第9話

 ルーナは、アーキルと一緒に、エスメラルダの診療に出かけた。ヴィーナスが同行する。恐らくは、昨日の今日だから、安全のために同行してくれるのだろう。ヴィーナスは男子百人力ぐらいに頼もしいので、ルーナとしても嬉しかった。

 昨日は本当に様々なことがありすぎて、ルーナは身も心もかなり疲弊していた。だが、昨日、ソーレが手を握ってくれたおかげで、夢も見ないぐらいに、ぐっすりと眠ることが出来た。これには、ルーナ自身も驚かずにはいられなかった。

 今日はいつも以上のコンディションで、エスメラルダの診療に当たることが出来る。それは何よりもありがたいことだった。

「エスメラルダ様にお逢いするのは、本当に久しぶりなのよ。幼いころは良く一緒に遊んだけれども、あくまで幼いころだからね。お互いに幼馴染の認識はあるけれども、私とエスメラルダ様だと、進んだ道も、性格も正反対だから」

 ヴィーナスの話を聞きながら、ルーナは納得してつい頷いてしまった。

「今日はあなたの護衛とエスメラルダ様の護衛の両方よ。昨日、あのようなことがあったから、いつ、何がエスメラルダ様に起こるか解らないでしょう?」

「そうですね」

 ルーナも神妙に頷くしかなかった。

「こんにちは、サルマさん。ルーナです。エスメラルダ様の治療に参りました」

「お待ちください」

 サルマは静かにドアを開ける。一瞬、ヴィーナスを見て、目を大きく見開いた。

 いつもならば、違う者が同行していても、全く動揺しないのに、今日に限っては、サルマは動揺を見せていた。その様子を、アーキルもすぐに気付き、不機嫌な表情になった。

「あの、どうして女性の騎士の方が?」

 サルマの問いに、ヴィーナスはあくまで落ち着いた笑みを浮かべた。

「私は、ヴィーナス・アポロ。幼いころのエスメラルダ様の遊び相手です。今回は、アーキル先生の護衛で参りました。私のことはいないと思っていただいて結構です」

「かしこまりました」

 サルマはいつものように落ち着いた対応をし、ルーナたちを部屋に招き入れる。だが、何時もよりは、何故だか落ち着きがないと、ルーナは感じていた。

「エスメラルダ様、アーキル先生とルーナさんが見えられました」

 エスメラルダの部屋に入り、ルーナはゆっくりと近づいてゆく。今日は、昨日よりも、沢山の力を自分でも感じている。今日こそは、エスメラルダを大きく癒したい。ルーナは強く思いながら、エスメラルダの前で跪き、ゆっくりとその繊細な手を握り締めた。

 これだけ通い詰めているからか、エスメラルダの表情が僅かに柔らかくなった。ルーナも心の距離が短くなったような気持ちになり、とても嬉しい。

「今日は、エスメラルダ様の幼馴染みの、ヴィーナスさんが来てくれましたよ」

ルーナが話しかけると、エスメラルダは機械的に小首を傾げる。やはり、幼馴染のヴィーナスを認識できないようだった。

「じゃあ、今日も力を注ぎますね。エスメラルダ様が早く元気になられますように……」

ルーナ目を閉じると、力を集中させる。少しでも多くの力が、エスメラルダに注がれるようにと、祈らずにはいられない。エスメラルダが早く元に戻って欲しいと、ルーナは強く願わずにはいられなかった。

ルーナは、エスメラルダに強い力を一気に注ごうとしたが、なかなか上手くいかない。また引っ掛かるような感覚が取れないのだ。昨日のシュタインの手術中には、彼に多くの力を注ぐことが出来たというのに、今日はそれが出来ない。

同じように力を注ぎ込んでいるはずなのに、エスメラルダに対してだけは、まったくだめだった。やはり、何かに引っ掛かるような違和感を覚えてしまう。まるで、大きな岩にぶつかり砕けてしまう波のように、ルーナの力が砕かれてしまうような感覚だ。

ルーナはどうしてこうなるかが解らずに、重い石のような感覚が心を被う。どうしようかと考えるがゆえに、力を注ぎ込むことを中断すると、アーキルが声をかけてきた。

「どうした、ルーナ」

「昨日と全く同じなんです。何かが抵抗して、力を注ぐのが上手くいかないんです。ある程度は注げるのに……。それ以上は力が砕かれてしまいます」

ルーナは溜め息を吐く。ヒーラーとしてまだまだ力不足だと、実感せずにはいられない。

「……私は、ヒーラーとしてはまだまだですね。反省します。昨日のシュタイン博士の手術の時は、上手くいきましたし、力も沢山注げたと思っていました。だから力もついていると思っていたんですが、それは思い上がりみたいでしたね」

自分でここまで言って、ルーナは苦笑いで誤魔化すしかなかった。

だが、アーキルもヴィーナスは、明らかに表情を厳しく変える。ルーナは、彼女自身にそれほど力がないことを、ようやく二人が理解したからだろうかと、思った。

「……恐らく、お前のせいじゃない」

アーキルは低い声で噛み締めるように言い、ヴィーナスも真摯な表情で、同意するかのように頷いた。

「……月の子ちゃん、あなたの力は確実についています。シュタイン博士にスムーズに力を注げたということは、あなたはきちんと力を注げるということよ。あの重症のシュタイン博士をあなたは力で救っている……。あちらのほうが余程、難しいということよ」

ヴィーナスは冷たくも誠実な声で淡々と呟く。

「……なら、この違和感は何なのでしょうか……」

ルーナは益々訳が解らなくなる。

「力を跳ね返す何かが、エスメラルダの中にあると考えるのが妥当だろうな」

アーキルはエスメラルダに無機質な一瞥を投げた。

「なるほどね……。ヒーラーの力を跳ね返す……。これは、正確にいうと、生命体ではないということ……、かしら……。それとも、一部だけが生命体である、かもしれないわね……」

