第六話 草原に佇むオフィスビル
「ふう……」
ちゃぷん、と湖の浅瀬にお尻をつけ、体育座りの格好で私は座っていた。
へその辺りまで、ひんやりとした、けれども温もりのある水の感触がある。
夜風が素肌に涼しく当たり、空には満天の星空と、月。
開放的な気分だった。
「この開放感……露出狂の心境、というのでしょうか」
少し離れて水につかるヒナが変なことを言っている。まあ、実際のところはそうなのだろうけれど。露出したことは無いために分からないが。
「……」
私たちがやってきた方向を眺め見ると、緑広がる草原の真ん中にぽつんと長方形の建物があった。一面に広がる大草原に佇む(少なくとも私にとっては)現代的なオフィスビルは、なんとも不釣り合いで、世界との整合性が取れていないように見える。
ヒナがあの建物を指して幻想だというのも、納得がいく。
では、あの幻想の中で生じた私の意識は?
幻想の中で私を待ち続けたヒナは?
それらもまた、幻想なのであろうか。
そもそもこの世界に実容はあるのか。
空虚を孕んだ幻なのでは……それはないか。こうして私が月と星の夜に大草原に広がる大きな湖の浅瀬に体育座りの格好で座り露出狂の心境でいるという現実は、確かに存在しているのだから。
「……ねえ、ヨミ」
ヒナの声。
隣を見ると、ヒナが遠慮がちに、黄金の目を伏せている。私よりも少し深いところにいるヒナは、胸の辺りまで水に沈んでいる。波打つ水に、波打つ胸。豊。私、貧。個体差はどうやったって生じる。仕方のないことだ。仕方のないことだ。
「……なに?」
「本当に、なにも憶えていらっしゃらない?」
ヒナが言うのは、目覚める以前の記憶のこと。
「残念ながらね、真っ白よ」
想い起そうにも、頭の中には空白の頁が続いている。
ただ、知識は残っている。あのオフィスビルにしたって、そうだ。私は、現代に生きていた。道路を車が走り、満員電車が日々走り、再創器が欠けた命を復元し、速足で歩くサラリーマン達は概ね表情が死んでいて、対して学生たちは輝く笑顔で歩いている。悪を行えば警察が動き、果てには世界警備隊が殺しにやってくる、屋外ディスプレイにでかでかと映される一番様の(ヒナそっくりの)黄金の瞳……それが、私の知る現代だ。そうして、今の世界はその全てが滅んだ世界。
ただ、その現代に生きていた(はずの)私に関する記憶が、すっぽりと私から抜け落ちている。
「そう、ですの」
言ったきり、ヒナは黙った。
「ヒナ、あなたは私の過去を知っているの?」
尋ねる。
ヒナの口ぶりから、彼女は確実に私を知っている。
「え、ええ……」
言い淀むその姿は、私にこれ以上の質問をしてほしくないようだった。だから私は、それ以上の言葉を打ち切ることにした。
「……そのうち、想い出すと思うわ」
けれども、なぜだろうか。
私は、私に関する何事をも思い出せないような気がしている。
いや、思い出せないこと自体が、私にとっての正解であるような、そんな気が……。
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