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五月末の
かねてから準備のすすめられていた、安倍吉昌が末子、安倍昌浩の元服の
通常、貴族の子弟は十一歳から
後々の出世にも関係してくるので、元服は早いほうがいい。昌浩のように、十三歳まで
元服は大概正月に行われる。昌浩の昔
「ついに元服か、長かったなぁ」
しみじみとつぶやいて、昌浩はここに至るまでの道のりを思い起こし、
しかもへたをしたら自分は今、ここにはいなかったかもしれないのだ。彼の元服がここまで
「本当に長かったなぁ」
昌浩のとなりで、物の怪がしみじみと
昌浩が、現在無事に生存しているのは、この物の怪がいてくれたおかげだ。彼と物の怪は、実は
「いやはや、なんていうの? こう、すっごく成績の悪い
「……なんなんだよ、そのたとえは」
「だってさぁ、あんときゃほんとにだめかと思ったもん」
あの時。
思い返して昌浩は、確かになぁ、と肩を落とした。
夏の初めのことだった。
わけあってどうしても陰陽師にはなりたくないといい、
陰陽師になりたくないならそれでもいい、だがやってみもしないで向いている、いない、とは言えないだろう。やはりここは、自分の実力を証明するべきだ。そこで、都を
何を考えているんだ、と。昌浩は
実は、昌浩はその当時、
晴明の命令に従うのは非常に
それまで眠っていた陰陽道の知識をたたき起こし、見えないという最大の欠点を補うために、なぜかつきまとっていた物の怪のもっくんに協力を
見えない
今もはっきりと思い出すことができる。
足と
だが、昌浩を救うものがあった。常に昌浩について回り、あの時は見えない彼の「目」となっていた、物の怪だ。
物の怪は、今まさに妖怪の口に引きずり込まれそうになっていた昌浩を、その身を
あの
そして、絶体絶命の
なぜ自分の見鬼の力が消えてしまったか。
そして、彼は大事な約束をした。
今もすぐ傍らにいる、この物の怪と。
「……まぁ、たしかに死ぬかと思ったけど。今生きてるし。それに」
ふと、昌浩は引き
「じい様をいつか必ず見返してやると、心に
「その
ぱしぱしと手をたたく物の怪に、昌浩は
「孫言うなっ!」
そこに、吉昌がやってきた。
「
昌浩は
「あ、はい」
実は、彼は今日、左大臣である
藤原道長は四年前に内覧の
などという難しいことは、実は
今日の目どおりも、道長が自ら言い出したことであるらしい。自分が
それを聞かされた昌浩は、俺は
というわけで、昌浩は吉昌とともに、藤原道長が住む東三条
徒歩で。
「なんつーか、昔っからだけどさ」
吉昌と昌浩の間をてくてくと歩きつつ、
「陰陽師って
出かけるにしても、
「陰陽師っていったら
物の怪の言い草に吉昌は
「でも、父上やじい様は
その言葉に、物の怪は後ろ足で立ち上がって昌浩の
「そりゃ晴明と吉昌は、だ。お前なんて、出仕したってまず
「
吉昌が苦笑すると、物の怪は胸を張った。
「おうよ、何でも聞いてくれ」
「調子に乗るな」
物の怪の頭を昌浩が後ろから引っぱたく。吉昌が目を
昌浩と物の怪の
東三条邸は、
道のりも半ばを過ぎただろうか。
人通りの多い大路を、親子は並んで歩いていく。その間にいる物の怪の姿は、大半の者には見えない。
ふいに、物の怪が首をめぐらせた。何かを感じたのか、視線を四方にさまよわす。
「もっくん? どうした?」
気づいた昌浩が足を止めると、物の怪も立ち止まった。吉昌も不思議そうに物の怪を見下ろしている。
物の怪は吉昌を見上げた。
「……感じないか?」
「何をです?」
わけがわからず、吉昌は首をかしげる。
「なにがどうしたんだ?」
物の怪は昌浩を
一瞬だったが、
異形の気配には違いないだろう。だが、いまだかつて感じたことのない、不思議な。
考えすぎだろうか。