ヴィーナスは言葉を考えながら紡いだが、その一言にルーナは衝撃を受けた。

一部だけが生命体。そんなことがあり得るのだろうか。少なくともルーナの常識からは、信じられないことだった。

アーキルは渋い顔でじっと耳を傾けていたが、突然、ルーナを見た。

「ルーナ、頭に向けて、力を注いでくれないか……?」

「頭、ですか?」

「ああ。頭だ」

アーキルが何を言っているか意味が分からなかったが、そうしなければならないと思い、ルーナは力を集中させる。

ルーナは目を閉じると、エスメラルダの頭の部分に、力を集中して送った。

頭の部分は、心と同じ、魂と同じなのだと、おばばから聞いたことがある。だからこそ、ルーナは魂の奥深いところに語りけるように、力を送った。

今出せる限りの力をルーナは送る。今日はこれで力が出せなくなるだろう、だが、それでも良いと思った。エスメラルダには、生命力の溢れた状態に早く戻って欲しかった。その為には、自分が出来る限りのことをルーナはやるしかないと思う。ルーナは、渾身の癒しの力をエスメラルダに送った。

ルーナは、エスメラルダに力を注ぎ終えて、深い呼吸をしながら、目の前の患者を見た。

エスメラルダの瞳は今までで一番、輝いている。エスメラルダは周りをゆっくりと見たあと、視線をピッタリとアーキルに合わせる。その動きには、全くといって良いほどに、迷いはなかった。

「……アーキル……」

エスメラルダは花のような美しくもはかない声で、しっかりとアーキルの名前を呼んだ。

アーキルは、まさかエスメラルダに自分の名前を再び呼んで貰える日がくるとは思っていなかったのか、目を大きく見開いて、呆然とする。表情が驚いたまま固まってしまっていた。それほどまで、アーキルの驚きは大きいのだろう。

愛するひとに再び名前を呼んでもらえるということ。それは何よりもの幸せだと、ルーナは思うからだ。

ルーナですらも、この奇跡のような状況に、息を呑むしかない。同時に、ホッとした安堵と喜びに泣きそうになった。エスメラルダのこれほどまでの劇的な回復は初めてだったからだ。

その様子を、ヴィーナスもまた涙ぐみながら見つめている。だが、彼女は感動しながらも、何処か冷静に見つめているような雰囲気すら感じられた。そこは、国の軍事中枢にいる者の気丈さなのだろう。

そして、もうひとり、涙を溢しながら、その様子を見ている女性がいた。サルマだった。治療中はずっとエスメラルダの様子を見ていたがゆえに、その感動はひとしおなのだろうと、ルーナは思う。

「ルーナ、有り難う。更に治療を続ければ、エスメラルダ様は良くなって参りますわね」

 ハルマはまるで母のような温かな声で呟き、柔らかな優しい表情を浮かべて涙ぐんでいるというのに、どこか突き放したような違和感がある。それは、彼女の職務ゆえだろうかと、ルーナは考えた。

「はい。シュタイン博士にもお知らせしなければなりませんね。きっと、喜ばれると思います」

ルーナはいち早くシュタインに知らせてやりたいという想いから、つい口走ってしまった。だが、それを聴くなり、サルマの表情は一瞬、厳しく曇った。瞳に明らかな動揺が見える。ルーナが気付いたということは、もちろん、ヴィーナスたちはいち早く気付いていた。

「サルマさん、動揺されているということは、シュタイン博士が、今、どのような状況なのか、ある程度、知っていらっしゃるということですわね?」

間髪置くことなく、ヴィーナスは視線を逸らさずサルマを見つめると、キッパリと言いきった。

「……それは、今日は来られていないので、おかしいかと思っただけですわ」

サルマは若干ひきつってはいたが、冷静過ぎる笑顔を浮かべた。ヴィーナスの厳しくもキツい眼差しに負けずにいられるのは、大した女性だと、ルーナは思う。

「あなたはシュタイン博士が死んでいてもおかしい状況をご存知でいらっしゃる……。ということは、あなたがあの状況を仕組んだのですね?」

ヴィーナスは美しい表情を全く変えることがない。強い女性だと、いや、人としてかなり強い人だと、ルーナは思った。

「なんのことでしょうか?」

確実にヴィーナスに追い詰められているのにも関わらず、サルマはクールに踏ん張っている。しかし、オーラは、焦りの色が何処と無く滲んでいた。ルーナはオーラの動揺を誰よりも敏感に読み取る。

「まあ、知らないとおっしゃるんですね。まあ、良いでしょう……。それよりもあなたにお会いしたことがございませんか?」

ヴィーナスはあくまで優雅に立ち居振る舞う。

「さあ……?」

「サクル殿の邸宅で」

ヴィーナスが指摘をした瞬間に、サルマの表情が変わる。まるで一番触れられたくない場所に触れられたような、そんな表情だった。

同じようにとても強い女性同士ではあるが、今回は、完全にヴィーナスの勝ちだ。しかも完勝だと、ルーナは思った。

「あなたはサクル殿の命令で動いていらっしゃいますね。シュタイン博士の命を狙えたのは、彼が、アーキルたちと話をすることを事前に知っていたからですね?」

サルマはもう、強気に出ることが出来ずに、ただ黙りこんでしまった。その表情は渋さが入り混じっている。

今まで静観していたアーキルがゆっくりと口を開いた。

「……もう観念したらどうだ? あんたは、俺とシュタインが話していた内容を総て聞いている。そして、あんたは、シュタインに話をして貰いたくない事情があったんだろう? だいたい想像はつく。エスメラルダが死んでいることに気付かれてはならない事情があったからだろう? エスメラルダが俺を庇って刺されたのは、完全なる誤算だったからな……。起死回生を計るためには、エスメラルダが生きていなければならない必要があったんだよな」

アーキルはサルマを軽蔑するような眼差しで見つめると、冷徹な低い声で吐き捨てる。

サルマは沈黙している。ただ、俯いて。不気味なぐらいの沈黙とオーラに、ルーナは見ているだけで、息苦しさを覚える。

サルマはまるで悪魔のような狡猾な笑みをフッと唇に浮かべたあと、部屋に響くほどの高笑いをした。

「観念するわけがないでしょう! この私が!」

 サルマは、今まで被っていた気品の仮面を一気に脱ぎ捨てると、あばずれな表情を浮かべ、品なく足を開く。今までのあの美しく大人で、暴力などはあり得ない品行方正なサルマからは、うかがい知れない表情だ。

「----今日、ここに来た以上、あなたたちはもう、エスメラルダ様の秘密に気付いているでしょう? このままあなたたちを生かすはずがないでしょう? もう、手筈は打ってあるのよ……。残念だけれど、あなたたちには死んでもらうわ」

