第8話
宮殿に入る頃に、どっぷりと暮れていた。まるで何事もなかったかのような、そんな静かな夕べに変わっていた。
宮殿に入った馬は、ゆっくりとしたスピードで宮殿内を走ってゆく。
暗くなると、だんだん冷静になってきたのか。ルーナは益々アーキルたちが心配でならなかった。
ソーレに護られるように宮殿の自室に入っても、落ち着くことなんて出来なかった。食事も、アーキルと共同で使っている居間に運ばれたが、一切、手をつけることが出来なかった。
だが食事は、五人分用意されていた。
「五人分ですか?」
「ああ。お前、アーキル、シュタイン、姉さん、俺の五人だ。必ず帰ってくるのは解っているからな」
ソーレは確信しているとばかりに、しっかりと頷く。ルーナのような愁いはまるでなく、完璧に信じ込んでいるようだった。それがルーナには羨ましい。
「強いんですね、ソーレさん?」
「俺が?」
ソーレは驚いたように目を開く。その薄く整った唇には苦笑いが浮かんでいる。
「羨ましいです。そんなに信じることが出来るのが」
「あいつらが苦楽を共にした友だから信じているだけだ。心から信じる何かが出来れば、お前ももっと強くなれる。あいつらが、俺が、姉さんが、強く見えるのは、きっと、信じる者が明確にあるからだ。俺はそう思う」
ソーレは羨ましくなるぐらいにキッパリと言い切る。ルーナを見つめる瞳は、澄み渡った美しさを滲ませていると同時に、とても力強かった。
「そうですね。信じて待ってみます。きっと、シュタイン博士は無事ですね。だって、アーキル先生や、ヴィーナスさんがついていますから」
「ああ」
話していると、不意に足音が聞こえる。何人もの足音だ。刺客のものでないことは、ソーレが剣の柄に手を置かなかったことで明白だった。
「ソーレ、ヴィーナスよ」
ヴィーナスの凛とした声が聞こえ、ルーナは思わず椅子から立ち上がった。戻ってきたのだ。嬉しくて、ルーナが慌てて重々しいドアを開けると、直ぐにヴィーナスが部屋に入ってきた。
「ソーレ、アーキルが使っている部屋をすぐに開けて。アルベルトの緊急手術を行うから」
ヴィーナスの声は深刻に響き、直ぐにてきぱきと背後にいる部下に指示を出した。
シュタインは担架に寝かされ、直ぐに部屋に運ばれてゆく。その最後につき添っていたのは、アーキルだった。
アーキルもヴィーナスも、怪我すらしていない、全く無傷だった。若干、疲れはあるようには見えたが、それでも何時もどおりだった。
ルーナは少しだけ安堵する。アーキルとヴィーナスが無事であったことが嬉しかった。
「ルーナ、直ぐに手術の準備を。お前もヒーラーとしてつき添ってくれ」
「はい」
ルーナの心が一気に引き締まる。すぐに医術をする者として、ヒーラーとしてのスイッチが入る。手早く準備をする。
緊急手術は馴れている。とはいっても剣の傷ではなく、落馬や、事故といった案件がほとんどではあったが、それでも。ルーナは場数を踏んできたつもりだった。
この手術は絶対に成功させなければならない。ルーナを助けるためにシュタインが深い傷を負ったのだから。
ルーナは自室で白衣に着替える。これで準備は終了だ。
「ソーレ、手術中に、この剣を調べておいてくれ。この剣には毒が塗られている。この毒はひょっとして、エスメラルダの時と同じものかもしれない……。そうだとすれば、今回の刺客は、同じものが狙った可能性もある」
「では、始めるか。ソーレ、ヴィーナス殿。あなたたちは、手術の間、俺たちの護衛を頼みます」
「解ったわ。月の子ちゃん、アーキル、手術に集中して頂戴。後のことは私たちに任せて頂戴」
ヴィーナスとソーレがバックアップを務めてくれれば、こんなにも力強いことはないだろう。ルーナは強く思いながら、手術に集中することにした。
アーキルが、薬草で初期の手当てをしていたので、傷は深いものの、想像よりは酷いものにはなってはいなかった。だが、厳しい状況には間違いない。
目を被いたくなるほどの深手を負っていたが、シュタインは何とか持ちこたえている。
ルーナは奇蹟だと思いながら、神様に深く感謝せずにはいられなかった。
同時に、月の神に、シュタインが助かりますようにと、強く祈らずにはいられなかった。
