Ⅰ・星の子と星なし_2
「じゃあ一つ質問をしよう」
先ほどの
「いいか、簡単な質問だ。足し算より簡単だぞ」
黒服の男は机の上で手を組むと、
「ここは何をする場かな?」
アステラは肩をきゅっと縮め、苦々しい表情で答えた。
「
「満点はあげられないな」
正確な答えを求められ、手のひらが
「……
「よくできました」
(目が笑ってない!)
アステラが心の中で悲鳴を上げる中、鼠似の男は硬い息をつくと、
「分かりやすく説明しようか。こっちが地下で、あっちが天上」
机の上に万年筆を置き、二つの区画に分けた。
「こっちに住むのが星なし。そしてあっちで暮らすのが星の子たちだ」
そう、星なしと星の子の生きる世界の間には、明確に線が引かれている。地下鉱山と天上世界。星の原を水平に分断する、一本の線。
男は
「うお座の石ですね」
「よく見ただけで分かったな。大したもんだ」
「え? ああ、まあ確かに
つい
「こっちが地下で、あっちが天上」
「は、はいごめんなさい」
「もう怒ってないから謝るな。いいか、我々星なしが毎日毎日鉱山を
鼠はさざれ石の山を指さした。暗い星の星輝石は大きな
「で、集めた星輝石を」
しかし、彼はせっかく作ったその星輝石の山を丸ごと掴み、天上世界側に移動させた。
「こうやって毎月、
溝鼠は零れ落ちた結晶も
「各区から上納された星輝石は中央星府で管理され、配給という形で再び各区に分配される」
男は天上世界側に移った星輝石の山の中から、ほんの一粒二粒──笑ってしまうくらい少ない量をつまみ、地下鉱山側に戻した。
「ご覧の通り、
「公正、ですね」
アステラは
「星の子なら高価な星輝石を好きなだけ買えるんだろうが、我々はそうは行かない。だが
男の言葉は真に
「だから、我々がいるんだ。分かるな?」
男は
「ここはただの市場じゃない。夜の鯨の闇市だ」
溝鼠──闇市の
「星府の公正な配給ではちょっとだけ足りない分を、いろんなところからいただいてきた石で
そう、ここは
その闇市を取り仕切っているのが、夜の鯨。五年前、
冬の宮の地下で
「夜の鯨は星なしの味方だ」
夜の鯨は、いわば
「だが闇市は闇市だ。星府にはもちろん目をつけられてる。
男はそこまで言って、
「……って、何度説明したら分かるんだ? アステラお嬢さん」
実はこういう説教を受けるのは初めてではない。アステラは頭を低くし、もう何度目かのお
「すみません、溝鼠さん」
「謝罪に悪口を混ぜるんじゃない」
「あー、ほんと、うちの子が
そこで第三の声が割り込んだ。アステラはむっとして、
「ロキさんの子じゃないもん」
「当然だ。俺の子ならこんな
「うっ、言い返せない……」
アステラの
「あんたも苦労するな、便利屋」
「お
「さっきから自覚がないみたいだが悪口だからな、それ」
男は
「ともかく、おかげさまで大損失だ。夜の鯨の娘じゃなきゃ、とっちめてるところだぞ」
鼠の言葉の後、
「闇社会のボスの
「……ごめんなさい」
しゅんとするアステラの隣で、ロキも居住まいを正し、頭を下げる。
「いや、目付役は俺だ。
再び顔を上げたとき、揺れる
「その目で言われると変な気分だ」
そう、黄色や青、水色、赤……、星の色をした
「星の子が星なしに頭を下げるとはね」
溝鼠は
星の子は、星輝石を
(それに、
アステラは隣の青年を
星の子の証明ともいえる、星魔法。星の名を唱えたり、宙に図形を描いたりして、星の光を具現化させるものだ。星の子にのみ使える魔法で、星なしにとっては、
でも、ロキはそれを使わない。瞳の色以外、星なしと何も変わらない暮らしをしている。
「……星の子がみんな、あんたみたいな
「あれ、もしかして俺、
「調子に乗るな。とっとと帰れ」
ぴしゃりと言いつけ、鼠は立ち上がった。
「なんにせよ、気をつけることだ。最近取り締まりが強化されてるから」
「取り締まり? いつものガサ入れか?」
中央星府だってただ手をこまねいているわけではない。どこかに密告者がいるのだろう、
しかし今回は、いつもと様子が
「どうも今度のは、やり方が乱暴だ」
「乱暴?」
鼠の
「ああ。夜の鯨の居場所を吐かなきゃ、手持ちの星輝石を
「ひどい……」
アステラが思わず
「だが、
「当然だ」
鼠は壁の紋章を見やった。つられてアステラとロキの視線もそこに集まる。
「夜の鯨の正体は誰も知らない」
そう、闇社会の支配者・夜の鯨は、絶対に人前に姿を現さない。彼ら仲介人への指示も、書面でのみやりとりしているという。
「俺たちはおろか……、実の
意味ありげな視線を寄せられ、アステラは紺色の瞳を泳がせる。溝鼠は煙草を地面に捨てると、
「
こいぬ区、第三鉱山の底。
とにかく目につくのは大量の本、星図、
「さて、アステラ」
ドアを閉めた
「仕事を初日でクビになったのは、まあ許そう。
「ひどい!」
ロキはポケットから十徳ナイフを取り出すと、慣れた手つきで柱に傷を入れた。いつからか、ロキは
「おめでとう、あと一回で六十連敗だぞ。今週末は記念パーティだな」
「
「呪いじゃない、統計的予想だ」
ロキはナイフを
「お前が新しい職場で棚を
アステラの法則一、アステラの周りには安定しているものでも倒れさせる
「やりたくてやってるわけじゃなくて……全部たまたまなんです。ついてなかっただけで」
「分かってる。だからそれは許す。だが」
ロキの声は、そこでまた一段階冷たくなった。
「仕事は何時間も前に終わってたはずだな?
