マリンの恋 マリンの話

 私のことはマリンと呼びなさい。呼ぶ機会がなかろうが覚えなさい。私はマリン、もしくはマリンちゃんよ。いいわね?

 よろしい。では、私の話をしてあげるわ。

 そうね……あれは夜の十一時前後だったかしら。私がいる教室に突然、男の子が現れたの。白っぽくて、今にもふわっと消えそうな感じの子だったわ。

 どうしてそんな遅い時間に学校なんかにいたのかって?

 野暮なこと聞かないでちょうだい。事情があるのよ。続けるわね。

 びっくりしちゃって、声をかけるどころじゃなかったわ。見つかるんじゃないかってすごくドキドキしたの。

 男の子は私に気付かなかったみたい。泣きそうな顔でウロウロしたあと棚の辺りを少し触ってすぐにいなくなっちゃった。スッとね。

 いなくなってもしばらくドキドキしていたわ。

 この学校ってね、どうにも警備がゆるいらしいの。そのせいで忍び込む生徒が本当に多いのよ。いわゆる度胸試しってやつ。

 たまに私も彼らと遭遇するのだけど、非常に迷惑極まりないわ。ウザ絡みされた日にはほんとサイアクよ。腹立たしいものの、黙り込んでやり過ごすのが一番ね。

 でもね、この日の男の子は違ったの。夜の学校で度胸試しなんかする奴らって、大体見た目からしてチャラくて厚かましそうなものよ。態度だってぱっと見でわかるわ。あの子はそのどちらの空気もなかった。

 そのせいかしらね。私は彼のことをすぐに覚えたわ。

 この夜から、私が遭遇した限りほぼ毎日男の子は現れたわ。会うのはいっつも同じ教室よ。何かを探しているような雰囲気で、教室の中をふらふらしているの。そして棚にいくらか触れた後いなくなるの。今にも泣きそうな顔を印象に残して。

 儚げで無害そうだったけど、それでも見つかるのってやっぱり怖いじゃない。

 それにドキドキしながらこっそり見ているだけってのも……その……いいものじゃない。あの子もよく観察すれば可愛い顔しているし……。ま、好きになってやってもいいわね。

 そうやって過ごし始めてちょっと経った頃、初めて昼間にあの子が現れたの。場所はいつも会う教室、理科室よ。

 どうやらあの子は好きでそこにいるって感じじゃないみたいね。昼間でも探し物のために来ているようだったわ。

 ただ夜と違って何かに怯えているようで、廊下から足音が聞こえてくるたびにビクビクしていたわ。それで私はこの子はいじめられてたんだなってピンときたの。

 見るからに気が弱そうだし、いじめられても仕方ないんじゃないかしら。弱いものって淘汰されるべきだもの。弱肉強食ね。じゃなきゃ私たちは絶えてしまうわ。

 あらやだ、そんな目で見ないでちょうだい。もちろん、だからいじめられて当然って言うつもりはないわよ。悪いのは手を出す方。弱いと分かってる子に手を出すなんて圧倒的に幼稚なんだもの。ふふふ。

 私ね、とうとうあの子に話しかけちゃった。驚かせようと思って、辺りが静かになったタイミングを見計らってね。

「あなたに代わって復讐なんてしないけれど、話し相手にはなってあげるわ」

 あの子は視線を上げてやっと私に気付いたようで、目を丸くしていたわね。人の鼻を明かすと本当にスカッとするわ。

 あの子の名前を教えてもらったの。蛍と言うのよ。美味しそうな名前でしょう?

 すぐに消えてしまいそうで儚くて、あの子にぴったりじゃない。

 それから私と蛍は夜になるたび会話をしたの。まれに昼間に会うこともあったけれど、話はしなかったわ。だって話すなら二人きりがいいんだもの。

 毎晩探し物をしていた蛍は、いつの間にか私と会話をするのが目的で現れるようになった。それって素敵なことじゃないかしら。可愛い男の子に求められるなんて最高にドキドキしちゃう。

 私は蛍が好き。好きよ。認めちゃうわ、私があの子に恋をしてるって。恋って悪くないわね。今までの恨みだってどうでもよくなっちゃうくらい。

 理科室でしか会えなくても、夜にしか会話できなくても、触れ合えなくても……好きよ。恥ずかしいから決して本人には言わなかったけれどね。

 でも……でもね、ある日、血色のいい笑顔で蛍がこんなことを言ったの。

「今までありがとう。キミのおかげで学校に来るのが楽しかった。将来の夢も見つけられた。辞めなくてよかった。負けなくてよかった。生きててよかった。キミがいてくれたから、僕は笑顔でこの学校を卒業できる」

 酷いわよね?

 こんなのあんまりじゃない。卒業って、ここからいなくなるってことでしょう。酷いわ、酷いわ。あんなに私とずっと一緒にいたいって、話していると楽しいって言っていたじゃない。

 黙って見送るつもりはないわ。だって私だもの。

 いなくなるなら私も連れて行ってってお願いしたの。この私がプライドをかなぐり捨ててまで人間に懇願したのよ。なのに! なのになのに!

 あの子は笑って「卒業できなくなっちゃうよ」なんて断るの。信じられなかったわ。目の前が真っ暗になるってこういうことなのね……。

 ああ、痛い。私って感情が高ぶるとお腹が痛くなるの。ぱっくり割られるみたいに。この時のことを思い出してもそうなるの。すぐ良くなるから気にしないでちょうだい。

 初めての喧嘩は全然楽しくもなかったわ。お互い頭を冷やすために少し距離を取った。

 それがよかったのでしょうね。冷静になった私はイイことに気付いたの。まだ時間はあるってことにね。

 何もあの子は今日明日にいなくなるわけじゃない。

 その間に蛍の気を変えてしまえばいい。時間はあるんだから、もう焦らないわ。卒業できなくなるのが最適……いえ、蛍が私と同じになってずっと一緒にいることが望ましいわね。

 私の体はこの瓶から出られないけれど、方法はいくらでもあるわ。いくらでもね……。

 待っていてね、蛍。すぐに私とずっと一緒になれるわ。あなたは寂しがりだからこの私が迎えに行ってあげる。

 愛しい、愛しい私の蛍。美味しそうな私の蛍。

 離れたりなんかしないわ。ずっと、ずうっと一緒よ。ふふふ。

 あら? なあにその顔。怖い話じゃなかったから、私の話にご不満ってわけ?

 それとも……。


「ホルマリン漬けのカエルが、人間に恋しちゃ悪いのかしら」

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