アーキルは、シュタインの傷の深さに苦々しい表情を浮かべる。
「剣には毒が塗られていて、即死しなかったのがおかしいぐらいだ。それに傷もかなり深い」
アーキルは、ルーナに説明しながら、傷口の壊死した部分を切り取り、処置をしてゆく。本当に華麗なる手先だと思う。まるで神様に遣わされた指先だと言っても過言ではないぐらいに、アーキルの外科技術は素晴らしかった。
ルーナは、これから医師としてヒーラーとして見習わなければならないと思いながら、真剣に手術を学んでいた。
「薬草の薬を入れて縫合するが、ここに、お前の力を注いでくれ」
「はい」
ルーナは、アーキルに言われたように、シュタインの深い傷に力を降り注ぐ。すると、傷の部分がゆっくりと蘇生して行くのが見えた。
その様子を見ながら、ルーナは笑顔になる。これで安心だ。シュタインはきっと元に戻る。このまま助かるだろう。ルーナは強く確信せずにはいられなかった。
その様子を、アーキルは厳しい眼差しのままで見つめている。まるで、畏敬の念を込めるかのような光が、瞳には宿っていた。
「縫合」
「はい」
アーキルは傷口を綺麗に縫合してゆく。その間、ルーナはシュタインの手を握り締め、ゆっくりと癒しの力を注いでゆく。今日は、満月だ。癒しの力も強くなるはずだ。
どうか、シュタインが助かりますように。その想いを強くしながら、ルーナは力を強く注いだ。
「終了」
「はい」
手術が終わった後、ルーナは、シュタインに癒しの力が込められた包帯を丁寧に巻く。シュタインの顔を眺めると、先ほどに比べれば、随分と顔色も良くなってきていた。頬も少しではあるが、血色味を帯びている。ルーナは心からホッとしていた。
手術が終わった後、ルーナは先にお風呂に入れて貰った。本当は、シュタインを看病したかったが、手術の後と言うこともあり、ヴィーナスに言われて風呂に入った。疲労がゆっくりと癒されて、気分は悪くはなかった。
お風呂に入って居間に戻ると、こちらもまた風呂から出て、着替えたアーキル、ヴィーナス、そしてソーレがいる。
「月の子ちゃん、ご苦労様。シュタイン博士は徐々に回復しているようね」
ヴィーナスは柔らかく微笑みながら、ルーナを讃えてくれた。笑顔に癒されると同時に、ルーナは泣きそうなる。ここにいる人たちがいなければ、ルーナは死んでいたのだから。
「有難うございます。ソーレさんや、ヴィーナスさん、アーキル先生、シュタイン博士がいなかったら私……死んでいました……」
ルーナは声を震わせながら呟くと、三人に深々と頭を下げた。そして、未だ眠っているシュタインにもドア越しで頭を下げた。
「もう、泣かないの。もう終わったことだし、皆、助かったんだから」
ヴィーナスは優しくあやすように言うと、ルーナを柔らかく抱きしめてくれた。ふんわりとバラの香りがして何だかドキドキしてしまう。
「座りなさい。今から、色々作戦立てなくちゃならないから。シュタイン博士には、目覚めたら、お話を聞く予定だから」
ヴィーナスは、流石は軍の上層部にいるだけあり、冷静な言葉をかけてくる。ヒーラーとして、今から話を聞くのだ。いつまでも子供のようにめそめそしてはいられないと、ルーナは思う。
「はい、解りました」
ルーナは何とか涙をこらえた後、椅子に腰かけた。
「アーキル、先ほどの剣の毒の種類が解ったわ。猛毒の薬草セレーナとミスリル精製の際に出る毒を混ぜて作られていた。つまり、エスメラルダ様を斬った剣と同じね。あの時は、あなたを斬ろうとしていたわよね」
ヴィーナスはそれだけで刃物になるような視線をアーキルに向ける。いつものような温かくて艶やかな部分は全くなく、とてもクールだった。
「そうだ。あの剣は俺を斬ろうとしていた。俺が邪魔だったんだろうからな。まあ、次期皇帝選出がらみだとは思っているが……」
アーキルは反吐が出るとばかりに、忌々しそうな表情を浮かべながら吐き捨てる。そこには、静かな憎しみが滲んでいた。
「そう。そのルートをもう一度洗い直せば、犯人が解るかもしれないわね。今回襲いかかってきたのは誰なのか……。その理由も。それが、エスメラルダ様の今回の一連の騒動に繋がって行くでしょうし」
ヴィーナスは、優雅に紅茶を飲みながら、氷河よりも冷たくて固い声で言う。