 サルマは、ゆっくりと胸元から大きな銃を取りだすと、ルーナたちに銃口を向ける。

「三人とも、腰に掛けている剣は外してちょうだい」

 サルマは引き金にしっかりと指を掛けながら、ゆっくりとルーナたちに近づいてくる。

ルーナは銃を見たことが初めてで、これが恐ろしい武器であることは直ぐに解ったが、それ以上のことは解らなかった。思わずヴィーナスに視線を送る。

「月の子ちゃん、あれは銃よ。からくり師が開発したもので、中にある弾丸に当たれば即死する武器なの……」

 ヴィーナスの声は明らかに揺れて、その深刻さを示していた。

 恐ろしい武器が世の中にあるとは思ってもみなかった。怖い。だが、逃げられないし、ここからは逃げてはならないと、ルーナは本能で感じる。

 背中には嫌な汗が流れ落ち、手のひらはしめって気持ちが悪い。鼓動が速くなりすぎて、呼吸すら上手くコントロールできない。

「さあ、死んでもらうわ……。帝国の皇帝は、サクル様以外にはありえないのよ。邪魔者は消すの。それが私の主義。それだけ」

狂っている。

これがサルマの本性なのか、それともエスメラルダを見護っていたサルマが本当の姿なのかは、正直解らない。

「私たちを殺せば、皇帝陛下は、サクル殿やあなたに重罰を科すでしょう」

 ヴィーナスはサルマを静かに見据え、厳しく冷酷に言い放った。

「サクル様が皇帝になれば、あなた方が逆賊になるのよ」

サルマは冷酷にも引き金をゆっくり引く。

ルーナはサルマを呆然と見つめるしかなかった。


その頃、ソーレは、シュタインに着いていた。だが、正直言って落ち着かない。

ルーナたちが今、どのような状況にあるのかが、気になって仕方がなかった。

胸騒ぎがする。ルーナに何事も起こらないようにと祈ってはいるが、大きな渦に巻き込まれているのではないかと、ソーレは心配になる。

師匠のアーキルが一緒の上に、姉のヴィーナスがいる。ルーナを任せるには最高の二人のはずなのに、ソーレは心配になる。それは自分できちんとルーナを護れないからに、他ならない。

こんなにも誰かに執着するなんてことは今までなかったというのに。これが、“太陽と月”の宿命なのだろうか。

だが、ルーナのためにも、何よりも自分のために、ソーレは、ルーナには絶対恋をしないと決めている。それだけは戒めだ。だから、これはただの“執着”だ。月と太陽が表裏一体であるから、引力のように引かれているだけだ。

ソーレは強く自分で思い、自戒にしていた。

今は自分のやるべきことは、シュタインの様子を見ることだけだ。そう思いつつも、やはりルーナたちが気になってしょうがないのだ。

異変があれば、直ぐに知らせて貰えるように手筈は整えているものの、果たして駆けつけられるのかが不安だった。

ルーナを自分の力で助けたい想いが大きいのは確かだった。

ソーレが悶々とした想いを抱いていると、僅かにシュタインの瞼が動いた。苦しげに呻くような声を僅かに発している。

「アルベルト……」

 ソーレが名前を呼び掛けると、シュタインは睫毛をちらちらと動かして反応する。間もなく、意識を戻すだろう。それを知れば、ルーナは喜ぶに違いないとソーレは思った。シュタインが目覚めたら、いち早く知らせてやろうと、ソーレは強く思っていた。

 ついルーナのことばかりを考えてしまう自分にソーレは苦笑してしまう。それだけ、ルーナはソーレを癒してくれる存在になっていた。

「……ん、ん、月の子……」

 シュタインはうわごとでルーナの名前を呼びながら、ゆっくりと瞳を開いてゆく。少しずつ開かれた瞳は、生命のきらめきを感じさせるものだった。重症だった患者の眼差しとは思えないぐらいの輝かしい瞳に、ソーレは驚かずにはいられない。

 シュタインの脅威の回復力か、それともルーナの癒しの力の凄さか。どちらも重なったが故の、回復だったのだろう。ソーレはルーナの能力の高さを喜ばしいと捕える半面、胸の片隅がチリチリと痛むのを感じた。

「……月の子……?」

「残念だったな、アルベルト、月の子じゃない。ソーレだ」

 シュタインはソーレを視界で認めると同時に、がっかりとしたように溜息を吐いた。全く失礼な奴だと、ソーレは思う。

「……本当に残念だ……」

シュタインは透明感のある静かな声で、あからさまに残念そうに呟いた。これにはソーレも苦笑いするしかなかった。

「アーキルが手術をし、月の子がお前に力を注いだ。そのお陰で、お前はこうして生きている」

「ああ。有り難いと思っている」

シュタインは、ふと寂しいがどこ優しさに彩られた光を、瞳に浮かべる。その光はとても清んでいて、何の迷いもないように思えた。

「身体の具合はどうだ? アルベルト」

ソーレが声をかけると、シュタインはシニカルな笑みを浮かべる。

「怪我をしたのが信じられないぐらいだ。本当に俺は剣で刺されたのかと、思うぐらいにな」

「そうか……。月の子のヒーリングが強力だったんだろうな」

「俺もそう思う」

シュタインはフッと微笑むと、ソーレを見た。

「まあ、アーキルの医術の腕は悪くはないけれどな」

ソーレは友人をさり気なく讃えるように呟いた。

「ふたりが、帝国最強の医療チームであることは、俺も認める」

シュタインも太鼓判だとしっかり呟いた。

シュタインはもう大丈夫なのだと示すように、身体をゆっくりと起こしてゆく。

かなりの深手を受けた上に、昨日手術をしたばかりだというのに、シュタインはスムーズに起き上がる。その生命力の力強さには、ソーレは目を見張るばかりだ。まさに奇跡を見せられているような気がした。

「アルベルト、起き上がっても良いのか!?」

ソーレが焦るように言ったが、シュタインはフッと微笑んだままで頷いた。

「大丈夫だ……」

シュタインはベッドのヘッドレストに背中を預ける。

「本当に驚異的な回復だな」

「ああ」

シュタインは心から実感しているとばかりに、力強く頷いた、

シュタインは軽く伸びをして深呼吸をする。ここまで出来るなんて、本当に驚異的な回復力だ。

「体力的にはどうだ?」

「ああ。大丈夫だ。全く。以前と同じか、それ以上だ」

「そいつは良かった」

ソーレは、シュタインを見つめる。身体が以前よりも力が増しているのか、シュタインは、今にもベッドから飛び出してしまうのではないかと思った。それほどまでに、回復しているようだった。これにはソーレも胸をなでおろす。

