あの日の好きは今の好き

リョウ

あの日の好きは今の好き

 ──好き

 僕はこの言葉が苦手だ。自分の好意を相手に伝えるたった二文字の言葉。

 本音がバレる。だから苦手だ。

***

 高校の卒業式。僕は自分の教室にいた。

 やけに古ぼけて見えるのは、やはり三年という月日を共に過ごしてきたからだろう。

 窓から射し込む陽光は、空気中のチリやホコリに反射してぼやけて見える。

「今日で最後か……」

 分かってはいる事だけど寂しい。

 学生服の胸元には、花が象られたバッチがある。


 長い校長の話。一人ずつ名前を呼ばれ、返事をする。

 つい先ほどのことなのに、かなり前のように思える。

 窓の外がガヤガヤとしている。

 そりゃあそうだな。

 今日で最後。思い募る言葉を余すことなく伝えようとしているのだろう。

 時折、カシャと聞こえるのは記念撮影でもしているのだろう。

 そんな時だった。僕しかいない教室のドアがガラガラという音を立てて開いた。

 誰だ?

 僕は開くドアに目をやる。


 長く伸びる細い脚。それを覆う黒タイツが妙にエロさを感じさせる。

 膝より少し上でヒラヒラとしているスカート。

 強く抱き締めれば折れてしまいそうなキュッとしまった腰。

 そこから少し目線を上にあげると、制服を押し上げ、ここにいると強く主張する二つの膨らみがある。

 逸脱した大きさでもなく、まな板でもない。

 そして制服の隙間から覗く鎖骨。鎖骨に綺麗などがあるのかは分からない。しかし、僕にはそれが綺麗だと思えた。

 仄かにピンクに染まるふっくらとし、弾力性がありそうな唇。こちらもまた仄かにピンクの頬。チークを塗っているのだろうか。

 餅のようにふにふにとしてそうだ。

 筋の通った鼻、形の整った眉。切れ長の美しい瞳は、何者も吸い込んでしまいそうな漆黒。髪は卒業式仕様に、盛ってあるのだがそれがまたとても似合っている。


 顔だけ確認したらすぐに目をそらそう。そう心に決めていたのに、見蕩れてしまった。あまりの美しさに。

「キミは……?」

 凛としたすずのような声が放たれる。

「ま、松下大翔まつした-たいとです」

 喉の奥に何かが詰まった様な感覚に襲われ、言葉が出なかったがどうにか絞り出す。

「そっか」

 それだけ告げて、コロコロと笑う。

「き、きみは?」

 緊張からか声が裏返ってしまう。

「わたし? うふふ、わたしは西条志乃さいじょう-しのって言うのよ」

 いたずらっぽく微笑み、すらっと伸びる脚で僕に歩み寄ってくる。

 動悸が激しくなる。

「わたしはあなたの事を知らない。何でかな?」

 少しだけ首をかしげてそんなことを呟く。それで何故か傷つく自分がいたのに、僕は気づいていた。

「わ、分からない。でも、僕もきみを知らない」

 あらっ? と言いたげな顔で西条さんは僕の方を見る。近くで見れば見るほどに美しさが増す。まるで人形のようだ。

「ここ何組かな?」

 思い出したかのように、ポンっと手を打ち訊く。

「3組だけど」

「あっ、教室間違えたや」

 あどけない表情だ。でもそれも一瞬。西条さんは僕に背を向けて、歩き出す。僕は思わず、西条さんの腕を取った。

 細く白い腕だ。西条さんは、僕の唐突なその行動に驚いた様子だ。

 それを見て自分の行動がどれほどなものかを理解した。

 男女一人ずつしかいない空間で、男が女の腕を握っている。それは力では男に勝てない女の、実質的な敗北。