ふたりの会話は、一ヒーラーであるルーナには皆目見当もつかず、また、全く住む世界が違うようにも思える。
「ソーレさん、私、場違いのような」
「いいや。ヒーラーとして、お前はここで話を聞いておけ」
「はい・・・・・・。でも、私には縁遠いお話なので、本当にいても良いのですか?」
一瞬、三人の表情が苦しげになったような気がしたが、すぐにソーレが口を開いたので、ルーナは気のせいだと思い、ホッとした。
「ああ。お前には、少しだけ、背景を伝えておく」
「はい」
「今の皇帝陛下は結婚されておらず、お子様もいない。ヴィーナス姉さんよりも、十ほど上ぐらいだから、まだお若い」
「ソーレ!」
年齢のことを触れられたのが嫌なようで、ヴィーナスはソーレをきつく恫喝する。
「だが、帝位の継承問題がくすぶり始めているのも事実だ。皇帝陛下は結婚の意思を示されていないのだからな。それが今回の事件の背景にあるかもしれないことは、頭の片隅にどうか入れていてほしい」
ソーレは咳払いをした後、静かに語る。ルーナは神妙な気持ちでただ頷くことしか出来ない。
「……とにかく。前回の場合は、アーキルを襲った理由は、エスメラルダ様と引き離すことが目的だったの。アーキルとエスメラルダ様が結婚されたら、それこそ、帝位継承に絡むから」
ルーナはどのように返事をして良いかが分からず、ヴィーナスの話に耳を傾ける。
「今回はそうじゃないような気がするのよ。だって、月の子ちゃんも一緒に狙われていたんだし……。刺客の一部が生き残ったから、訊問しなければならないけれど……」
ヴィーナスは溜息を吐きながらも、視線は厳しいままだ。その厳しさが、また美しく見せていると、ルーナは思った。こんなに強い女性が羨ましい。ルーナは憧れずにはいられなかった。自分も、ヴィーナスのように強くなれれば良いのにと思う。
「とにかく。アルベルトが目覚めない限りは、本当の意味での真相には近づけないと俺は思うが」
アーキルは静かに紅茶を啜ると、扉の奥に眠るシュタインに目線を配った。
「今回は、シュタインを口止めするのが目的で、俺とルーナは二次的なターゲットのような。俺たちふたりと、シュタインの三人を狙っていたとなると、理由は単純だろう。エスメラルダが、本当に生きているのか、生きていないのか。それを知られたくはなかった……。それだけだろう」
アーキルはバカバカしいとばかりに溜息を吐いた。
「エスメラルダ様の存在を利用して、皇太子になり、皇帝の地位を窺う。単純だな。そうなると、答えはしれている」
ソーレも浅はかだとばかりに、軽蔑するように呟いた。
三人の話を聞きながらも、ルーナは自分にはうかがい知れない話で、居心地の悪さを感じ、お思わず立ち上がった。
「あの、シュタイン博士の様子を診に行きたいです」
「そうだな。様子を診に行くか」
アーキルは立ち上がると、ソーレが眠る奥の部屋に向かう。ルーナもその後に着いてゆく。
部屋に入ると、シュタインはまだ深い眠りについていた。だが、手術を終えた直後よりも、かなり顔色は良くなっている。
ルーナはホッとして、シュタインの手を握り締める。
「シュタイン博士、早く良くなって下さいね。きっと良くなりますから」
ルーナは力を集中させると、シュタインに再び力を注ぎこむ。癒しの力を注ぎこむたびに、シュタインが良くなっていると、明確に感じることが出来る。ルーナはそれが嬉しかった。
シュタインは自分を庇って重傷を負ってしまった。それが、ルーナには辛い。重苦しい気持ちに、ルーナは息が出来なくなるほどの圧迫を感じる。
「早く、良くなって下さい……」
ルーナはシュタインにもう一度優しい声で呼びかける。辛い想いに、ルーナの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。シュタインの頬に落ちてしまい、ルーナは慌てて涙を引っ込める。
「ルーナ、心音も落ち着いて来ている、明日には目覚めるだろう」
アーキルは優しく肩を叩いた。
「月の子、今夜はアーキルに任せろ。お前は、今夜は休んだほうが良い」
ソーレもまた、ルーナを気遣うような眼差しを向けてくれる。ヴィーナスはそっと寄り添ってくれた。優しい抱擁に、ルーナは力を抜く。母を知らないルーナにとって、大人の女性の優しく大きな包容力は、何にも代えがたい癒やしだった。
