話し続ける。いつになく饒舌だ。かなり酔いが回っているらしい。

「そうなる前に、まずは水の買い溜めをするべきだ。今のうちに一生分を買っておく。バレたら取り上げられるかもしれないから、隠しておける場所も必要になるな。いよいよ戦争になったときのために核シェルターもほしい」

「いい考えだが、大事なことが抜けてるぜ」

「なんだ?」

「浄水器だ」

「浄水器?」

 俺は思いついたことを話す。

「水がなくなる。水道から水が出てこなくなる。水のストックがなくなる。一生分のストックなんて現実的じゃないからな。さて、どうする?」

 イットリは答えなかった。

「俺たちは股間の蛇口をひねって、それを飲むことになるのさ」

「汚えな」

「だから浄水器だ」

「いくら浄水したって、小便を飲むのは嫌だな」

「だよな」

 俺は小さく笑って、ビールの残りをあおると立ち上がった。

 イットリが聞く。

「どこ行くんだ?」

「小便」

「はいはい」

 イットリは手を振って、さっさと行けと合図した。

 あくびが出る。

「はーあ、立ったまま寝ちまいそうだ」

 言いながら、俺は便所に向かう。

 オット社の全自動肛門洗浄乾燥機能付き高級便器だ。前に立つとセンサーが反応し、便蓋が上がる。俺はリモコンで便座も上げて、ズボンを半ケツまで下ろした。モノが飛び出る。

