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 五月末のきちじつ

 かねてから準備のすすめられていた、安倍吉昌が末子、安倍昌浩の元服のが、ようやく行われることになった。

 通常、貴族の子弟は十一歳から二十歳はたちの間に元服をすませる。たいがいは十一歳になったらすぐに元服し、みかどよりかんたまわって出仕、となるのだ。

 後々の出世にも関係してくるので、元服は早いほうがいい。昌浩のように、十三歳までわらわ姿、というほうが少ない。

 元服は大概正月に行われる。昌浩の昔みも、先年の正月に元服し、すでに出仕している。

「ついに元服か、長かったなぁ」

 しみじみとつぶやいて、昌浩はここに至るまでの道のりを思い起こし、がらにもなくたそがれる。男子にとって元服は一生のうちで一番の大行事。なんやかんやでずるずると童姿で来たが、自分はようやく大人の世界に足をみ入れるわけだ。

 しかもへたをしたら自分は今、ここにはいなかったかもしれないのだ。彼の元服がここまでおくれたのは、そこに起因している。

「本当に長かったなぁ」

 昌浩のとなりで、物の怪がしみじみとうなずく。

 昌浩が、現在無事に生存しているのは、この物の怪がいてくれたおかげだ。彼と物の怪は、実はせいぜつな戦いをくぐりぬけてきた同志なのである。見えないが。

「いやはや、なんていうの? こう、すっごく成績の悪いがなんとか独り立ちする感じ?」

「……なんなんだよ、そのたとえは」

 まゆをしかめる昌浩をでぽんとたたいて、物の怪はにまっと笑った。

「だってさぁ、あんときゃほんとにだめかと思ったもん」

 あの時。

 思い返して昌浩は、確かになぁ、と肩を落とした。

 夏の初めのことだった。

 わけあってどうしても陰陽師にはなりたくないといい、がんとしてゆずらなかった昌浩に、ある日晴明が文を書いてよこした。

 陰陽師になりたくないならそれでもいい、だがやってみもしないで向いている、いない、とは言えないだろう。やはりここは、自分の実力を証明するべきだ。そこで、都をさわがしているあやかしを、お前ちょっと行って退治てこい。

 何を考えているんだ、と。昌浩はふんがいした。憤慨したが、晴明の命令は絶対だ。

 実は、昌浩はその当時、けんの才を失ったただの子供だったのだ。だがそのことは、昌浩自身とちょうどその頃知りあったばかりの物の怪しか知らない秘密だった。だからそういう無理難題を平気でっかけてくる。

 晴明の命令に従うのは非常にしやくさわるが、やらないわけにはいかない。

 それまで眠っていた陰陽道の知識をたたき起こし、見えないという最大の欠点を補うために、なぜかつきまとっていた物の怪のもっくんに協力をようせいして、昌浩は化け物退治に乗り出した。

 見えないきようと、初めてたりにした化け物のすさまじいしようしゆくした昌浩は、すべもなくようかいじきになるところだった。

 今もはっきりと思い出すことができる。

 足とうでに巻きついた、ぬめぬめとした舌のかんしよく。ねっとりとからみつく生ぬるい瘴気と、耳にさったおどろおどろしい異形のほうこう。八尺はあろうかというきよだいな口にずらりと並んだくしのような歯。

 だが、昌浩を救うものがあった。常に昌浩について回り、あの時は見えない彼の「目」となっていた、物の怪だ。

 物の怪は、今まさに妖怪の口に引きずり込まれそうになっていた昌浩を、その身をていして助けてくれた。こんなに小さいのに、あの妖怪の歯をこんしんの力でさえ、昌浩を救い、そして代わりに妖怪の体内に引きずり込まれていった。

 あのしゆんかんしようげきを、昌浩は多分、しようがい忘れないだろう。

 そして、絶体絶命のきゆうで、彼は思い出したのだ。

 なぜ自分の見鬼の力が消えてしまったか。

 そして、彼は大事な約束をした。

 今もすぐ傍らにいる、この物の怪と。

「……まぁ、たしかに死ぬかと思ったけど。今生きてるし。それに」

 ふと、昌浩は引きったみをかべた。

「じい様をいつか必ず見返してやると、心にちかったしな。俺は負けないっ、絶対にっ!」

「そのかくだけは立派だ。がんばれよ、晴明の孫」

 ぱしぱしと手をたたく物の怪に、昌浩はかんはついれず切り返した。

「孫言うなっ!」

 そこに、吉昌がやってきた。

たくはできたか?」

 昌浩はあわてて立ち上がった。

「あ、はい」

 実は、彼は今日、左大臣であるふじわらのみちながていを父とともにおとずれることになっているのだ。

 藤原道長は四年前に内覧のせんを受け、右大臣に任ぜられた。そして翌年には、最大の政敵であったおいせんさせ、左大臣に上った。現在の宮中においては、彼が最高権力者といっていい。近いうちにゆかりの者をじゆだいさせるのでは、といううわさもある。