目をそらそうとするアステラに、ロキはいよいよ語気を強めて、
「アステラ、何度も言わせるな。闇市に行くのはやめろ!」
「でも」
「でも、じゃない。お前に何かあったら困るのは俺なんだ」
子どもをあやすように、ロキはアステラの
「仕事だから、ですか」
「ああそうだ。残念ながらな」
そう、ロキがアステラの世話を焼くのは、それが便利屋としての仕事だからだ。
ロキは夜の鯨からアステラの養育を任され、五年前から彼女を手元に置いて育てている。しかし、事情は少し複雑だ。というのも……、ロキはもちろん、アステラ本人もまた、夜の鯨の正体を知らないのだ。
「さんざん顔に
「泥塗るも何も……、その顔を覚えてないんだもの」
そう、アステラには五年前、十一歳以前の
(あの日、夜の鯨って聞いたとき、それが父さまに関する言葉だってことだけは、分かった)
でも、本名も顔も思い出せない。彼女が記憶しているのは、一つだけ。
「ダイヤモンドの中の花……」
かすれるような声でささやいたのは、たぶん、アステラの父だ。
──アステラ、ダイヤモンドの中の花だ。覚えておくんだよ。そうすればまた会える。
その言葉だけを
「いい加減
父に会うために闇市に通うアステラと、彼女に安全な場所にいてほしいロキは、何度も
ロキは上着を
「だいたい、どうしてそこまでして夜の鯨に会いたいんだ? 会ってどうする?」
キッチンの奥に
「その貧相な身体の文句でも言うのか? 発育の良しあしは親の責任じゃないぞ」
「どうしてそう、いちいち神経
皮肉屋の家主に、アステラは声を
「そりゃ会いたいですよ。父なんですよ!」
コツコツ。
そのとき、居間の窓を
「会って、それで、世話役にはもっとしっかりした人を選んでくださいって、そう言いますよ」
「失礼な
飛び込んできたのは、銀白色の
「……こういうところですよ」
アステラは低く呟きつつ、その手紙を開いた。
「何か言ったか?」
「からす便です」
からす座は神々の伝令役だった白い烏を表した星座だ。そのからす座の
「マーガレットって人から、食事会は来週に、ですって。この前はキャサリンって人から同じような手紙来てませんでした?」
アステラは
「こら、人の手紙を勝手に見るな」
そこでロキがやって来て、アステラの手から手紙をひったくる。アステラは彼を見上げ、
「その人
「依頼人だよ」
「
「あっちがそう
「
冷たい目でじっとり見られ、ロキは手紙を手にしたまま、
「ロキの便利屋は何でも
「はいはい」
ロキのいつもの口上。決して
(そもそもどうして星の子が地下鉱山で便利屋を? 永遠の
星の子でありながら、絶対に星魔法を使わないロキ。代わりに
とはいえ、そんな
(訊くとしたら、夜の鯨本人に)
夜の鯨の正体は誰にも分からないという。でも、アステラは、諦めたくなかった。
だって、諦めなくていいって、そう教えてくれたのは、ロキなのだ。
あれはいつだったか、アステラが近所の子どもたちにいじめられたとき。
「アステラ、泣くな」
「泣いてるのはあいつらの方です」
子どもの
「あいつら、わたしのこと、捨て子だって」
帰り道、
「昔のこと覚えてないなんて嘘だ、本当は親に捨てられたんだって」
記憶がない以上、
(どうして父さまはわたしをロキさんに預けたんだろう? どうして
幼いアステラは、そこで後ろから引っ張られて立ち止まった。ロキが足を止めたのだ。彼は
「ロキさん、わたし、
アステラがそのときそう口にしたのは、本心だったと思う。
「だって寂しいっていうのは……、持っていたものを失くして
あるべき場所から
「わたしは最初から持ってないもの。わたしは、最初から空っぽだもの」
顔も知らない父のことを思うとき、身体の真ん中に空いた穴をすうすう風が通るようで、アステラはなんだか空寒くなる。でも、これは寂しさではない。その穴が開いたときの痛みを、アステラは、思い出せないから。
「ねえ、ロキさんはどうして星の子なのに星魔法を使わないんですか?」
「……どうしてそんなこと訊くんだ?」
「ううん。ただ」
「わたしは星なしだから捨てられたのかなって、思ったんです」
もしアステラが星の子だったら……、夜の
なんて、想像しても
「わたしは星なしだから、夜の鯨にも会えないし、役にも立てない」
