Ⅱ・夜の鯨の依頼_2


 翌日、ロキは早朝に家を出たきり、よるおそくまで帰らなかった。アステラは自責の念だけをつのらせてもんもんと一日を過ごし、浅いねむりの中で何度も悪夢を見た。

 そして朝。

 アステラが居間に向かうと、家主はもう起きていた。赤いソファに腰かけ、うでみをしているロキ。アステラはどんな顔で声をかければいいのか分からなかった。

(何よりもまず、謝らないと)

 心配をかけたこと、をさせたこと、そしてひどい言葉をいたこと。けんは初めてではないけれど、今回ばかりはいつものように自然に元通りになるとは思えなかった。

 アステラはロキの向かいのソファに腰を下ろした。かたを縮こまらせ、彼の顔色をうかがう。

「おはよう、ございます」

 ロキはうなずく。おこっているようには見えなかった。でも、いつもの気のけきった顔でもなかった。張りつめた表情は、何か決意を固めたような。

「ロキさん、あの」

らいだ」

 ロキは短く言った。

「夜の鯨から」

「えっ!?」

 アステラは思わず身を乗り出した。ロキが夜の鯨本人から依頼を受けるのは、アステラがここに来た日以来のはずだ。

 ロキはローテーブルの上に一通の手紙を差し出す。

「からす便で届いた」

 アステラは恐る恐るその手紙を持ち上げ、食い入るように読んだ。夜の鯨本人の言葉。手が震えて、味気ない活字を拾っていくのに、いつもの倍は時間がかかった。

「夜の鯨は、最近調子に乗ってる中央星府に相当腹を立ててる」

 ロキが短くまとめる。アステラは一昨日おとといのことを思い出した。夜の鯨の居場所を吐かなければ手持ちのせいせきすべぼつしゆうすると言っていたせいどうたち。ほとんどきようかつに近い横暴だ。でも、実際一昨日のようにせいじようきつけられたら……。アステラは今でもぞわりと寒気がする。

「星導士たちはいったん引き上げたようだが、一昨日の時点ですでにずいぶん没収されてる」

 ロキはアステラよりは冷静に、たんたんと続ける。

「そこで、依頼だ」

 手紙を指さされ、アステラはたんてきに目的を述べた部分を読み上げた。

「星導士協会本部にせんにゆうし、取り上げられた星輝石を取り返してほしい」

 アステラは少し考えてから、顔を上げた。

「……受けるんですか?」

「殺人と害虫じよ以外の依頼は断らない主義だ」

 黄色いひとみをした便利屋は、いつもの台詞せりふり返す。

「で、提案なんだが」

 そこでとつぜんこわいろが変わった。彼はいくぶん肩の力を抜き、世間話でもするみたいに、

「アステラ、お前やれ」

「えっ?」

 アステラは何を言われたのかいつしゆん理解できなかった。

「この依頼、お前が受けろ。成功したら夜の鯨に会わせてやる」

「夜の鯨に!? でも、え? 会えるんですか?」

「依頼は断らない主義だって言ったろ?」

「え……」

 ──夜の鯨に会わせてください。

 一昨日アステラが放った言葉。あれを、彼はアステラからの依頼として受け取ったのだ。

「ロキさん、もしかして、夜の鯨に伝えてくれたんですか?」

こうかん条件だ。お前が依頼を果たせば、会ってやってもいいと、夜の鯨は言ってる」

 アステラの心臓はかつてなく高鳴っていた。これは喜び? 不安? 何にせよ、アステラが心から求めていたものが、手の届くところに今、ぶら下げられている。

「ただし、俺は手助けしないぞ。独り立ちしたいと言った以上は、自分の力で依頼を果たせ」

「自分の力で……」

 これは試験なのだろうか? アステラは夜の鯨にためされているのだろうか?

 今、アステラがべば。自分の力でここから飛び出して、そして手をばせば。細い指先に、今度こそかがやく光をつかめるかもしれない。

「会いたいって本気で思ってるなら、行動で証明しろ」

「……分かりました」

 アステラは決然と、前を向いた。大きな紺色の瞳にれる赤い光がともったのを、ロキの黄色い目だけが確かにとらえた。

「やります。やらせてください」

 ロキは満足そうに、けれど少しだけ寂しそうに、深く頷いた。

「よし、じゃあ作戦を説明する」




 全天に星座は八十八。それに合わせて、地上も八十八の星区に分かれている。それらは春の宮、夏の宮、秋の宮、冬の宮と、四つの宮にまとまっていて、中でも今は冬の宮が世界の中心とされている。そこに、全天をべる現てんていがおわすからだ。

 最も強い力を持ち、その力でもって星の原全土を治める星導士・天帝。星導士協会長と中央星府長官をねる彼は、あらゆる権力を一手ににぎっている。

 現天帝は、オリオン座の一等星・ベテルギウスの星の子だ。星の名をかんし、そのままベテルギウスていと呼ばれている。冬の大三角にあたる地域は、現在彼の直接の支配下にある。

「冬の大三角の中には、実はもう一つ星座がある。アステラ、分かるな?」

「いっかくじゅう座ですね」

 冬の大三角に飛び込むように、意外に広いいっかくじゅう座が、天の川を横切っている。明るい星がなく、目立たない星座だが、星の原ではきわめて重要だ。オリオン区、おおいぬ区、こいぬ区という三つの天帝ちよつかつに囲まれた、いっかくじゅう区。またの名を天都。