 きんじようていの後宮には、ちゆうぐうがひとりとにようの君が三人いる。そこに入内となれば、また権力争いが起こるのではないだろうか。

 などという難しいことは、実はすべて長兄の成親の受け売りで、昌浩自身はまだよくわからない。だが、きゆうていおんみようを目指す以上、実力者である道長に覚えが良いほうがいいのにはちがいない。

 今日の目どおりも、道長が自ら言い出したことであるらしい。自分がぜんぷくしんらいを寄せる陰陽師安倍晴明の末の孫が、晴れて元服するという。ならば出仕の前に、一度その子を見てみたい、と。

 それを聞かされた昌浩は、俺はちんじゆうかなにかか、といつしゆん思った。が、道長は宮廷ずいいちの権力者で、かんをこうむろうものなら人生終わったも同然だ。長い一生、できるならあまり人にきらわれたくはない。

 というわけで、昌浩は吉昌とともに、藤原道長が住む東三条殿でんに向かった。

 徒歩で。

「なんつーか、昔っからだけどさ」

 吉昌と昌浩の間をてくてくと歩きつつ、ものが長い尾をひょんとる。

「陰陽師ってやつは、はつきゆうだよなぁ」

 出かけるにしても、さんだいするにしても、じろぐるまなど使ったことがない。さすがにこうれいの晴明は、地位もそこそこなので参内するときは車を使っているが、吉昌や彼の兄であるよしひらは、現在も徒歩で参内しているのだ。陰陽師という職業は、労働はこくな部類であるのに、ほうろくは決して高くないのである。

「陰陽師っていったらとくしゆ技能職って奴だろう? それでも薄給、うーん世の不条理」

 物の怪の言い草に吉昌はしようする。はばひろく豊富な知識と雑学を有している物の怪は、時々真理をついてくる。

「でも、父上やじい様は殿てんじようびとから個別に仕事を受けるから、その分は別口での収入だし、うちはそんなに大変じゃないと思うけどなぁ」

 その言葉に、物の怪は後ろ足で立ち上がって昌浩のこしをぽんとたたいた。

「そりゃ晴明と吉昌は、だ。お前なんて、出仕したってまずおんみようりようの雑用係だぞ、薄給もいいとこ。苛酷な労働少ない俸禄、晴明が四十までただの陰陽生だったのだって、えらくなってもいそがしいだけでいいことがあんまりなかったからだと俺は思うね」

くわしいですね、さすがに」

 吉昌が苦笑すると、物の怪は胸を張った。

「おうよ、何でも聞いてくれ」

「調子に乗るな」

 物の怪の頭を昌浩が後ろから引っぱたく。吉昌が目を?く横で、当の物の怪は大して痛くもなさそうに「いてぇよ、昌浩」と文句を言った。

 昌浩と物の怪のくつたくないやり取りを目の当たりにするたびに、吉昌は眩暈めまいを起こしそうになる。彼は、物の怪のがらあいきようのある外見とはまったくべつの、冷たくおそろしいほんしようを知っている。昌浩の屈託のない行動が、いつ物の怪のげきりんれるかと、気が気ではない。が、昌浩はまったくとんちやくしていない。平気でおこったり手を出したりしている。物の怪のほうもそれで問題ないらしいので、吉昌は冷や冷やしながらふたりのやり取りを見ているのだ。

 東三条邸は、西にしのとういんおおを南にまっすぐ進んでいったところにある。西洞院大路と二条大路の交差する場所。数ある貴族のやしきの中でも、もっとも広大でごうなたたずまいをほこだいていたくだった。

