あしおと、爪痕、ENTER KEY⑪

 午前2時18分。3日間。無人のチャイムは毎晩、同時刻に伊藤京一の元に訪れていた。


 ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン


 無視を決め込んでも、チャイムは鳴り止みません。

 家族は幸いにも気がつかずに良く眠っているようでしたが、自分だけは今日もさいなまれて。

 ・・・・・・いい加減にイライラがつのっていました。

 ――――犯人を叩きのめそう。

 4日目。

 自分自身でも振り返れば信じられないような、乱暴な衝動をこらえきれず。

 布団をはねのけ、立ち上がる。

 川の字で就寝中の家族は身じろぎひとつしない。

 これ幸いに私はインターフォンに向けて、深夜にしては乱暴に駆け寄ってしまう。通話ボタンを乱暴に指で叩こうかした瞬間。

 ――――再びチャイムが鳴る。

『ミ・・・・タ。』

 背筋に冷水を垂らされたような怖気が走る。

 モニター越しにしわがれた声が聞こえ、びくんと体が跳ねる。

『ミ・・・ケ・・・タ。ミ・ツ・ケ・タ。』

 一気に血の気が引きました。

 まるで壊れたスピーカーから漏れ聞こえるような、しわがれた途切れ途切れの不気味な音声。

 悪寒と恐怖が全身に走ったことだけはよく、覚えています。

『ア――とアノ――トノジ・・・・・・』

 鼓膜が震えて、次に響いた音を捉える直前に。

 後ろ。

 生臭い息と。

 胃が握りつぶされるかのような圧迫感が襲う。

 ――いる・・・・・・。

 瞬間、不快な吐息と気配を背後に感じる。

 いつの間に。

 どうやって?

 振り返ろうにも、できない。怒りはもう急速に冷めて、恐怖に塗り替わっていて。

 ――――ヌェェメリ。

 不快な湿り気のある感触が右頬を襲う。

 止めどない雨のごとく、きりなく叩く雨のように襲う悪寒に反応してしまう。

 私は意味をなさない雄たけびのような叫び声をあげながら、反射的に背後に向かって右の拳を振り下ろす。

 誰も、いない。

 常夜灯の頼りない灯が点いているだけのリビング。

 視界に飛び込んできたものは、ただ、それだけ。

 荒い呼吸と激しく踊る心臓の鼓動音がうるさい。

 噴き出す脂汗。目もくらんで・・・・・・。






 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 どれくらいの間、固まっていたのでしょう。

 光度を抑えた照明が妙な陰影を落としている。

 襖が開く音と。

「パパ、うるさいよ」

「あなた、うるさすぎ」

 妻と娘の咎める声で、遠くに飛んでいた意識が覚めました。

 流れる汗と荒い呼吸。

 心臓の音がうるさく鼓膜を叩くのを感じながら妻と娘の姿に、深い安堵を覚えて息を吐きます。

「悪い。少し悪い夢、見たみたいでさ。呆けてたんだ。うるさくて悪かった。すぐ寝るから。もう、おやすみ。」

 二人に声をかけ、インターフォンに背を向ける。

 緑色のカーテンが閉じられたベランダ側の窓へと歩を進める。

 カーテンを両手で開けました。

 街は深夜の闇に包まれているが、そこかしこには灯りも点在している。その仄かな明かりがわずかながらも室内を照らす。

 

(あれ?)

「あなた、いってらっしゃい」

「バイバイ、ぱぱ」

 ベランダへと私は踏み出す。

 ────裸足で。

(どうして?)

 私は一連の現象に完全に飲まれ、呆然としているだけだったのに。

 (どうしてこんなところに?)

 パニックのままにリビングの方を見る。

 ────澱んで光ない瞳で、歪んだ乾いた笑みを浮かべてただずむ家族。

 ・・・・・・のはずの影が二つ。

 揃って右手を小さく振って。

 

 どこへ?

 私はひどい叫び声をあげた。

 ────はずでした。

 実際には荒い呼吸をせわしなく漏らすしかできませんでした。

 しゃべりたくても、声が出ない。

 ただ口をあえがせるだけ。

 体は意思を無視する。

 勝手に窓をしっかり閉じて。

 掴むのは手すり。

 切り裂くような夜風が吹き付ける。

 次に何が起きるのか。

 察した私はあまりの恐怖に頭が真っ白になりました。

 本能的に助けを求め、振り返る。

 首は動かすことができて。

 瞳に飛び込んだ二人の、深闇色に染まったガラスの向こうに写った顔。

 暗闇に佇む姿が何故か良く見える。

 その顔はいびつだった。

 左右不均衡にゆがんだ笑顔と呼ぶには引き攣った笑み。

 ふと首にかかる圧力を感じると手すりの方へと視界が移り変わった。

 勝手に動く脚を止めようと踏ん張ろうとしました。

 爪先を硬い壁面に打ち付けてしまう。

「ひ・・・ひ、ひっ、ひひひっひ」

口が勝手に笑い声を漏らしてしまう。

「ひひひひひひひひひひひ、ヒッ!」

────閉じられた。

鼻で必死に呼吸を続け、口と違い閉じられなくなった目から涙を垂れ流して。

抵抗しようとしました。

まるで、ビクともせず恐怖で頭が真っ白なのに体はゆっくりとしかし確実に私のもののはずの体を動かしていく。

指が青ざめるほどの力で手すりを握りしめる。

もはや意識が凍りつき思考もままならない。

首筋に生臭い息がかかる。

「いってらっしゃい」

ぐるん。

視界が反転。

重力から見放される。

ほんの一瞬。

空気を切り裂く音。

轟音。

衝撃。

意識が断ち切られる最後。


げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら。


────さもおかしげな笑い声を聞いた気がした。








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