映画技師とヴァイオリン
赤坂 パトリシア
映画技師とヴァイオリン
客もまだ入らない時間帯だというのにドタドタと荒っぽい靴音が聞こえてきた、と思ったら、社長室のドアがバタンと開けられた。
映画技師のマルヴィン・クラークだ。
「おう。相変わらずひでえツラだな」
吸いかけの配給の煙草を灰皿に押し付けると、相手は一瞬ひるみ、「そんなことを言うのはお前ぐらいだ」と言った。
「……ローラ・バスターか」
マルヴィンの用件は察しがついた。最近配属したバイオリン弾きの名を出すと、ギロリと睨まれる。
「……なんのつもりだ」
マルヴィンの声は低いが力がこもっていた。
怒っているのは明白だ。
「目がほとんど見えないんだ。だが、お前なら目が悪くてもなんとかやってくれるんじゃないかと思ったんだが」
できるだけさりげない様子で言ったが、切り返す口調は鋭い。
「目がほとんど見えないから、雇ったんだろう」
「ばれたか」
ジェラルドは軽く笑う。
「——いい加減にしてくれ。動物園の動物じゃないんだ。——女をあてがったつもりか」
マルヴィンの声は怒りに震えている。
——こいつは、いいとこの坊ちゃんだったんだよなあ。
ジェラルドは肩をすくめた。
気位が高い。のはいいとして、ここまで激昂するとは想定外だった。
「そんなつもりはなかったんだが……まあ、座ってくれ。さっきも言ったがひどいツラだ」
「お前にわかるのか」
「わかる」
頷くと、技師はふうっと息を吐き——古びた椅子にドシンと音を立てて座った。
「説明してくれ。そんなつもりじゃなかったんだったらどんなつもりだったんだ」
両手で頭を抱えているかつての戦友が、怒っているのか泣いているのかは、ジェラルドにもわからなかった。
もっとも、泣いているのか怒っているのかわからないうめき声だったら別に珍しくもなんともない。反吐が出るほど聞いたのだ。
——あの、フランスの前線で。
夕方からの無声映画の打ち合わせの時に、ローラ・バスターのA線が切れた。映写室から様子を見ていたマルヴィンにもすぐにわかるほど、女は慌てた。
オルガンが修理に出されている数日間の間だけ、伴奏をするために雇われた女だ。時折、微妙に画面のムードとは異なる音を出しているなとは思ったのだが、安い賃金で雇われた臨時の楽師にそれほどのことは期待していなかった。
それが、弦が切れた途端、慌てたように両手を動かし——やがて、映写室の方へ向きなおり、申し訳ないが、線を張る手伝いをしてくれないか、と尋ねてきた。
すまないが、俺は映写室から出ることはできない、と技師は答えた。
いろいろ事情があってね。人前に出たくはない。
しかし、がっちりとした体躯の、やや強めのランカシャー訛りのバイオリン弾きは——25ぐらいだろうか、気が強そうな女だ——あきらめなかった。
「あの——顔だったら、あまりよく見えません。私——視力が弱くなってきていて——ほとんど見えないんです」
それを聞いた途端、ジェラルドにはめられた、と思った。
マルヴィンがジェラルドと出会ったのはフランス行きの隊が編成された時だった。
薄い毛布を手渡され、かりそめの寝台に荷物をおくと休む間もなく仮ごしらえの食堂にかりたてられ、具のほとんどないスープをかきこんだ。
「……まずいな」
マルヴィンが呟くと、隣に座っていた男が、ふっと笑った。
「どこの坊ちゃんだ、お前は。特にひどい飯じゃないぞ」
それがジェラルドだった。
むっとしたマルヴィンが、自分は坊ちゃんではない、商売人の息子に過ぎない、と言い返すとジェラルドは店の名前を知りたがった。
思わずぽろっと言うと、「お前、それは御曹司っていうんだ」とジェラルドは苦笑した。自分はユダヤ系の商人の息子で、父親は最近ようやくためたお金で映写機を買ったばかりだと。
「ようやくいい目が見られるかと思ったら戦争だとよ」
ジェラルドはあきらめたかのように肩をすくめた。
戦争がなかったら、そもそも出会うこともない、できることのない友人だった。戦争が終わってからも、ジェラルドには世話になりっぱなしだ。
——とはいえ、これはあんまりだ。
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