「もう大丈夫のようだな」

「ああ」

ならば重い話をしても大丈夫だろうと、ソーレは改めてシュタインと向き合った。彼は冷静で切れる眼差しをシュタインに真っ直ぐ向ける。

「……アルベルト、お前は何を俺たちに伝えたかったのだ?」

ソーレは率直に言う。先程までは安堵で穏やかだった表情が、厳しいものになる。

「……それは……」

シュタインは憂いと思い詰めたような表情を浮かべながら、口ごもる。

「お前が話さなければ、何も進まないし、何も解明されない……。エスメラルダ様は永遠に半分死んだままだ……」

ソーレは、厳しく冷徹な、まるで審判するような眼差しを向ける。シュタインも逃れられないことを感じたのか、唇を噛み締めた。

「今さらだろう。命を冒涜するようなことをお前がしたということは変わらないのではないか? 月の子とアーキルがやっていることとは、反対だ」

ソーレはシュタインに挑むような好戦的な視線を向ける。シュタインの瞳は、益々苦しそうに陰った。

「……確かに……、俺がしたことは、アーキルや月の子がしたこととは正反対だ……。あの時は、あれしかなかった。ああするしかなかった……」

シュタインは魂の奥から絞り出すような苦悩に満ちた声で呟くと、両手で頭を抱えた。

「……月の子に出会って、あの光に癒されて……。俺は間違った選択をしていたことに、ようやく気付いた。月の子は、見返りなど求めずに、純粋に、そのひとを救うためだけに、力を注いでいる……。その姿を見て、あの澄んだ眼差しを見て……、俺は、ようやく、自分が歪んだことをしているのだということに、気付いた……」

シュタインは透明に揺れる声で話した後、一拍置くように、大きく息を吸い込む。彼はようやくソーレを真っ直ぐ見つめた。

ふたりはお互いに対峙するために視線を絡ませる。

厳しい正義を翳すソーレの瞳と、弱さゆえの苦悩に満ちたシュタインの瞳が交錯する。そこにはまるで化学変化を起こす前のような静けさがあった。

腹を括るように、シュタインはソーレを見る。苦悩の末に、重苦しい感情を振り払ったような瞳の色だった。

「……エスメラルダ様は、正確にいえば生きている」

シュタインは言い切るが、相変わらず遠回しな表現だ。

「……正確にいえば、というのは、どういうことなんだ?」

ソーレは、どのように理解して良いかが判断できず、ストレートに言葉をぶつけた。

シュタインは一瞬目を伏せたが、次の瞬間、一流のからくりを操る者としての、矜持に満ちた眼差しになっている。

そこに迷いは欠片もなかった。

ソーレは、ようやくシュタイン本来の眼差しに出逢えたと感じる。眼差しを通してシュタインの本当の強さを感じたのは、言うまでもなかった。

シュタインは厳しくも怜悧な科学者特有の眼差しを、ソーレに向けた。まるで精密なからくりのようだ。頼もしいとすら、ソーレは思った。

「……エスメラルダ様の意識だけが生きているが、肉体は生きてはいない」

シュタインが何を言ったのか、一瞬、ソーレは上手く理解出来なかった。自分の中で咬み砕いて、言葉の意味をようやく理解する。そんな面妖なことがあるというのだろうか。ソーレは思わず眉根を寄せる。

「どういうことなんだ……?」

 ソーレの声はごく自然に低い厳しいものになった。

「----エスメラルダ様は、脳だけが、意識だけが生きている……。身体はからくりだ。心臓は俺とアーキルで研究を重ねてきた、からくり心臓だ……」

ソーレは、ただ神経質に目を見開くしか出来なかった。

そのようなことが出来るのか。神を冒涜するようなことが。肉体は滅びているのに、意識だけを生かすことが出来るのか。それよりもそもそもそのようなことが許されるのかと、強く感じる。

シュタインは、まるで自分の論文を発表するかのように淡々と話した。

余りにもの衝撃に、ソーレは表情を強張らせたままだ。

許されないこと。だが、望むこと。

にわかには信じられない。

意識さえ、脳さえ生きていれば、肉体をからくりで作れるなんて思ってもみなかった。そんなことが出来るとは、騎士としてやってきたソーレには、想像出来ないことだ。

ソーレは、自分の頭の中をきちんと整理をしなければならないと思いながら、一瞬、目を閉じた。頭が痛くなるような事実だ。

ソーレは気持ちを何とか落ち着かせると、再び目を開けて、真っ直ぐシュタインを見つめた。

「アルベルト、お前が俺たちに伝えようとしていたことは、このことか?」

「ああ……。伝えなければならないと思った。それに、アーキルは薄々気づいているようだったしな。月の子が上手く力を注げないことから、気付いたようだ」

シュタインは表情に悔恨と疲労を滲ませながら、ただ頷いた。

「……お前は、エスメラルダ様に、どうしてそのようなことをした? エスメラルダ様が、本当に望んでいたのか?」

ソーレは溜め息を浅く吐きながら、重い気持ちになる。シュタインから視線を外さずに、ただ見つめた。

「……生きていて欲しかった……! 何でも良いから、生きていて欲しかった……!! どんな状況であったとしても……、俺のことを愛してくれなくても構わないから、生きて、生きていて欲しかった……!」

シュタインは、魂の底からの深い愛を爆発させるように、声を絞り出す。そこには魂から出された愛の慟哭が刻まれている。

その想いに、アーキルは息苦しくなる。まともに見てはいられない。シュタインは本当に無償の愛をエスメラルダに捧げていたのだ。これ以上はないと思うほどの無償の愛を。

これには、ソーレの魂も静かな嵐に巻き込まれたかのように、揺さぶられた。

ソーレは思う。自分はシュタインのように誰かを深く愛することが出来るのだろうかと。恐らく、自分には出来ないと思いながらも、これほどまでにひとを愛せたら幸せだろうと、思わずにはいられなかった。

「……確かに、ソーレ、お前の言う通りに、エスメラルダ様が望んでいたのかと言われたら、そうではないかもしれない……。命を冒涜するようなことをしたと言われたら、そうかもしれない……。だが、俺はただ、エスメラルダ様には生きていて欲しかった……」