「月の子ちゃん、戻りましょうか?」
「はい」
ヴィーナスに手を引かれて、ルーナはアーキルの部屋を後にした。
「さてと、これでも飲んで、落ち着きなさい」
「はい」
ヴィーナスは、ルーナを椅子に座らせると、温かな紅茶を差し出してくれた。
「美味しいわよ。それと、これは、ダークチェリーのタルト。甘いものをお腹に入れると、女の子は落ち着くでしょ?」
「有難うございます、ヴィーナスさん」
「お風呂にも入ったし、おやつも食べたし。これでぐっすり眠れるわね?」
ヴィーナスの優しい声に、ルーナはハッと目を開く。ヴィーナスは、ルーナのために色々と心を砕いてくれていたのだ。その優しさに、また泣きそうになった。
こんなにも優しく見守られている。人の心の温かさに触れて、ルーナはまた涙を零した。
「皆さん、有難うございます」
「あら、あら、月の子ちゃん……」
ヴィーナスは困ったように眉を下げた後、そっと抱きしめてくれる。
「あなたは本当に純粋で良い子ね……。だからあなたは多くに人々を癒せるのでしょうね」
「私は癒せてなんかいないです。私は逆に皆さんに癒されているんです。だから、こうしてヒーラーとして頑張れます。ヒーラーとしては力不足ですが、皆さんのお蔭で、こうしてずっとヒーラーとしてやってこれたんです」
ルーナは、ヴィーナスにそっと抱きつく。もし、幼いころに、母親に抱きしめられていたのならば、このような雰囲気だったのだろうかと、ルーナは思わずにはいられなかった。癒されて温かい。心がほかほかとしてくる。
「それはかいかぶりだわ。あなたの力は大したものよ、月の子ちゃん。正直、アルベルトの状況はかなり悪かったのよ。アーキルがすぐに手当てをしたけれども、それでも、状況は悪かった。だけど、あなたのヒーリングの力で、アルベルトは命拾いをした。だから、あなたの能力は大したものよ」
ヴィーナスはきっと励ますために言ってくれているのだろうと、ルーナは思う。力が高まってきているとはいえ、ルーナは自分の力がまだまだ足りないことは解っていると思っていた。
「私の力は最近、高まってきていますが、まだまだです。皆さんのお蔭で、力が高められています。シュタイン先生には、力を注げているのを確認することが出来ました。ぐんぐん、力が入っていることも確認出来ています。だけど、やっぱり、エスメラルダ様へは、力を充分には注げません……。私の力不足です」
ルーナは大きく溜息を吐いた。だが、こうして、普段は口にしない、愚痴のようなことを言うと、ストレスがどこかに飛んでいくのではないかと、ルーナは思った。気持ちが随分と落ち着いてくる。これはルーナにはとても有難いことだった。
「有難うございます、ヴィーナスさん。随分と落ち着きました」
ルーナは顔を上げると、にっこりとヴィーナスに向かって笑いかけた。泣き笑いの顔だから、きっとろくでもない表情をしているに違いない。すると、ヴィーナスに思い切り抱きしめられてしまった。
「もうっ! 月の子ちゃんはなんて可愛いのかしら!」
「あ、あ、あのっ! ヴィーナスさんっ!」
ルーナが戸惑っているにもかかわらず、ヴィーナスは抱きしめるのを止めない。優しくて、大きくて、柔らかな優しさに、ついルーナも笑ってしまった。
「本当に! 月の子ちゃんを傍におきたいわ! こんな弟とその友人たちはいらないから、あなたをずっと私の傍に置きたい。もう、食べちゃいたいくらいよ!」
「あ、あの、ヴィーナスさんっ!」
ヴィーナスが、ルーナを抱擁する姿を、ソーレとアーキルは苦笑しながら見ている。
「まあ、姉さんらしいな」
「ああ。だけど、ルーナが迷惑そうだ」
「同感!」
「ちょっと! あんたたちは、本当に何を考えているのかしら!」
ヴィーナスは憤慨しながら、ソーレとアーキルを睨みつけた。
抱擁の後、ヴィーナスは慈愛に満ちた笑みを、ルーナに向ける。
「月の子ちゃん、今日はゆっくりとお休みなさい。明日もまた早いわ。明日からもやるべきことが山ほどあるから。今晩は眠りなさい」
