スパルタですっ
「よし、逃げずによく来たな」
いつも会社帰りには、見るだけだった店に初めて足を踏み入れた。
木々の向こう、暖かい灯りのともる喫茶店。
扉を開けると、森の小人さんでも現れそうな外観だったが、カウンターの向こうでは哲太が腕を組み、仁王立ちになっている。
何処の軍隊ですか、と思っていると、案の定、訓練が始まった。
「さあ、好きな珈琲を頼め」
とメニューを広げて言われる。
「……ありません」
「この店のオリジナルブレンドでどうだ。
マスターが日々、せっせと山を越え、豆を手摘みで収穫し、天日で乾燥させて、焙煎しているオリジナルブレンドだ」
「ええっ」
「てっちゃん、嘘はやめて」
とマスターが横で珈琲を淹れながら苦笑する。
「今、飲んであげないといけないような気持ちになってしまいました……」
「よし、じゃあ、その気持ちのまま、とりあえず、なにか飲めそうな珈琲を選べ」
と言われた。
「だいたい、俺は珈琲専門店に他のメニューなんぞいらんと思ってるんだ。
此処は、純粋に珈琲を楽しむ場所でいい」
と言う哲太に、顔を上げ、
「なに言ってるんですか。
人々の欲望は果てしないんですよ」
と言って、お前のだろ、という目で見られた。
そのとき、紗凪が見ていたメニューのページを哲太が変えた。
大きな手が目の前に降りてきて、どきりする。
「今日はトースト、好きなのを頼め。
サラダもつけてやる。
俺の奢りだ」
夕食どきに呼びつけたからな、と言われた。
「ええっ?
悪いです、そんなのっ」
「いいから頼め」
何故いちいち、そんな脅しつけるように言うのですか。
感謝の気持ちが薄らぐではないですか、と思いながらも、メニューを見て悩む。
「あっ。
じゃあじゃあ、ガーリックトーストを。
いやー、一度、この店のを食べてみたかったんですけど。
会社行く前には食べられないので」
と言うと、
「ガーリックトーストか。
煮込み系の料理に合うよな」
と哲太は言い出す。
「ビーフシチューとか。
そこの先の、店の前の花壇で黒い猫がいつも寝てる、青い看板の、昔からある洋食屋があるだろ。
あそこの、赤ワインがきいたビーフシチューにガーリックトーストがついてるんだが。
マスターがガーリックトーストを残ったビーフシチューに浸して食べてみろって……」
やめてくださいーっ、と紗凪は耳を塞ぐ。
「いっ、行きたくなるではないですかっ。
今日は頑張って、先輩のおっしゃる通り、此処で珈琲飲んで帰ろうと思ったのにっ」
ははは、と笑ってマスターがガーリックトーストとサラダを出してくる。
おお。
さっきから、いい香りがしてると思ったら、もう用意されていたとはっ。
「まだ熱いバケットの上で、じゅわじゅわバターが弾けてるところに、この香草とニンニクの焼けた匂いがなんとも……」
と目を閉じ、嗅いでいると、
「すみません」
と後ろで声がした。
「ガーリックトースト追加で」
「すみません。
こっちもー」
店内の客から上がる声に、
「……声がでかいんだよ、お前は。
そして、お前が来るたび、俺は此処が何屋か見失いそうになるんだよ」
と哲太が呟いていた。
「いっそ、この店に珈琲とか不要なんじゃないかと思ったり」
「……先輩、昔から極端から極端に走る人ですよね」
はは、と笑ったあとで、紗凪は言う。
「珈琲、飲んでみたいかな、とは思うんです。
さっきのビーフシューの話じゃないですけど。
ああいう味の濃い料理を食べたあと、友だちが珈琲とか飲んでると。
いい香りが自分のとこまで漂ってくるじゃないですか。
ああ、この香りをこういう食事のあとに味わってみたいなーとは思うんですけど。
……飲んだら苦いんですよね」
と笑った。
「……おこちゃまめ」
と言われ、
「はい、おこちゃまなんです」
と言って、サクッとガーリックトーストを齧る。
「ウィンナ・コーヒーで手を打て」
さっきから、なにかやってるなーと思ったら、哲太は生クリームを泡立てていたようだ。
ピンと角の立った生クリームののったウィンナ・コーヒーが現れる。
「美味しそうです」
一口、口にすると、冷たい生クリームが唇に触れた。
「美味しいですっ」
と繰り返す。
そうか? と哲太はちょっと嬉しそうだった。
だが、
「……下の辺、珈琲になってきました」
と渋い顔をして言うと、
「珈琲だからな……」
と溜息をつく。
ほら、と目の前に白い皿を置かれた。
ほわほわのシフォンケーキの横に生クリームが添えられている。
「生クリーム、泡立てたからついでだ」
と言って、背を向ける。
「あっ、ありがとうございますっ」
「紗凪」
名前で呼ばれ、また、どきりとしてしまう。
もう、名字は一生教えまい、と思っていると、突然、
「明日は此処まで走って来い」
と言い出した。
「ええーっ!
なんでですかーっ?」
とともかく運動が苦手な紗凪が訴えると、
「どうせ、来るんだろ? 明日も」
と言われる。
「……なんだか都合のいい女みたいですね、私」
「どの辺が都合がいい?」
と顔を近づけ、本気で問われた。
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