 ――ジョボボボボボボ

 なんとも言えない開放感だ。このために生きている。ビールをごくごく飲んで、小便をジョボジョボ出すのだ。人間だもの。

 俺ははっと我に返る。

 立ったまま寝てしまったらしい。

 ――ジョボボボボボボ

 下を見る。

「まさか小便しながら寝るとはな」

 しかしすぐに目を覚ましたらしい。小便は勢いよく出ている。いくらビールを飲みまくったからと言っても、小便は三十秒も続かないだろう。だからそれより短い時間だ。

 俺は独り言つ。

「寝ていたというより、一瞬だけ気を失ったのか」

 小便が途切れるのをじっと待った。

 ――ジョボボボボボボ

「ハハハ、そうとう出るな」

「おいっ! 大丈夫か!」

 イットリの声だ。俺が答える前に、ヤツは便所のドアを開けた。

 涼しい風が俺の半ケツを撫でる。

「うおっ、なにしやがる! 俺は小便中に背後に立たれるのが一番キライなんだ!」

 イットリは舌打ちして、ドアを閉めた。

 俺はすかさずドアの向こうに呼びかけた。

「いったいどういうつもりだ? 俺のモノに興味でもあるのか? あ?」

「少なくとも、お前の粗末なモンには興味ないね」

「そりゃ、ありがてえ」

 ――ジョボボボボボボ

「お前、いつまで小便しているつもりだ?」

「うるせえな、もう終わるよ」

 ――ジョボボボボボボ

「まだか?」

「なんだよ、静かに待てねえのか、ああそうか、お前も小便か」

「そうだよ」

「一分や二分くらい、我慢しろ」

「ふざけるな、お前はもう十五分も便所に入ってるじゃねえか。だから俺は心配して」

「は? くだらん冗談はよせよ」

 ――ジョボボボボボボ

「景気のいい量を出しているようだな」

「ああ、飲みすぎたらしい」

 イットリは怒った声を上げる。

「ジョボジョボジョボジョボ、ずっと聞こえてんだよ。こんな大量の小便出すやついるわけねえだろ!」

 涼しい風がまた俺の半ケツを撫でる。

 俺は叫んだ。

「開けんじゃねえ!」

 イットリは狭い便所に乗り込んできた。

「おい!」

「小便している真似だろ! ボトルの水でも流して、もったいねえ」

 イットリは肩越しに俺のモノを見た。

 モノのスリットから小便が出ているのをしっかり確認しやがった。

「これで満足か? 麻薬警察かよ。サンプル取るか? え?」

「うるせえ、どけ!」

 イットリは俺の腰をつかんで、横にどかせた。

「おっとっとっとっと、こぼれる、こぼれる」

「俺の部屋だ! 死んでもこぼすんじゃねえ」

 イットリはそう言いながら、ジッパーを下ろす。

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボボボボボボ

 二人の小便は渦を巻いて、便器がごくごく飲み下す。

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボボボボボボ

 二本のソーセージが並んで用を足す姿はなかなか奇妙だった。

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボボボボボ

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボボボボ

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボボボ

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボボ

 ――ジョボボボボボボ

 ――ジョボ

 ――ジョボボボボボボ

 ――ピッピッ

 イットリはものをしまった。用が済んだので、便所から出ていく。バタンとドアが閉められて、俺は便所に一人取り残された。

 ――ジョボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボ

「なあ、まだか?」

 イットリがドア越しに聞いてきた。

 俺は聞き返す。

「お前はもう出ないのか? 横にちょっとずれてやるぞ。さっきみたいに」

「俺はもう出ないよ」

「そうか」

「ちょっと試してもらいたいことがあるんだ」

「なんだ?」

「ちょっと舐めてみてもらえないか?」

「え?」

「舐めるんだよ」

「なにを?」

「小便をだ」

「どうして、そんなこと」

「お前のその小便、もしかしたらすごく塩辛い気がするんだが、それを確認してほしくて」

 俺はもちろん、自分の小便を舐めてみる気などない。

 答えないでいると、イットリはドア越しに話を始める。

「さっきの話の続きなんだが……海面が下がってるって話だよ。ある学者が潮の流れを調査して、その結果をもとに仮説を発表したんだ。それによると、もちろん眉唾なんだが、海底に時空の切れ目のようなものが出現して、そこに海水が吸い込まれて消滅しているらしい」

 俺は答えなかった。

 イットリは続ける。

「時空の切れ目があったとして、それはどこかに繋がっているんじゃないだろうか。入り口と出口だ」

 俺の小便は勢いを増していくように見える。

 イットリは話し続ける。

「時空の切れ目なんてものはオカルトだから、それがどこに出現しても不思議じゃない。たとえば、誰かの膀胱に時空の切れ目ができてもおかしくないだろう。時差があったが、海底と膀胱、その二つの区間が開通したんだ」

 イットリはまだ話す。その弁舌は俺の小便のようにとめどなかった。

「近代を支配していたのは石油を独占していた連中だ。しかし水を独占できるとなったら、それ以上だ。そんな膀胱を持つ男は億万長者、いや地球の支配者になれるかもしれない」

 イットリは狂ったように笑って話し続ける。

「お前の言うように、浄水器を買っておこうかな。いや、買い占めよう、借金したっていい。待てよ、もっといい方法がある。浄水会社をおこすんだ。それからやっぱり核シェルターは必要だな。なあ、どう思う?」

 イットリは喜々としている。

 俺はやっとのこと声を絞り出した。

「それより……」

「もっといいアイディアがあるのか?」

「いや……」

 小便はぐるぐる回って流れていく。途切れることがない。

「すっきりしてえんだよ。ちくしょう。勢いが止まらない! モノがもたねえよ! 医者を、いや学者を呼んでくれ! 助けてくれ! なんとかしてくれ! 時空の切れ目でもなんでもいいから、閉じてくれ! ああ、神さま!」

「わかった」

「頼む! 速く!」

 俺の半ケツをまたまた涼しい風が撫でる。ドアが開けられたのだ。

 イットリは肩越しに顔を出して言った。

「まずは味の確認だ。塩辛ければ……」

 脇から手が伸びる。

「やめろ!」

 俺は反射的にイットリの手をはじいた。手を離してしまったせいで、俺のモノは暴れ狂って、辺りに小便を撒き散らす。瞬間、急激に小便の勢いが増し、消防車の放水ほどの威力になる。俺は耐えきれず、足が浮き、トイレから飛び出す。

「うおっ!」

 さながら人間ロケットだ。

「あ、あ、アッ」

 床に叩きつけられる。

「ギャ! いてえ! クソッ!」

 俺は首だけ振り向く。

「大丈夫か! おい!」

 伸びた男の顔、イットリは俺の背中と床に挟まれて気絶していた。俺のクッションになってくれたとも取れる。

「ちくしょう……」

 天井に向かって噴水のように小便が出てくる。見る見る間に部屋をいっぱいにする。コンピューターはお釈迦だろう。いや、それどころか、この建物は完全に密閉されているのだ。このままでは溺れ死ぬ。