「ご、ごめん」

 慌てて手を離し、俯き加減で謝る。

「うんん」

 西条さんは上ずった声でそう言ってくれた。

「西条さんは、優しいんだね」

「え、なんで?」

「そう思った」

 ぶつ切りの会話は続かない。相手のことをほとんど知らないのだ。それで何を話せと言うのだ。

「西条さんは、もう進路決まってるの?」

 だから高三の共通話題である進路の話をしてしまう。この時期にこの話題は、タブーに近いというのに──

「うんん、まだなの。松下くんは?」

「僕もまだ」

「一緒だね」

 胸がどくん、と音を立てた。一緒という言葉がここまで破壊力があるとは知らなかった。

「お互い頑張らなきゃな」

「うん、頑張ろ」

 その言葉と共に西条さんは、僕の手を取った。そして、ぎゅっと握ってくれた。

 瞬間──脈打つ鼓動が有り得ないスピードになる。

 そして僕は気がついた。──好きになったのだ、と。


 恋は突然、という言葉がある。僕はそれを信じていなかった。

 時間をかけて、互いを知って、そして好きになる。これが恋だと思ってた。

 でも、違ったようだ。恋は本当に突然で、フィーリングなのだと、今日はじめて知った。


 西条さんはしばらくしてから、僕の手をそっと解いた。僕の手には西条さんの温もりが残っている。

「それじゃあいくね」

 僕の手を包んでくれた手を軽くあげて振る。

 今ここで叫びたい。好きになった、と伝えたい。今日が最後なのだから──

 でも、僕は勇気を出せなかった。

 力なく微笑み、ゆっくりと西条さんと同じように手を振った。

***

 今日はあれから6年越しの春。春休みも終わり、今日からまた仕事漬けの毎日が始まる。

 スーツに身を包み、満員電車に揺られて会社に向かう。

 会社に行けば、新入社員の指導。数年前の僕もそうだったのだろうが、本当に使えない。あれもこれも、全部指示しないと動こうとしない。

 だからゆとりは、とか言われるのだろう。

 そんなことを考えながら電車に乗る。

 おっ、ラッキー。

 心中でガッツポーズを決めて、たまたま空いた椅子に腰を下ろす。

 いつも立ってるし、たまには座るのもありだな。

 黒のカバンを膝の上に起き、腰をおろす。

「あの、お隣いいですか?」

「あ、どうぞ」

 僕より少し年上だろうと思える女性だ。目鼻立ちのハッキリとした、綺麗な女性だと思う。

 でも、僕はその人のことがちっとも気にならない。

 あの日好きになってしまった西条志乃さんのことが、今でも忘れられないのだ。

 女々しい……かもしれない。

 それでも僕の中で彼女を超える存在が現れていないのだ。


 やっぱりあの時伝えるべきだったな。

 少し綺麗な人を見かけると、毎回そう思ってしまう。

 ため息を一つ零し、僕は瞳を閉じた。


「次は──」

 車内アナウンスが僕の目的とする駅を述べられ、瞳を持ち上げる。

 電車の中はいつも通りの満員具合。

 隣に視線をやると、僕に声をかけて座った人が半口空けて眠っていた。

 あまり見ないであげよう。

 苦笑しそうになるのをぐっと抑え、僕はいつでも降りれる準備をする。


 まもなくして電車は駅に着き、僕は電車から降りた。

 改札を抜け、東へと歩を進める。駅からの距離はおよそ二キロ。しばらく歩くとすぐに着く距離だ。


 会社に着いた僕は、エントランスを抜け社員カードを提示し、社内へと入っていく。