 エスメラルダの生を誰よりも望んだシュタイン。

 そして、エスメラルダの魂の安寧を、誰よりも望んだアーキル。

 ふたりの男の愛し方を目の当たりにして、ソーレは羨ましくも、羨ましくないとも思った。

「アルベルト……」

シュタインの気持ちを受けとるために、ソーレは目を閉じる。純粋なシュタインを、羨ましい男だと、ソーレは思った。

「アルベルト、お前にもうひとつ、訊きたいことがある。お前の協力者は誰だ?」

ソーレは遠回しで訊く必要などないと判断し、率直に訊く。シュタインは、ソーレを渋い眼差しで見た。このことについて訊かれることは解っていたのか、動揺は一切見せなかった。

「そのことも話すつもりでいた。お前のことだ。察しはついているだろう?」

「まあな。予想通りか?」

「多分な。俺に、エスメラルダ様の再製を持ち掛けて、資金を出し、遺体を盗んでくれたのは、サクル様だ」

シュタインは苦々しく呟く。

「結局、俺がエスメラルダ様を慕っていることを、利用したんだ……。そして俺もそれを利用した……。それだけだ。俺たちの利害関係が一致しただけで、それ以上も以下もない。」

シュタインは、お互い様だと苦笑いを浮かべる。そこには何処か自嘲の色があった。決してサクルだけを責めることは出来ないと、その眼差しが語っていた。

「やっぱりな……。それと、エスメラルダ様の周りにサクル殿と通じているヤツは他にいなかったか? まあ、これも十中八九予想通りだろうがな」

「……ああ。サルマ殿だ。エスメラルダ様の意識しか生きてはいないことを知っていたからこそ、ずっと傍にいた。監視も兼ねてだろうな。サルマ殿はサクル様の部下だ。そして、あの日、俺がお前たちと逢う約束したことを、聞いていたんだろう。地獄耳だからな。賭けだった。だから、アーキルにはなるべく小声で伝えたつもりだったんだがな。俺の読みが甘かった。だから襲ってきたんだろう……。俺は犯人が分かっていたから、月の子を庇った……。俺のせいで月の子に死んでもらいたくはなかった……」

もし死んでしまったら自分のせいだからと、シュタインは目を伏せた。

「……やっぱり、あの女だったのか……」

「月の子はまた確実に狙われるだろう……」

「ああ」

 ソーレは眉間の皺を深く刻む。

「月の子に色々と礼を言わなければならないな。どこにいる?」

「今日はヒーリングに……」

ソーレは自分で言って息を飲む。シュタインの顔色も変わる。

「まずい! ソーレ!」

「ああ。直ぐに行く!」

「俺も行く!」

ソーレは素早く飛び出し、シュタインはベッドから飛び降りて後に続く。怪我を負ったとは思えないほどの俊敏さだった。

「待ってくれ、目には目をだ!」

 シュタインはクローゼットからからくり銃を取り出し、携帯する。

「姉さんがいるから大丈夫だとは思うが」

「いや。あの女は、最新のからくりの武器を持っている」

「からくり?」

「ソーレ、サルマは銃を持っている……!」

「銃をか!?」

ソーレは一気に顔色を変える。

「ああ。あれで撃たれたらひとたまりもないだろうな」

シュタインも苦々しく呟いた。

どのような銃がルーナを狙っているのだろうか。考えるだけで、背中に不快な汗をかき、胸が嫌なリズムで躍り狂う。ヴィーナスが一緒だとはいえ、危険極まりない状況であることは間違いないと、ソーレは思った。いくらヴィーナスだからといって、飛び道具にいきなり勝てというのはかなり難しいかもしれない。しかも最新のからくりを使っているのだ。

「サルマ殿は銃の名手だ。気を付けねばならん」

「ああ」

ソーレは気持ちを引き締める。騎士ですら、銃をまともに操ることが出来る者は少ないのだ。ソーレは、背中に嫌な汗が滝のように流れて気持ち悪いと思いながら、先を急いだ。


サルマの美しい指先が、ゆっくりと引き金を引いてゆく。焦らすことで、楽しんでいるかのようだ。

どこまでひとの命を冒涜し、弄べば気がすむのだろうか。ルーナには全く理解できないことだった。

ルーナは、エスメラルダを護るために、その優美な手を握り締める。武器では護れないが、癒しの力で護ろうと思った。

サルマが唇に薄い笑みを浮かべながら、楽しむように、引き金を引こうとした時だった。

ドアが激しく蹴りあげられた上に、派手に壊される。かなりの音が響いたせいで、サルマは一瞬、怯んだ。

「……!!」

サルマが身体を引いて、息を呑んだほんのわずかな時間に、完璧なまでに長くしなやかな脚が飛んでくる。脚は素早く、凶器のような動きで、サルマの銃を遠くに飛ばした。

「ああっ……!」

サルマは、瞬きをするほどの時間で起こってしまったことに、声にならない声をあげる。脚で銃を飛ばされた衝撃は大きかったせいで、サルマは片方の手で指先を包み、顔をしかめる。かなりの激痛が走ったことは、誰にでも解った。

「ソーレ!」

アーキルの声に、ルーナは振り返った。華麗なる動きをした脚の正体は、ソーレのものだった。ソーレの見事な足の動きに、ルーナたちの命を救われたのだ。

そして、その横にはシュタインがいる。酷い怪我をしたのは昨日だというのに、何もなかったとばかりに、平然と立ちはだかっている。これにはルーナも驚いた。

今までこんなにも回復の早い患者を診たことが、ルーナはなかった。やはり、アーキルの手術の的確さのお陰だろう。

「……シュタイン博士、良かったです……」

シュタインの元気な姿を見て、ルーナは思わず涙ぐんでしまう。本当に良かった。

「お前のお陰だ。だから今度は俺がお前の役に立つ」

シュタインは決意を秘めたように言うと、胸元から銃を取り出す。先程のサルマが使ったものよりも立派なものだ。シュタインのからくり師としての総てが込められていた。

「……観念しろ、サルマ殿……!」

シュタインはサルマに重々しく銃口を向ける。形勢はこちらに逆転したかに思えた時だった。

地響きが聞こえて、何人もの兵がこちらにやってくる音が響く。

「サルマ殿!」

ゆうに三十人はいるだろう、サクルの私兵らしき男たちがやってきた。

サルマはホッとしたような表情を浮かべる。数でいけば、ルーナたちが完全に不利には違いなかった。だが、それでも、技量はこちらのほうが上だと、ルーナは自信が持てた。

からくり銃は最新式だからか、持っている兵士は少なく、ほとんど剣だった。

私兵たちは、一瞬、ソーレとヴィーナスを見て戦く。階級証を見れば、どれぐらいの騎士かがすぐに解ったようだ。だが、戸惑いを振り切るように、兵士たちは、サルマを囲むようにして護り、ルーナたちに立ちはだかってくる。