「アステラ、泣くな」
「だから泣いてないですってば」
アステラは
「アステラ、ほら、見てみろ」
顔を上げると、彼はこちらに右手を差し出していた。結んだ
「星輝石!」
手のひらの上に、
「きれい……」
石の内側から
「これ、ロキさんが出したんですか?」
星の子は、望めば自分の親星の星輝石を手のひらから生み出すことができる。話には聞いていたけれど、実際に
「やるよ。お前が持ってろ」
「え、いいんですか?」
アステラは目を
「不思議……これが星の光なんですね」
アステラは
(この石の親星は、今どこで輝いてるんだろう? 空を見上げれば自分の星がそこにあるって、きっと心強いだろうな)
アステラには、星は、ないけれど。
「ねえ、ロキさんの親星ってどの星なんですか? どれくらいの明るさ? 今、見えてます?」
ロキは答えず、アステラを後ろから
「わ!」
ロキの右手が光った。いや、
「大事なのは見えるか見えないかじゃない」
人差し指を伸ばすと、拳から光が
(まるで、わたしも星の子になったみたい)
「アステラ、大事なのは、自分の星を信じることだ」
ロキはアステラの右手を導き、光の線で星を結んでいく。大昔の人が夜空に絵を描いたように、星を自由に
ロキはアステラの耳元で語りかけた。
「星空は海だ。自分の航路は自分で決めればいい。進むべき道は、自分の星が教えてくれる」
「でも、わたしは」
「自分は星なしだからって、それを言い訳にして何もかも
見開いた大きな瞳は、確かに星のない夜の色をしていた。でも、
「目で見えないなら心を使え。お前の中の星を、お前が信じないでどうするんだ」
諦めるくらいなら信じろ。自分だって、見えない星を宿しているんだと。
「星の光は、未来を照らす希望なんだ」
だから、信じて。
「お前はどこにだって行ける。なんだってできる。何者にもなれるんだ」
確かにがらんどうだったアステラの胸に、そのとき初めて灯った光は、濃い黄色をしていた。
ロキは
あの日、アステラは決めたのだ。星なしの自分でもできることはあると、信じてみようと。ただいじけて待っているんじゃなく、自分で父を
「
そう声がして、ベランダで夜空を見上げていたアステラはのけぞって後ろを見た。上下さかさまの美青年が
アステラは
「ロキさん、今日のこと、まだ
「まあ
「ごめんなさい。あと、いつもありがとうございます」
ロキは答えの代わりに、アステラの頭を
ロキがアステラを心配し、闇市に行くのを止め、
アステラはそれが、むずがゆかった。
「お、雲が
「本当だ!」
にわかに元気を取り
「あ、ほら! ちょうど大三角が見えます!」
冬の夜空は、
「ベテルギウス、シリウス、プロキオン……ああ、本当に
アステラはやっぱり星が好きだ。自分は星に愛されなかったけれど、それでも。
こうやって
星の光は、未来を照らす希望だって。
彼女は
「大犬、子犬に、
冬の大三角からもう少し足を延ばして、もっと遠くまで、夜空を散歩してみよう。
大三角の一辺、おおいぬ座のシリウスとこいぬ座のプロキオンから始めて、ふたご座の弟星ポルックス、ぎょしゃ座の黄色い星カペラ、おうし座の真っ赤なアルデバラン、最後にオリオン座のリゲル。これらを繋ぐと、
「冬の大六角形」
「十分
「小さくないです!」
アステラは
「あの、私、
「どうせまたクビになるのが落ちだ」
ロキは取り付く島もない。
「アステラ、無理に働きに出なくたって食わせてやってるだろ。お前が外で危ないことせずに大人しく家にいてくれれば、夜の
「でも、独り立ちしたいんです。いつまでもロキさんの世話になってるわけにはいかないし」
「お前はいつもそう言うけどさ」
ロキはちょっとだけ、小首を
「そんなに俺と一緒にいるのが
不意に問われ、アステラはぐっと
(そういう、わけじゃ……)
アステラの無言をどう取ったのか、ロキは
「……とにかく、お子ちゃまはもう寝ろ」
「お子ちゃまじゃないです!」
そう、アステラはもう子どもではない。でも、
だから、記憶を取り戻したい。夜の鯨に会いたい。それが無理なら、せめて仕事を得て、ロキに
でも、どうやって? 磁力を失った
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