物の怪がいつまで待っても反応しないので、昌浩はその小柄な
「わ?」
「あのね、俺たち左大臣様のところに行かなきゃならないんだよ? 考えるのは別にいいけど、止まるのだけはやめてくれ」
ただでさえ徒歩で時間がかかるのだから。左大臣を待たせるわけにはいかない。
昌浩の言うことももっともなので、物の怪は彼の
「さて、父上、急ぎましょう」
少し歩調を速めてふたりは歩き出す。
昌浩の肩で、物の怪は注意深く四方に気を配った。
昌浩はともかく、吉昌も気づかなかったあの気配。それだけのことだと思う反面、直感と呼ぶべきものが
とにかくあとで、晴明に話してみるか。
そう結論付けて、物の怪は昌浩の肩にしがみついた。
東三条の左大臣邸に
四十を過ぎた吉昌も昌浩も、
当代
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
女房の後について行きながら、昌浩は
「おいおい、この邸で
「うん、そうなんだけど、やっぱりすごいや」
安倍邸には召使など数人しかいない。それも最低限だから、極力自分のことは自分でやることになる。女房などと言うものは当然いないから、昌浩の母はとても忙しいのだ。兄たちはふたりとももう
人のたくさんいる邸というのが、とにかく珍しい。
そうか、左大臣のお邸でこれなんだから、内裏は本当にすごいんだ。
「…俺、迷わないかなぁ」
いささか心配になってつぶやくと、肩の物の怪がどんと胸をたたいた。
「任せろ。そうなったら俺が責任持って道案内してやる」
「あ、ほんと? それは
「だーいじょうぶ
とくとくと語る物の怪を横目で見ながら、昌浩は軽く
そういう問題ではないのだが。でもまぁ、物の怪が平気だと言っているから平気なのだろう。他の
安倍
こんなに大きな池だったら、きっと自分は助からなかっただろう。
「ま、世界が
生まれたときから安倍の家が
「そうそう、上見ても仕方ないし」
「あれが寝殿だな。で、あの
今日は暖かい。風通しを良くするためか、
女房に
「おお、待ちかねたぞ」
「お待たせしてしまいまして、もうしわけありません」
一礼する吉昌にならって、昌浩も頭を下げる。宮中一の実力者だというからどんなこわもての男だろうかと思っていたら、予想に反して
女房が用意してくれた
元服して出仕する、というのは
ううむ、俺、うまくやっていけるんだろうか。
胸の中でぐるぐると考えていると、彼のすぐ前におすわりをした
「だよなぁ。不用意な発言が元でいじめぬかれて地方に
「─────」
「お、無視するんじゃねぇよ。ひとが折角これからどんなことに気を
「─────」
「こら、昌浩、はいと言ってみろ、はいと」
「─────」
「…晴明の孫」
「孫言うなっ!」
それまでひたすら「
「あの、ごめんなさい。
おろおろして言葉が続かない
「道長様、実は今ここに、見えないとは思うのですが物の怪がおりまして、それがこの子にちょっかいを出しておるのです」
「なに?」
道長の目が
「それはまことか? どのような姿をしておるのだ。お前が平然としていると言うことは、私に害はないのだろう?」
「ええ、それは
「そうか、さすがは晴明の孫にしてお前の子だな。まだちゃんと陰陽師として
いや、陰陽師としての修行は物心つく前から強制的にやらされてます。
とはさすがに言えないので、昌浩は黙っていた。すると道長は、昌浩の頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら、楽しそうに笑った。
「頼むぞ、昌浩。しっかり勉学に
「はい、
頭を
「ほーら、俺のおかげで
昌浩はとっさに反論できず、道長には気づかれないようにこっそりとため息をついた。
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