ソーレ、アーキル、ヴィーナスは、ルーナとエスメラルダを囲むようにして、男たちに対峙した。彼等は瞬時に剣を構える。

そして、シュタインもまた、銃を構えた。ルーナとエスメラルダを守る四番目の武人として、サルマと兵士たちに堂々と向き合う。

そしてルーナは、エスメラルダを守るために、握りしめる手に力を込めた。

私兵たちはルーナたちを目掛けて、一気に襲いかかってくる。こちらが息を吐く間もないほどの俊敏さだ。私兵とは言え、かなり訓練された者たちだった。

ルーナも、エスメラルダと繋いでいない手で剣を構える。この剣でひとを斬れないのは分かってはいた。だが、大切な仲間を守るために、剣を振るう。

ルーナとエスメラルダを護るために、ソーレたちは命を賭けてくれた。

やはりソーレは見事なまでの剣使いだ。私兵たちに剣を振るわせるまでもなく、一気に胴と腕に打ち込んで、立ち上がることが出来なくしてしまう。

アーキルもまた、重い太刀筋で、私兵たちを次々となぎ倒していた。

そして、ヴィーナスの剣は圧巻だった。こんなにも素晴らしい太刀筋が他にあるのかと思わずにはいられないほどに、優雅でかつ力強いものだった。まるでバレエでも踊っているのだろうかと思うほどに、美しい。本当にこれが女性の剣なのだろうかと、思わずにはいられないほどの、素晴らしい太刀筋だった。月の民であるルーナは、護身のために剣術を見に着けているがゆえに、ヴィーナスの凄さはすぐに解った。

ソーレは優雅に黄金の髪を揺らしながら、まるで太陽神のようにダイナミックで、隙のない剣で、敵を鮮やかに蹴散らせてゆく。

アーキルは、赤褐色の髪を野性味溢れる乱し方をしながら、私兵たちを一撃で立てないようにしていった。

ヴィーナスは、まるで闘いの女神のように、美しく荘厳に、相手を蹴散らせていく。

そして、シュタインは、科学の申し子として、無機質な表情のままで、兵士たちの足や手を目掛けて、弾丸を無慈悲に、かつ正確に撃ち込んでいった。

ルーナもまた、エスメラルダを護る最後の砦として踏ん張る。

エスメラルダを殺すことはないと踏んでいるのか、ソーレたちはルーナを一番に護るように闘ってくれている。

何も出来ない自分を守ってくれる仲間たちに、ルーナは深い感謝をせずにはいられなかった。どうか仲間たちに力と祝福を。ルーナ祈りの力を捧げた。

サクルの私兵は瞬く間に、打ち倒されていく。サルマは追い詰められる。あれほどまでに冷静を誇っていたサルマは、明らかに焦りの色をその表情に宿して、ジリジリと窓側へと後退していった。

再び地響きが聞こえる。第二陣のご到着だった。そこには、黒幕らしき男が剣を持って、寸劇に出てくる殿よろしく現れる。

黒幕らしき男は、退廃的な美しさを持った、少しだけくすんだ黄金の髪の持ち主だった。貴族的なきらびやかな装束がよく似合っている。

「サクル殿、有り難う、逮捕に行く手間が省けましたわ」

ヴィーナスなサクルに対して不敵な笑みを浮かべ、威圧的に堂々と宣言した。

あの男がサクルであると、ルーナは初めてその姿を目の当たりにする。想像していたよりも、ずっと綺麗だとルーナは思った。

デカタンスなサクルを護るため、私兵が彼を囲んだ。

ひとりでは勝負できないがゆえに、エスメラルダの心を得ることが出来なかったのだろうと、ルーナはひしひしと感じた。このような男に、いい加減だが慈愛が溢れた男らしいアーキルが負けるはずがないと。

「その台詞はヴィーナス殿、あなたにそっくりと返そう……。あなたは、いや、あなた方は、高貴なるエスメラルダ皇女の部屋で刃傷沙汰を起こしたのですから。その罪は重いです」

優美で退廃的な容姿にぴったりな、どこか気だるい美声で、サクルは言う。薄すぎる唇には僅かに冷ややかな笑みが滲んでいた。きっと、誰も愛することが出来ない人なのだろうと、ルーナは思った。

「逮捕状ならば、こちらで先に取っている。憲兵のね」

逮捕状を見せられたにも関わらず、ヴィーナスたちは全く反応しなかった。焦ることもなく、しらっとしている。まるで価値のない紙切れを見ているようだ。

ヴィーナスもソーレも、一瞬、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた後、再び、武人として素晴らしく暴れ始めた。

ヴィーナスは不敬罪なんて関係ないとばかりに、剣を美しく、そして野性味溢れるように、振り回す。

ソーレも、また何事もなかったかのように、剣を鋭く振るう。

アーキルもまた、私兵を剣でなぎ倒す。

シュタインのお馴染みのからくり銃も、喜んでいるかのように、うねりをあげていた。

まるで何かのショーなのではないかと思うほどに、見ていて小気味が良かった。

ルーナもまた、仲間たちに力を注ぐために集中する。

ここにいる温かな気持ちを持つ者たちの力が一つになって、力が溢れ始める。

「私たちを陥れて、そのうえ手柄を立てて、エスメラルダ様を奪おうなんて、浅はか過ぎるのよ! こうして、一気に利を得るために顔を出すと、ろくなことがないわよ。昔から、あなたは浅はかだものね。サクルちゃん!」