 道のりも半ばを過ぎただろうか。

 人通りの多い大路を、親子は並んで歩いていく。その間にいる物の怪の姿は、大半の者には見えない。

 ふいに、物の怪が首をめぐらせた。何かを感じたのか、視線を四方にさまよわす。

「もっくん? どうした?」

 気づいた昌浩が足を止めると、物の怪も立ち止まった。吉昌も不思議そうに物の怪を見下ろしている。

 物の怪は吉昌を見上げた。

「……感じないか?」

「何をです?」

 わけがわからず、吉昌は首をかしげる。

「なにがどうしたんだ?」

 物の怪は昌浩をいちべつしたが、答えない。難しそうにまゆを寄せて考え込んでいる。

 一瞬だったが、ようを感じた。それはりようで、ほかのことに気を取られていたら自分も感じ取れないほどぜいじやくなものだった。が、みように異質な妖気だったのだ。

 異形の気配には違いないだろう。だが、いまだかつて感じたことのない、不思議な。

 考えすぎだろうか。

 物の怪がいつまで待っても反応しないので、昌浩はその小柄な身体からだかかえ上げた。

「わ?」

 とつぜんの事態にろうばいする物の怪に、昌浩は言いふくめるように口を開いた。

「あのね、俺たち左大臣様のところに行かなきゃならないんだよ? 考えるのは別にいいけど、止まるのだけはやめてくれ」

 ただでさえ徒歩で時間がかかるのだから。左大臣を待たせるわけにはいかない。

 昌浩の言うことももっともなので、物の怪は彼のかたに乗った。このほうが楽なのだから、最初からこうすればよかったなぁとそのとき気づいた。

「さて、父上、急ぎましょう」

 少し歩調を速めてふたりは歩き出す。

 昌浩の肩で、物の怪は注意深く四方に気を配った。

 昌浩はともかく、吉昌も気づかなかったあの気配。それだけのことだと思う反面、直感と呼ぶべきものがけいしようを鳴らしている。

 とにかくあとで、晴明に話してみるか。

 そう結論付けて、物の怪は昌浩の肩にしがみついた。




 東三条の左大臣邸にとうちやくしたのは、さるの刻八ツ半時ごろだった。安倍邸を出たのが八ツ時すぎだったから、半時弱ほどかかったことになる。

 四十を過ぎた吉昌も昌浩も、あしこしは強いほうなので歩くことは苦ではないから平気な顔をしているが、これが常に車で移動の上流貴族だったら今頃へこたれてしまっているだろう。

 当代ずいいちの権力者の邸宅は、さすがに立派でたくさんのめし使つかいを抱えている。むかえたぞうしきに来訪を告げ、しばらくそこで待っていると、使いのにようぼうが現れた。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

 女房の後について行きながら、昌浩はめずらしそうにして邸宅の内部をきょろきょろと見回した。昌浩の肩に乗っている物の怪が、からかうように笑う。

「おいおい、この邸でおどろいてたら、だいなんてすさまじくだだっ広くてぎもかれるぞ」

「うん、そうなんだけど、やっぱりすごいや」

 安倍邸には召使など数人しかいない。それも最低限だから、極力自分のことは自分でやることになる。女房などと言うものは当然いないから、昌浩の母はとても忙しいのだ。兄たちはふたりとももうけつこんしていて家にはあまりもどらないので、昌浩は実質的にひとりっ子のようなものだった。

 人のたくさんいる邸というのが、とにかく珍しい。

 そうか、左大臣のお邸でこれなんだから、内裏は本当にすごいんだ。

「…俺、迷わないかなぁ」

 いささか心配になってつぶやくと、肩の物の怪がどんと胸をたたいた。

「任せろ。そうなったら俺が責任持って道案内してやる」

「あ、ほんと? それはたのもしい…て、大内裏にまで来る気かもっくん」

「だーいじょうぶだいじよう、大内裏なんて異形や化け物のそうくつだぜぃ。いまさら俺が増えたところで、変わらないって」

 とくとくと語る物の怪を横目で見ながら、昌浩は軽くまゆを寄せる。

 そういう問題ではないのだが。でもまぁ、物の怪が平気だと言っているから平気なのだろう。他のおんみようや参内してきた徳の高いそうりよなどに誤ってはらわれることがなければいいが。

 しん殿でんに向かうすのからは中庭が一望できるようになっている。寝殿は邸宅の中心だ。寝殿とわた殿どので結ばれた建物はたいのと呼ばれ、主人の奥方や子供たちが住んでいる。寝殿の南前は広い庭になっていて、ここではことあるごとにうたげもよおされるのだという。そして、庭の前にある池には、船をかべて遊ぶこともあるらしい。