 大学卒業後ではそこそこいい会社に入れたと、自分では思っている。周りには中小企業にも就職できず、院に進む者もいた中で就職ができたのだ。運がいいのだろうな。


「おはようございます」

 エレベーターで三階まで上がり、自分のデスクの上にカバンを置く。

「おはよう、松下くん」

「あ、はい。おはようございます」

 部長から声がかけられた。何度か飲みに行ったのだが、上手く話を合わせることが出来なかったが、部長の方は僕を気に入ったらしい。

「昨日のメールの件、大丈夫かな?」

 部長は軽い口調で切り出す。

「はい。新入社員の指導についてですよね?」

「そうじゃ」

 部長は楽しげに微笑む。

「ちなみに、新入社員った何人くらいいるのですか?」

「うちの課には八人じゃ」

「は、八人!?」

 そんな人数指導できないぞ、そう思い目を見開く。

 それを見た部長は高らかに笑い、僕の肩をポンポン軽く叩く。

「流石に全員面倒見ろとは言わんよ。私が頼みたかったのはそのうちの二人」

 人差し指と中指を立てそう言うと、ちょうど社内に轟くチャイムが鳴った。

 午前八時を知らせるもので、同時に仕事開始を知らせるものだ。


「よーし、みんな集まれ」

 課長の一声で僕たち社員は、課長のデスクの前に集まる──朝礼だ。

「今日は別段話すことは無い。昨年度と同じように、頑張ってくれ。そして、いまから新入社員を紹介する」

 社員の顔つきが変わったように思えたのは僕だけだろうか。

「入ってくれ」

 新入社員の顔を見ないなと思ったが、課長によって外で待たされていたらしい。

 その声とともにドアが開き、八人もの新入社員がなだれ込んでくる。一気に部屋が狭く感じる。


「じゃあ、一人ずつ自己紹介を」

 課長が嬉しそうに、だが厳しさも兼ね合わせて新入社員を一瞥する。

 自己紹介は至って順調に進められた。

 というか、少々飽きてきているくらいだった。そんな時──

西内志乃にしうち-しの、24歳です」

 志乃……?

 僕の心と脳に戦慄が走った。そして、その声もまた僕の知っている西条志乃と酷似していた。

 動悸が激しくなり、俯き加減だった顔を持ち上げ西内志乃と名乗った、その女性に視線をくれた。

 程よい赤のグロスが塗られた唇、筋の通った鼻。そして、何者も吸い込んでしまいそうな漆黒の瞳。どれも僕の知ってる西条志乃と似ている。

 違うのは、社会人らしくスーツに身を包んでいるところと名字だ。なら別人か?

 そう思いたかった。それで信じたかった。でも、僕の高鳴る鼓動がそれを否定していた。

 訊きたい。きみは西条志乃と同一人物なのかと。そして、違うという答えを聞きたい。


 それから程なくして新入社員の自己紹介が終わり、僕の指導する新入社員が決まった。

 運がいいのか悪いのか、西内志乃と22歳の男性だ。

「きみたちの指導係になった、松下です。よろしく」

 頭を下げる僕に、微かな声が届いた。

「嘘でしょ。本当に? あの時の松下くん?」

 やっぱり……。西内志乃と西条志乃は同一人物だ。僕の予想は間違ってなかったんだ。

 溢れる喜びと、名字が違う──つまり結婚してしまったのだという落胆が僕を支配する。

「えー、話が見えないんですけど……」

 僕が指導するもう1人の男性社員が口を挟む。

「じゃあ……やっぱり。きみは西条さん?」

 恐る恐るだ。だって結婚したんだ、なんて言われると……嫌だから。

「うん、でもいまは西内志乃。お母さんの旧姓の西内」

 お母さんの旧姓?

