レディグレイ

嘉藤 千代

レディグレイ

 日曜日、深夜。

 ピピピ、という電子アラームに叩き起こされた玲子がデジタル時計の時刻を確認するとそこにはAM3:00と表示されていた。

 寝ぼけ眼のまま、この時計は壊れたのか? と持ち上げ弄ってみるが至って正確に時を刻んでおり、自分自身が動揺のあまりアラームの時刻設定を誤ってしまった事実に気づいて髪を掻きむしる。

 本日は休日であるから別に真夜中に叩き起こされても構わなかったのだけれど、今まではふたり暮らしであったアパートでたったひとり寝食をすることが決まった憂鬱な日に容赦なく叩き起こされた現実に嫌気が差した。

 胸の内にある感情は、未だどの様に形容すればいいのか分からない。十二時間考えあぐねてみたが結局答えを導き出すことは一切出来なかった。

 十二時間前。たった十二時間だ。

 けれど、それだけの時間で彼女との関係が劇的に変わってしまったことに、玲子は身体を抱えた。


 時は遡り土曜日、PM3:00。電子アラームがおやつ時を告げる。

 玲子は2DKのアパート暮らしを共にする莉奈を振り返った。

「莉奈、三時になったよ」

 そう告げて、共有スペースであるダイニングに置かれたデジタル時計のアラームを静かに消した。

 玲子の言葉に、シンクで作業をしていた莉奈が慌てふためき始める。

「ちょっと待ってて。今、盛りつけて持っていくから」

「テーブル、拭いておこうか?」

「助かるぅ」

 そんな軽いやり取りを交わしながら、玲子は本日のおやつに胸を躍らせていた。

 玲子と莉奈は大学時代に知り合い、お互いに地方から上京して来たという共通点から仲良くなった。

 都心部の連中には理解の出来ないローカルな話に花を咲かせることが多く、よくひとり暮らしの不便さについて愚痴を漏らしあっていたのだ。ひとり暮らしは時間や家族からの拘束から抜け出し自由を手に入れられるが、何もかも自分でやらなければならない面倒くささと家賃などの生活費が厳しい、と。

 お金が、時間が……などと芋づる式に出てくる愚痴はいつも堂々巡りで、語り口は違えど噛み砕いてみれば同じ内容ばかりを飽きることなく口にしていた。

 大学時代は学割などが適用されていたから良かったが、いざ社会人として外の世界に出てみると世間は世知辛く、どうしたものかと互いに頭を悩ませていたところで、よくテレビで耳にするルームシェアをしてみないか、と玲子は提案してみたのだ。

 最初こそ莉奈は戸惑っていた。確かに困窮しているからルームシェア、とは軽率な発想過ぎる。しかし玲子は乗り気であった。

 昨今、独り暮らしの女性が狙われるニュースを多く耳にする世の中だ、ふたりで暮らすことで少しでも危険回避が出来るという安心点があり、生活費は折半になり浮いたお金は自分の好きなように使える。尚且つ、互いに家事を行うことで空いた時間の有効活用も見込める。

 今まで存在していたプライベートというものが公開されてしまうが、玲子としては自分自身のことを人に隠すタイプではなかったので、今更プライベートが云々となっても大学時代から一緒に友として過ごして来たのだから玲子の善し悪しを莉奈は分かっているという前提でこの話を持ち掛けたのだ。

 しばらく渋っていた彼女に、試しに一週間泊まりにおいでよ、と玲子の家で生活をしてみたところ多くの利点を発見したのか、泊まりに来て三日目にはふたりでルームシェア用の優良物件を探そうと不動産のチラシを眺めるようになっていた。

 それから早二年。

 家族のようで家族ではない女ふたりのルームシェアは時としていざこざはあれど、問題なく日常を送っていた。

 しかし、彼女達のルームシェア生活にも暗黙の了解はある。

 家事は当番制、生活費は全て折半。深夜に帰宅しても詮索をしない、などだ。至って普通のルールだが、ひとつ、習慣となって生まれた特殊なルールがある。

 それは週に一度、休日の午後三時に必ずお茶会をすること。

 休日は土曜日でも日曜日でも、祝日であっても構わない。時には全てお茶会が開かれる場合もある。

 これはお菓子作りが趣味である莉奈が休日にお菓子を作るので、それを食べるついでに話すようになって生まれた習慣であった。時として生活費の相談などもあるので、一種の家族会議に等しいこれは習慣からルール化されたものである。