「天都は冬の宮のちゆうすう。そこに天帝がいる」

「天帝が……」

 あまりにえんがなさすぎて、アステラはおそろしさすら感じなかった。

「アステラ、お前には学院に向かってもらう」

 正式なめいしようは、星導士協会本部。全ての星導士が所属する星導士協会の最重要きよてんだ。星導士の養成機関と研究機関とを兼ねているので、簡単に学院と呼ばれることが多い。元々は独立した組織だったが、星の子の中でも特にゆうしゆうな人材をはいしゆつする機能上、中央星府とのちやくささやかれて久しい。星導士の資格があれば、中央星府での出世は約束されたようなものだ。

「でも、学院って星の子でも星導士以外は立ち入りが禁止されてるんでしょう? そんなに簡単に潜入できるんですか?」

「今だけはな」

 ロキはそこで突然、ぐっと身体からだを前に乗り出した。ローテーブルに左手をついて半立ちになり、向かいのアステラに顔を近づける。

「アステラ」

 きんぱつの美青年は、右手でアステラのあごを掴むと、上を向かせた。まえがみがはらはらと流れ、ロキの顔が間近にせまる。アステラは可能な限り速くまぶたまたたかせて心を落ち着かせる。

「ロ、ロキさん?」

 ロキはい黄色の目で、こちらをまっすぐのぞき込んだ。

「前から思ってたんだが……」

 きゆうじようしようする体温を下げるため、アステラが頭の中で一等星の名前をれつしはじめたとき、

「お前の目、たまに赤く見えるよな?」

「え?」

 アステラの高速まばたきがぴたりと止まった。

「……あ、え、まあ、光の当たり具合によっては。でも実際はこんいろですよ。知ってるでしょ」

 目の前に疑いようもないほどの美しい黄色の瞳があるのに、こんなことを言うなんて鹿みたいだ。急速にふくれ上がった心が、しゅんとしぼんでいくのが分かった。

 ロキはアステラの顎を?んでいた右手を外し、左手と共にローテーブルについた。

「アステラ、お前は今から、星の子だ」

「……はい?」

 ロキはぱっと体をはなすと、何事もなかったかのように、再びソファに深く身をしずめた。そして、かばんからかわ製の書類入れを取り出すと、アステラにわたす。

 アステラは混乱しながら、ハトメの留め具に巻き付いたひもを外し、中の書類を取り出す。

 一番上の紙には、こう書かれていた。

 星導士協会新規星導士候補生せんばつ試験・しゆうようこう

(これって、もしかして……)

「学院の入試!?」

「そうだ。受けろ」

「え」

 アステラの声がねる。

「受けろって、私が? いや、だって私、星なしですよ?」

「言ったろ、お前は星の子だ。お前の目、ちょっと赤っぽいしゴリ押しすれば行けるだろ」

 しどろもどろになるアステラを、ロキは投げやりな調子で言いくるめようとする。

「そんな無茶な!」

「星の子でも、親星が暗くて色がはっきりしない場合は、夜に近い色の瞳になる。ほとんど黒に近い暗い青とか……こげ茶っぽいオレンジとか」

「そ、そうなんですか」

「まあ、そんな暗い星の子はそもそも学院の試験なんて受けないが」

じゃないですか!」

「いいか、よく聞け」

 ロキは長い足を組み、重ねたひざの上で指を組み合わせた。

「学院はとにかく警備が厳しい。基本的に外との出入りはかいだ。だが年に一度、入試のときだけは、せいどうを目指す星の子たちが全土から集まってくる」

「星導士を、目指す……」

 つかの間、アステラは想像した。学院という最高研究機関で、ほしほうを学び、星の光の使い手として高みを目指す。アステラだって星の子ならばきっとあこがれるだろう。

 だが、それとこれとは別だ。だってアステラは星なしなのだから。

「連中に巻き上げられたせいせきは、学院のどこかにあるはずだ」

 アステラを置いてけぼりにしたまま、ロキはどんどん話を進める。

「受験生のふりをして学院にせんにゆうし、さがせ」

「えっと、私が、ですか?」

「何度も言わせるな。お前がやるんだ」

 ロキは割り切ったように言った。

「もうかくす必要もないから言うが、俺は昔学院にいた。卒業して、しばらくの間星導士もしてた。顔が割れてるから動きづらいんだ。絶対に俺の名は出すなよ」

「ちょ、ちょっと待ってください、ロキさん」

 情報量が多すぎてついていけないアステラのために、ロキはいったん言葉を切った。

「私が、学院に……」

 アステラはつぶやく。現実みはいっこうにかなかった。

 雲が割れて、天窓から光が差し込む。かべぎわたなを日光がかすめるとき、雑然と並んだびんの中の星輝石が思い思いに輝きを放ち、色とりどりのかげを作った。いつもどこかで雪崩なだれが起きてちっとも片付かない部屋、ロキのいかがわしい実験室、二人で夜空を見上げたベランダ。アステラが息をするたびに、その光景が遠く過去のものになっていく。

「私……」

 アステラは海に出なければならない。この温かい港に背を向けて、ぎださなければならない。出航のかねを鳴らしたのは、アステラ自身なのだ。

「もう子どもじゃないんだろ?」

 ロキの念押しと共に、風向きが変わった。いかりを上げろ。を立てろ。アステラの船の針路が、ここでぶんする。

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