「え、じゃあ……。結婚してないの?」

 頓狂な声になってしまう。だって、僕は今でも──好きだから。

「わたしさ、大学行ったのは良いものの全然就職決まらなくて。それで、どうしようもなくて院に進んでね」

「そ、そうだったんだ」

 今の僕にそんなものは、どうでもよかった。まだ結婚していない。その事実が、とても嬉しかった。

「それじゃあ気を取り直して、社内案内からするよ」

 嬉しさから顔はニヤけてしまう。でも、いまは仕事をしないと──。


 もっと話をしたい。もっと一緒にいたい。6年越しの再開は、僕の抑えつけられていた感情を溢れさせようとする。

 それでも──好きは言えない。恥ずかしいし、何だか怖い……。振られた時が──。

 今日は仕事始めということもあり、上がりは早かった。

 今週末には新入社員歓迎会が催されている。それでも僕は西条さん──いや、西内さんと話がしたかった。

「あ、あの……」

 僕は帰り際の西内さんに声をかけた。

「一緒にご飯でも行きませんか?」

「……はい」

 少し悩んだ表情。それは僕が卒業式の日、教室で西内さんの腕を掴んだあの瞬間と同じ。

 それでも今回は返事があった。それが嬉しかった。

 それから僕と西内さんは、近所の居酒屋に移動した。

「生中二つ」

 取り敢えずの注文はすぐにテーブルに運ばれる。それと同時に

「唐揚げと枝豆お願いします」

 と、追加オーダーをする。


「あの後、何してたの?」

 卒業式の日、僕と別れた後のことだ。

「告白されてた」

 察しはついていた。卒業式の日、わざわざ教室に帰ってくるのは僕みたく一人で黄昏れるか、告白かだ。

 でも、僕が聞きたいのはそこじゃない。その後だ。

「もちろん断ったよ。両親がギクシャクしてる時に付き合ってなんてられないよ」

 自虐的な笑みでそう紡がれる。悲しい事なのだろう。でも、僕は嬉しかった。


「……そうなんだ」

 ゴクゴク、とグラスに入ったビールを半分ほど飲み干す。

「まさか松下くんが上司でいるとは、驚きだったよ」

 西内さんが微笑を浮かべ、グラスに口をつける。

「僕もさいじょ──じゃなくて西内さんが同じ会社に就職に来るとは思ってもみなかった」

「ほんとにね」

 周りのざわつきとかは全く耳に入ってこない。不思議な程に、西内さんの凛とした鈴のような声だけが耳に残る。


「お待たせ致しまた。唐揚げと枝豆です」

 そこでちょうど追加注文したものが届く。

「西内さんも食べてよ」

 枝豆に手を伸ばしながら、僕は言う。

「ありがと」

 遠慮気味に言い、西内さんは枝豆に手を伸ばす。

 それから数時間ほど話し込んだ。大学時代の話とか、僕が会社に入ってからの話とか。

 積もる話は全てする。


「あぁ、もうこんな時間か」

 気がつけば、もう午後十一時。

「明日も仕事だし、そろそろ帰るか」

 ホントはもっと、一緒にいたい。

「うん」

 西内さんは可愛らしく頷き、カバンの中から財布を取り出そうとする。

「いいよ、僕から誘ったんだし」

 それを制止し、僕は伝票を手に取る。

 値段は三千円とちょっと。給料前ということもあり、財布には痛手だったが西内さんとの時間はそれ以上の価値があったと思う。

 それももう終わり。

 酔いも覚めるような、春先の冷たい風が頬を撫でる。

「西内さんは、何で帰るの?」

 居酒屋の前。僕は最後にそう訊いた。

「んー、今日はタクシーかな」

 時間も時間だ。駅に行くまでに終電が出てしまう可能性もある。それを考慮しての答えだろう。

「じゃあ、タクシー呼ぶよ」

 携帯を取り出しタクシー会社に連絡をする。

「あと十分ほどで来るって」

「うん」

 夜に煌めく眩しいほどの笑顔。僕はもう胸の高まりが止まらなかった。

 あの時のようにはなりたくは無かった。

 本音好きを伝えられずに、いなくなる。

 まだこの先も一緒にいれるかもしれない。でも、もし事故や事件にあったら? 世界に絶対はない。だから──

「あ、あのっ! 西内さん。僕は……僕はきみの事が好きだ! はじめてきみに逢ったあの日からずっと好きでした」


 言ってしまった。恥ずかしくて今にも逃げ出したかった。

「うん……」

 その瞬間、西内さんの可愛らしい声が耳に届いた。

「い、いいの?」

「わたしなんかでよければ……ね」

 画して僕らは付き合うことになった。

 でも、今でも好きという言葉は嫌いだ。言葉自身のもつ重みが重すぎるから。

 だからこそ、この言葉は本当に好きな人にだけに言うべきだと思う。

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