ヴィーナスはまるで子供を叱る母親のように言うと、サクルが持つ剣をいとも簡単に飛ばした。

「……!!!」

サクルは、見事に剣を飛ばされて、呆然とする。まるでこの世が終わってしまったかのような、表情をする。彼は総てを失ったかのように愕然としていた。

だが、それも一瞬だった。サクルは直ぐに胸元から銃を取り出すと、ヴィーナスに向かって銃口を向ける。

「……!!!」

ヴィーナスは美しい眉を大きく上げ、苦々しい表情をした。

「馬鹿はどちらかな。ヴィーナス」

サクルはそのまま、何の躊躇いもなく冷徹に引き金を引こうとする。ヴィーナスの表情が、益々厳しくなった。

ヴィーナスを助けたい。ここまでずっと護ってくれたのだから。ルーナは強い想いを抱いて、ヴィーナスを庇うために、その前に飛び出した。

「月の子!!」

ルーナの動きを察知するなりソーレが瞬時に反応して動く。そのままルーナに飛び掛かると、その身体を庇うように、しっかりと抱いてきた。

ルーナの身体は宙に浮き上がって、一瞬、何が起こったのか、分からなかった。

ルーナを片腕で抱くと同時に、ソーレはサクルの手を目掛けて、正確に剣を投げる。

「うわああっ……!」

サクルは手を血塗れにしながら、銃を宙に飛ばす。銃は発射されることなく、ゆっくりと弧を描いて、サルマの足元に落ちた。

サルマは素早く、その銃を拾い、震えながらも、ソーレとルーナに向けて咄嗟に引き金を引いた。

銃声が部屋に鳴り響く。

同じタイミングで、ソーレがルーナの身体をしっかりと護るように抱き締めてくる。

「ソーレ! 月の子ちゃん!」

ルーナは、もう駄目だと思い、目を強く瞑り、ソーレを護るために強く祈った。

銃声の後訪れたのは沈黙。

それはほんの一秒ほどだったかもしれない。だが、ルーナには随分と長い時間に思えた。それは、ここにいる誰もがそう思った。

「ソーレさん?」

ソーレがもし死んでしまったらどうしようか。護ってくれる兄のような頼もしいソーレを失うなんて、ルーナには考えられない。ルーナは恐ろしくて泣きながら、ソーレの名前を呼んだ。

「……俺は大丈夫だ……。撃たれてはいない」

ソーレの声に、ルーナは心臓が跳ね上がる。ソーレが撃たれていないことに、ルーナはホッとする。同時に、何が起こったのか確かめるために、恐る恐る顔を上げた。

「……そんな……」

「……エスメラルダ様!」

悲鳴にも似た、サルマの声が響き渡る。

ルーナは目の前に起こったことをようやく理解し、目を見開くと、呆然と見つめた。

ルーナたちを庇うように、エスメラルダが目の前に倒れていた。

「……エスメラルダ様……」

ルーナは驚きの余り、口を両手で覆って、そのまま言葉を失う。

エスメラルダはルーナとソーレを護るために、飛び出したのだ。そして、護りきり、自ら、弾丸を受けたのだ。

サルマが撃った弾丸は、エスメラルダの心臓に命中していた。

心臓はショートして、皮膚を焼きつくし、からくりである姿を見せていた。

ルーナの大きな瞳から零れた涙が、エスメラルダのからくり心臓の上に落ちて、湯気になって立ち上った。

「……エスメラルダ様……」

 サルマは自分がしたことに後悔するあまりに、身体から力が抜け、へなへなとその場で崩れ落ちる。

「……エスメラルダ様……」

 ルーナはエスメラルダに声をかけると、その身体を抱き起こす。

「……ルーナ……」

 エスメラルダは、優しい女性らしい柔らかな光を浮かべて、真っ直ぐルーナを見つめる。その瞳は、もう無機質ではなく、美しく優しい、慈愛あふれた温かなものだった。今までで、一番、エスメラルダが生きていると、ルーナは感じた。

 エスメラルダは、ようやく自分を取り戻したのだ。最後の瞬間に。

 ルーナは冷たいエスメラルダの手を取る。

「……有難う……。あなたのお蔭で……、私は……ちゃんと自分を取り戻せた……」

 エスメラルダは、ルーナが出逢って初めて、明確な言葉を発した。その声は、慈愛にあふれて、温もりを感じる。

「エスメラルダ……!」

 アーキルはエスメラルダ傍に駆け寄ると、その手を握り締めた。アーキルの瞳には、切ないほどに哀しい涙が滲む。それほどまでにエスメラルダを愛していたのだろう。

「……アーキル、有難う……。私、何も後悔していないの……。あなたを庇ったこと。そして、シュタイン博士……」

 エスメラルダの呼びかけに、シュタインも駈けつける。その瞳からは静かなる涙が溢れていた。

「……あなたにからくりの身体にして貰ったこと……、私は……有難うと言いたい。こうして、最後の挨拶が出来るのですから……」

 エスメラルダは静かに微笑む。するとシュタインは更に涙を零した。

「もう、静かに眠りたい……。ねえ、ルーナ、私は……、眠れるかしら……。こんなからくりの身体で……。人ではないこの身体で……」

 エスメラルダは、最後の癒しを求めるように、ルーナの小さな手を握り締める。その力は弱々しかったが、確かに人のそれだった。

「それは眠れます。だってあなたは、慈しみを持った素晴らしいひとだから……」

「……有難う……。これでようやく……安心して眠れるわ」

 エスメラルダは安心したように、静かに目を閉じた。

 意識も間もなく消える。唯一、生きていた、意識がか細くなってゆく。

「エスメラルダ様……。あなたに月の神のご加護がございますように……」

 ルーナは優しく語りかけると、剣をエスメラルダの前で一振りする。すると、癒しの力が、エスメラルダの身体にゆっくりと降りた。優しい力が下りてゆき、エスメラルダの口角が上がる。