 安倍ていの庭にも、一応池はある。申し訳程度だが。あかぼうころに昌浩は、池に落ちかけたらしいのだが、さほど大きくも深くもなかったため、無事にここにいるのだ。

 こんなに大きな池だったら、きっと自分は助からなかっただろう。

「ま、世界がちがうよな」

 生まれたときから安倍の家がすべてだったので、今更もっと上の生活があるからといってひがむようなことはない。時々、父上だって車で出かけたいときもあるだろうなぁ、つかれてたりしたら、と思うくらいで、生活に不満はないのだ。

「そうそう、上見ても仕方ないし」

 みようさとった物言いをしながら、物の怪はひとりした。

「あれが寝殿だな。で、あのしとねに座ってるのが道長。結構若いだろ」

 今日は暖かい。風通しを良くするためか、しとみは開けられは上がっている。女性ではないから、ちようで姿をかくすということもないため、茵に座りきようそくにもたれているそうねんの男性が見えた。

 せいかんな顔立ちにひげをたくわえ、すずしい目元は自信にあふれている。まとっているかりぎぬにはこうたくがあって、一目で上質の絹だとわかった。

 女房にさそわれて姿を見せた吉昌たちに気づき、道長は目元をなごませた。

「おお、待ちかねたぞ」

「お待たせしてしまいまして、もうしわけありません」

 一礼する吉昌にならって、昌浩も頭を下げる。宮中一の実力者だというからどんなこわもての男だろうかと思っていたら、予想に反しておだやかそうだ。

 女房が用意してくれたえんこしをおろし、昌浩はおとなしくしていようと心に決めた。自分のなにげないひとことが、道長の怒りを買いでもしたら、それこそ一族みなの先行きが真っ暗になってしまう。

 元服して出仕する、というのはれいではあるが、そこには必ず人間関係というものがかかわってくる。出仕するようになったら、それはさらけんちよになるだろう。

 ううむ、俺、うまくやっていけるんだろうか。

 胸の中でぐるぐると考えていると、彼のすぐ前におすわりをしたものが、しかつめらしい顔をした。

「だよなぁ。不用意な発言が元でいじめぬかれて地方にせんされちゃったっていう貴族なんざ山のようにいるし。いいか、最初がかんじんだからな、昌浩。人当たりの良いなおいつしようけんめいな見習い陰陽師としてせいいつぱい化けの皮をかぶるんだぞ」

「─────」

「お、無視するんじゃねぇよ。ひとが折角これからどんなことに気をつかえばいいかっていうことを教えてやってるっていうのに、返事くらいしろよなぁ」

「─────」

「こら、昌浩、はいと言ってみろ、はいと」

「─────」

「…晴明の孫」

「孫言うなっ!」

 それまでひたすら「にん」の一文字でだまっていた昌浩だったが、条件反射でり返した。それからはっと我に返る。

 おそる恐る視線を向ければ、驚いて言葉をなくしている道長が自分を見つめているではないか。彼はあわてて頭を下げた。

「あの、ごめんなさい。とつぜん、その、ええと」

 おろおろして言葉が続かない息子むすこを制し、吉昌が口を開いた。

「道長様、実は今ここに、見えないとは思うのですが物の怪がおりまして、それがこの子にちょっかいを出しておるのです」

「なに?」

 道長の目がかがやく。

「それはまことか? どのような姿をしておるのだ。お前が平然としていると言うことは、私に害はないのだろう?」

「ええ、それはもちろん心配にはおよびません」

「そうか、さすがは晴明の孫にしてお前の子だな。まだちゃんと陰陽師としてしゆぎようしているわけでもないのに、人には見えぬ異形のものが見えるとは」

 いや、陰陽師としての修行は物心つく前から強制的にやらされてます。

 とはさすがに言えないので、昌浩は黙っていた。すると道長は、昌浩の頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら、楽しそうに笑った。

「頼むぞ、昌浩。しっかり勉学にはげみ、わたしのために働いてくれよ」

「はい、がんります」

 頭をさえながら、昌浩はしゆしよううなずいた。と、それを見ていた物の怪が、得意そうに胸を張る。えっへん、と言わんばかりの表情だ。

「ほーら、俺のおかげでめられたじゃん」

 昌浩はとっさに反論できず、道長には気づかれないようにこっそりとため息をついた。


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