 今まさに三時を迎え、莉奈は出来上がったばかりの湯気立ち昇るシフォンケーキに包丁を入れるところであった。

「お皿いる?」

「うん」

 玲子は素早く戸棚から平皿を取り出してシンクの上へと置いてやる。その間にもヤカンを火に掛け、電気ケトルのプラグをコンセントに差し込んだ。

 ヤカンの湯はカップを温める為、電気ケトルの湯は紅茶を入れる為の湯である。

 昔は紅茶の淹れ方など無頓着であった玲子だが、莉奈と生活をするようになり彼女のティータイムへのこだわりに感化され、今ではそれが染みついてしまった。シンクの洗面台に置かれているタライの中へ今日使う食器の数々を入れていく。

 茶こしが注ぎ口についているプラスチック製の丸型ティーポットに、金のラインが飲み口に入ったシンプルなデザインのティーカップ。小物としてティースプーンをふたつ程。

 しばらくしてお湯の沸く音を立て始めたヤカンの火を止め、ゆっくりと円を描くように食器の上から沸き立てのお湯を食器へと掛けて、ティーポットやカップの中には湯を張った。繰り返すお茶会で、この一手間が味に変化をもたらすことを玲子は知った。

 莉奈は作業する玲子の隣で黙々と菓子の飾りつけに没頭している。凝り性の莉奈は自分が作るお菓子に手を抜くことがない。シフォンケーキを平皿へと盛り、その上に泡立てたばかりの生クリームをたっぷりと乗せてシナモンを降らせていく。脇には先週作ったアップルパイで余らせたフィリングのシャーベットまで添えられていて、一見すれば洒落た喫茶店で注文したかの様な見栄えであった。

「すごいね!今回も美味しそう」

「まぁね」

 賛辞の声を上げる玲子に、莉奈は自慢気に胸を張った。

 彼女がせっせとスイーツの完成を目指す中で玲子は温まったであろう食器の類をタライから引き上げ丁寧にその水気を拭いテーブルへと並べていく。

 全て並べ終えた後には戸棚を開けて、先週開けたばかりの茶葉を取り出した。箱には【レディグレイ】と表記されていた。

 レディグレイとは、オレンジピールやレモンピールもブレンドされたベルガモットの香り漂う茶葉である。アールグレイよりも爽やかなフレーバーは莉奈の好みであると共に玲子のお気に入りでもあった。

 レディグレイ……女ふたりのティータイムには最高の銘柄ではないか、と玲子は笑ってしまう。

 ふたり分の茶葉をティーメジャーでポットへ入れ、電気ケトルから湧き上がった湯を回しながらゆっくりと掛けていく。

 茶葉に含まれている青い矢車菊の花弁がポットの中で舞い上がる様が美しい。

 そのままティーコゼーを被せて一足先にテーブルに着き、玲子は莉奈の仕上げるスイーツを待つこととした。

「お待たせ」

 莉奈が両手に皿を持ちながらウェイトレスさながらに玲子の前へやってくると、本日の主品名を口にした。

「メイプルシフォンケーキ、アップルシャーベット添えになります」

 静かにテーブルへ置かれたシフォンケーキからメイプルの香りが漂い、柔らかく玲子の鼻腔を擽る。

「紅茶、もう蒸れてるんじゃないかな?」

 そっとティーコゼーを外してみれば、こちらも負けじとベルガモットの芳醇な香りをダイニングいっぱいに広げていった。

 ポットからティーカップへと琥珀色の液体を注ぎ入れれば、遂にお茶会は開幕する。

「いただきます」

「召し上がれ」

 そっとシフォンケーキにフォークを差し込めば、ふんわりと優しい弾力が返ってくた。生クリームと絡めながら、一口大に切り取って口へと運べば。

「おいひぃ!」

 玲子は歓喜の声を上げた。

 口内へ広がる甘いメイプルの味と敢えて甘さを控えめにしたのであろう生クリームが交わり、絶妙なバランスを醸し出している。パサつくことなく、しっとりと柔らかいスポンジの食感が癖になりそうだ。

 食べ続け甘ったるくなってしまう舌を洗うように紅茶を流し込めば、アールグレイよりも控えめなベルガモットの上品な香りとレモンピールの爽やかな味わいが全てをリセットし、再び手が進む。