 そのままエスメラルダの生体反応は、ゆっくりと消えてゆく。

「エスメラルダ様、来世は素晴らしい生を再び生きることが出来ますように……」

 ルーナは慈愛の心と癒しの力を、エスメラルダに降り注いだ。

 ルーナがエスメラルダに最後の癒しを送っている姿を、そこにいる誰もが、清らかな気持ちで見守っていた。

 そこにはもう、敵も味方もない。ただ、聖なる美しい月の女神の儀式を見護っている。誰もが心が癒され、洗われてゆく。澄み渡った感覚に、闘う意欲をなくしてしまっていた。

 ソーレは、魂の底から魅入られるように、ルーナの姿を見つめる。

 これが本来のルーナの姿なのだ。清らかな月の女神。銀色のヴェールに包まれた、誰よりも美しく清らかな女性だと感じる。

 護らなければならない----ソーレは強く思う。

 魂を揺さぶられるほどの感動に、ソーレは静かに目を閉じた。

 太陽は、月に焦がれて、一つになりたいと強く願う。

 運命が動き出す。傍に来て、手招きをして誘惑する。それを振り切ることが出来るように、ソーレは、今は祈るしかなかった。

「……生体反応が完全になくなりました……」

「……ああ」

 ルーナの言葉に、アーキルは寂しげに、だが、清々しい表情で頷いた。

 ヴィーナスは深呼吸をすると、静かに、サクルに近づいた。

「サクル殿、あなたを殺人未遂、エスメラルダ皇女への不敬罪、及び、帝国の保護民族である月の民迫害の容疑で、逮捕いたします。逮捕状は皇帝陛下から出ています」

 ヴィーナスは、何よりも威力のある逮捕状を、サクルに突きつける。

 皇帝の逮捕状。これがあるが故に、ヴィーナスは冷静沈着だったのだ。

 サクルはもう闘う意欲を失っており、ただその場で崩れ落ちる。そしてそこにいる、私兵やサルマもまた同じだった。

 ヴィーナスはすぐに部下たちに連絡を入れ、間もなく部下たちがやってきた。

「連れて行きなさい、直ぐに尋問の開始をするように」

「かしこまりました」

騒然とした中で、ヴィーナスの部下たちが、まずは私兵を連行する。

「サクル殿、サルマ、あなたたちの番よ」

ヴィーナスは冷たく言い切ると、サクルとサルマを自ら連行して行く。

「ヴィーナス、俺は……?」

 シュタインは逮捕される覚悟で、ヴィーナスに詰め寄る。だが、ヴィーナスは薄く笑みを浮かべた。

「何のことかしら? 私にはうかがい知らぬことよ。では、私はこれで」

 ヴィーナスは静かに言うと、サクルたちを連行して、そのまま立ち去さる。残されたシュタインはその場で崩れ落ちた。

アーキルは総てが終わったのだと、穏やかな表情でエスメラルダを見つめていた。ただ彼女だけを見つめる。今まで見た彼の表情のなかで、一番精悍で、魅力的な表情のように、ルーナには見えた。

ルーナは、エスメラルダのヒーラーとして、アーキルを見護る視線を送る。愛する人を喪った哀しみと、ようやく見送ることが出来た安堵が感じられた。

「アーキル先生、どうか、エスメラルダ様を抱き締めて差し上げて下さい……」

「……有り難うな。ルーナ」

アーキルは頷くと、ルーナの腕から、エスメラルダを受け取って、柔らかく抱き締めた。慈愛に満ちた表情だった。

「……エスメラルダ、よく頑張ったな……」

アーキルは寂しそうな、それでいて、何処か幸せな落ち着いた笑みを浮かべると、命を終えたエスメラルダを強く抱き締める。愛する人の最後の抱擁を、記憶と腕に刻みつけるように。

その場に愕然とうなだれて、座り込んだまま動かないシュタインに、ルーナはそっと手をさしのべた。

「……シュタイン博士……」

ルーナは慈愛に満ちた眼差しをシュタインに向ける。

シュタインの愛は歪んでいたかもしれない。だが、その愛は誰よりも美しくも純粋な愛なのだと、ルーナはひしひしと感じていた。だからこそ、エスメラルダも、アーキルも、誰もが責めることが出来なかったのだ。罪を犯してはいないと思えたのだ。

「立ち上がって下さい。博士のそんな姿を見たら、エスメラルダ様が哀しみますから……」

「月の子……」

ルーナは、アーキルの腕のなかで静かに眠るエスメラルダに視線を向ける。本当に幸せそうな穏やかな表情だった。

「エスメラルダ様はあなたに感謝をされていました。きっと、幸せだったのですよ。シュタイン博士は、これからやらなければならないことが沢山あるでしょう? だから、あなたはここにいます。罪には問われることなく。だから、そんな顔をなされないで下さい」

ルーナはシュタインに静かに語りかけると、もう一度彼を温かな眼差しで見つめた。

「……月の子……」

シュタインは涙の膜が張った瞳を、ルーナに向けてくる。

「シュタイン博士、あなたに月の神のご加護がございますように……」

ルーナは、白銀の剣をシュタインの上で振るい、癒しの力を注いだ。

シュタインの表情が、清々しく癒された穏やかなものになる。慟哭が糧になった瞬間だった。

「……有り難う、月の子……」

シュタインは噛み締めるように呟くと、ルーナの手をしっかりと取った。今までで一番強い力だ。彼は立ち上がると、ルーナを射るように真っ直ぐと見つめた。

「本当に有り難う、月の子……」

シュタインの言葉に、ルーナはただ穏やかに微笑んだ。

「今は、休んでくださいね。シュタイン博士。今のあなたは休息が大切です」

「有難う、月の子……」

その様子をソーレは厳しい眼差しで見つめている。まるでシュタインを羨ましいようにも、そして怒りを滲ませているようにも見えた。

「……エスメラルダを寝かせてやりたい」

「はい」

アーキルは、エスメラルダを抱き上げると、奥の寝室へと向かう。ルーナも寄り添ってついてゆく。

アーキルの手によって、エスメラルダはベッドに寝かされた。ルーナはエスメラルダの指を胸元で組む。もう、死後硬直が始まっている。からくり心臓のお蔭で最後の命を燃やしていた肉体は、朽ちるのが早いような気がした。

ベッドに静かに寝かされて眠るエスメラルダは、安らかで幸せそうな笑みを浮かべて、眠っている。

本当に美しいとルーナは思う。これほどまでに清らかな女性を、今まで見たことはない。総てをなし終えたような穏やかなエスメラルダは、からくり心臓で生きていた時よりも、ずっと美しいとルーナは感じていた。

「……エスメラルダ様、とても綺麗ですね」

「……そうだな……。良い女だった」

アーキルはしみじみと呟く。そこには、今まで遺していた後悔は、もうどこにもなかった。

エスメラルダをいつまでも見ていたい----そんな気持ちにすらなる美しさに、ルーナは暫し見つめていた。

「アーキル、月の子、俺は報告に向かう。連絡をしておくから、直ぐに、女官たちが来るだろう。後彼女たちが準備をしてくれるはずだ……。今は、エスメラルダ様のそばにいてやってくれ」

ソーレは静かにルーナたちに声をかけると、部屋を出ていく。

「ソーレさん! 有り難うございました」

ルーナはソーレの背中に向けて礼を言う。だが、彼は反応することなく、部屋から出ていってしまった。

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