 俺はイットリの襟首をつかんで泳ぎだした。すぐに水をかいたり、足をばたつかせる必要がないことがわかる。モノの向きを変えれば、小便の出力で、潜水艦のようにゆうゆう進むことができた。もう小便の勢いはジョボボボボボボという可愛いものではなく、ズドドドドドドと噴出している。

 小便が満ち満ちていく通路を通って、外につながる扉にアクセスする。生体認証が通り、扉が開く。大量の小便とともにドバッと吐き出される。

 外で作業をしていた仲間たちが叫ぶ。

「どうした!」

「なにがあった!」

「なんだこの水は!」

「つめてえ!」

「しょっぺえ!」

 そんな声や、あるいは悲鳴が聞こえていたのは、ほんの数秒のことだった。あっという間に小便がすべてを飲み込んでいく。俺は急流に翻弄され、イットリの襟首を手放してしまう。彼の姿もあっという間に遠ざかり、多数の人影に紛れる。水中、誰が誰かもわからず、とても探し出せそうにない。しかし俺はたいして悔やむこともなかった。こうなれば、みんな同じ運命だ。

 小便の勢いはもはやダムの放水レベルで、ゴォゴォゴォゴォゴォゴォと轟音を発している。全身の皮膚が鼓膜になったみたいにうるさい。これほどの勢いというのに俺の膀胱は破裂せず、尿道も裂けはしない。どうやら時空の裂け目とやらは俺の膀胱ではなく、俺のモノの先端に貼り付いていたらしい。先端の感覚はとっくになくなっていた。あるいは放尿感があるところから類推して、時空のねじれかなにかの作用で、膀胱と尿道は大丈夫なのかもしれない。それ以上はもう考えられなかった。

 走馬灯が走る。とりとめのない人生の場面が連続し、今に繋がる。火星に来たのは一年前だった。その一ヶ月前にはスペースシャトルに乗り込んで、地球をあとにした。

 火星を人の住める環境にしようという、いわゆるテラフォーミング計画。俺はその現地、火星プラントでの研究員だ。夢はかなったが、やってみるとそれほど面白い仕事ではないことがわかった。大学の研究室にいた頃との違いはほとんど感じられない。しいてあげるとすれば、外の風景が延々と続く赤い砂漠になったことくらいだ。

 俺の住む火星プラントは小さな街のような感じで、いくつかの建物がある。スペースシャトルにくっつけて持ち込まれたもの、あるいはスペースシャトルそのものの再利用だ。それらを含めた街全体を卵型の巨大な透明ドームで覆って密閉している。人体に有害な外気から身を守るためのものだ。逆にドームの中で発生する有害物質は好き勝手に放出している。火星の嵐にも耐えるドームの頑丈さはさすがで、内側からこれだけ大量の水を受けても、まだ壊れなかった。

 水が満ちていく。水圧の変化で膨張した深海魚たちの奇妙奇天烈な姿が目に留まる。ダイオウイカやチョウチンアンコウを見つけて確信する。やはり俺のモノは地球の海底と繋がってしまったのだ。

 俺は機会を見て、大きく息を吸う。それから小便の流れに身を任せ、ぷかぷかたゆたいながら水底を見る。赤い大地が遠のいていく。空を飛んでいるようだった。こんなふうに死にたくないなとは思うが、どうしようもない。

 息継ぎを繰り返して、しばらくの後、ドームの天井に背中がつき、火星プラントが完全に水に満たされたことを知る。外から見ることができれば、土産物のスノードームのようでキレイだろう。

 これだけ出しても、まだ俺の小便はとめどなく出続ける。水圧が高まっていく。耳が潰れそうだ。ドームがミシミシとないているのを感じる。俺の体ももうもたないだろう。そして酸欠と水圧と寒さで途絶える意識、最後の瞬間に、俺は火星という新しい水の惑星を思った。

 そこでは滅んだ人類に代わって、新しい人類が似たような文明を育んでいる。新人類は火星を地球と呼び、地球を火星と呼んでいる。そして誰もが巡り巡って俺の小便を飲んでいるのだ。

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