 飽きがこないようにと添えられたシャーベットもアクセントとなって、テーブルの上は完璧なお茶会が演出されていた。

おいしい!  最高! と繰り返す玲子に対し、莉奈は穏やかな微笑みを浮かべて玲子の顔を眺めていた。

 普段であれば自慢気に、そうでしょう、と胸を張り雑談を繰り広げるというのに、今日は些か空気が違うことに玲子はふと気がついた。

「何かあった?」

 心配になり、おずおずと眼前の莉奈へと尋ねる。けれど、彼女はその微笑を崩すことなく玲子を見つめていた。

「何か、言ってよ」

 沈黙に耐え切れなくなり、玲子は少しだけ棘のある声を立てていた。

 幸せで完璧なお茶会に翳りが生まれ始める。それは玲子の心臓の脈を妙に騒がせた。

 莉奈が、形の良い桜色の唇を開く。

「私ね、同棲することになったの」

 カチン、と皿とフォークがぶつかる音が跳ねた。

「……同棲?」

「そう。今の彼と、結婚を前提に」

 玲子の脈は尚のこと早くなる。何故?  どうして?  と疑問符が浮かび、唇が震えた。

 一瞬の沈黙。

 食器の立てる音だけが心情を切り裂くように空間に広がっていく。

「……お、おめでとう!」

 やっとのことで玲子の口から吐き出されたのは、心情とはまるで真逆の明るい声であった。

 莉奈は、想像していた台詞と違う反応であったのか瞳を大きく見開いている。

「良かったじゃない、同棲とか。結婚前提なんて、行き遅れ回避。最高だと思う」

「ありがとう……でも、」

「ああ、ルームシェアのことでしょう? 流石にね、ひとりでこの部屋に住むのは家賃的に厳しいから新しいところを探さなきゃになるけど」

 玲子の口は止まらなかった。否、止められなかったと言った方が正確かもしれない。つらつらと言葉を重ねていなければ、心の奥底でもやついている感情を吐露してしまいそうであったから。

 莉奈は玲子の饒舌に巻かれるように、今まで言い出せなかった謝罪と新たな部屋探しを手伝うこと、そして祝辞の言葉を貰えるとは思わず嬉しかったことを花が綻んだように笑いながら話してくれた。

 玲子はさっきまでとは打って変わって味気のなくなってしまったシフォンケーキをおいしい、おいしいと褒め称えて口に運び、嬉々としながら言葉を紡ぐ莉奈に対して相槌を打ち続けたのだった。


 時間は現在に戻り、AM3:00。

 莉奈は恋人の元へ行けと玲子が口車に乗せて追いやった。ひとりでは広すぎる2DKはしんと静まり返っている。

 彼女が同棲を告げてきた時、胸に渦巻いた感情に玲子自身が一番驚いていた。

 互いに女だ。いつか恋人が出来て、互いの元を去る日が来てもおかしくない筈であった。

 なのに、この生活が延々と続いていくと信じて止まなかったことに玲子自身が驚いていたのだ。

 何故? と尋ねそうになってしまった。どうして? と引き留めてしまいそうになった。ふざけないで! と怒鳴り散らしてしまいそうでもあった。

 玲子は己を掻き抱く。この感情の行方が分からなかったからだ。

 自分を置いていく莉奈に対しての怒りなのか、莉奈が消えひとりになることへの恐怖なのか、自分から莉奈を奪い取った男への嫉妬なのか。

 どれであっても、汚い欲望の感情であることは変わらない。

 心を落ち着けようとハーブティー代わりにとレディグレイの箱を手に取った。電気ケトルで湯を沸かし、ひとり分のレディグレイをティーストレーナーへと入れて閉じる。

 そのまま温める事もせずに冷え切ったマグカップへ湯と共に投げ入れた。ボール状のストレーナーから滲み出てくる琥珀色が透明であったそれを浸蝕していく様に映り、苛立ちに異常な胸のつかえを覚える。

 言葉に出来ない感情があると、玲子はその時初めて知った。

 三分間ストレーナーを揺らし続けて取り除き、口をつける。全く香りが立たず、渋味を帯びたレディグレイ。

 彼女とのひとときはあんなにも芳しいものであったのに。

「まずい」

 玲子は一言呟くが、それでもマグカップのレディグレイを飲むことを止められなかった。マグカップの中身が自分の心そのものに感じられて。


【了】

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