ヴィーナスは手をしっかりと握りしめてくれる。だが、まだ、眠りは訪れそうにない。きっとひとりになると、シュタインのことを考えてしまう。自分の劣等感のことを考えてしまう。恐らくは、そのことで眠れなくなるのは解っていた。
「……眠れないかもしれません……」
「そうね、今日は色々あったから」
ヴィーナスは頷きながらも、ルーナを見た。
「月の子ちゃん、だけど眠りは必要なのよ。特にあなたは、ヒーラーなんだから、ヒーラーが眠れなければ、いけないでしょう?」
「……そうですね」
「じゃあ、行きましょうか?」
「はい」
ヴィーナスはルーナの手をしっかりと握りしめた後、部屋に連れて行ってくれた。こうして手を握って貰えると、落ち着いてくる。
「不思議です。ヴィーナスさんに手を握って貰うと、安心します」
「そう。それは良かったわ。月の子ちゃん。今日はもう遅いから、眠りなさい」
「はい」
ベッドに寝かされたが、ルーナはまた目がさえてしまい、思わず溜息を吐いた。
「やっぱり、眠れないの?」
「はい」
「アーキルに、ハーブティーを処方してもらいましょうか?」
「私、それでは眠れないんです」
ルーナは苦笑しながら、ヴィーナスを見る。
「ヒーラーなので、いつもなら簡単に眠れるんですが、今日に限っては、眠れなくて。自分でもどうやったら眠れるだろうかって、つい、考えてしまいます」
「幼いころ、眠れない時はどうしていたの?」
「おばば様に、眠れるまで手を握って貰っていました。おばば様に、眠れる様に力を送って貰っていたんです」
「そう。私は、それは出来ないわねえ……。そうね、今、三人のあなたの協力者がいるわ。それぞれ少しずつ手を握るから、それで眠れるかどうかやってみましょうか。バカ男たちを呼んで来るわね」
「あ、ヴィーナスさんっ!」
ソーレとアーキルと手を繋いだからと言って、ルーナは特に何も思わないが、だが、ふたりに迷惑がかかると困ると思ってしまう。
「月の子ちゃん、連れて来たわよ!」
ふたりともむっすりとした表情を浮かべている。
「じゃあ、まずはアーキルから、月の子ちゃんの手を握ってみて」
「解った」
アーキルは、ルーナのベッドの前にドカリと腰を下ろすと、小さなルーナの手を取る。
「お前って手が小さいんだな。それだけ子供ってことか」
「先生、子供は余計です」
「悪い、悪い。まあ、手を握らないと眠れないなんて、お前はそれだけガキってことじゃないの?」
「そんなの、今夜だけですよ!」
「どうだが」
「本当です!」
ルーナがむすっとすると、アーキルはくつくつと喉を鳴らしながら愉快そうに笑う。
「だけど、先生の気は温かいですね。温かくて、力があります」
「そうか……。有難うな。ルーナ」
シュタインからの温かな気に、ルーナはホッとする。少しずつ心のざわめきはおさまってきてはいるが、それでも未だ、眠ることが出来なかった。
ルーナは眼をぱっちりと開いてしまった。
「やっぱ、眠れないか」
アーキルは手を離しながら、苦笑いを浮かべる。
「はい」
「だったら、選手交代。おい、ソーレ」
シュタインは、ソーレに無理やりハイタッチをすると、さっさと交代してしまった。ソーレは今までで一番不機嫌な顔をしてやってくる。手を繋ぐのが、それほどまでに嫌なのだろうかと思うと、ルーナは少しだけ哀しかった。
「ソーレさん、嫌だったら構わないですよ。眠らずに、踊りを踊って一晩明かします」
「お前は阿呆か。月の子」
ソーレは言い捨てると、そのままルーナの前の椅子に腰を掛ける。ここまであからさまに嫌がられると、ルーナは立つ瀬がない。
「だから、本当にもう良いですよ。ソーレさん」
ルーナが焦るよう言うなり、ソーレの大きな手が、小さな彼女の手を強く包み込んだ。
「……あ……」
ソーレは、ルーナと顔を合わせることなく、ただぶっきらぼうに手を握り締める。普段は飄々として、兄のように接してくれているのに、どうして手を握ることは拒むのだろう。それがルーナには理解できない。
だが、ソーレの気は、ルーナにとって、とても心地好いものだった。
名前の通り、まるで太陽の光のように力強く、元気と恵みを与えてくれるような気だ。何よりも、ルーナと波長がとても合うのか、共鳴しているようだった。
不思議だ。ずっとこうして、気を一つにしていたくなる。ソーレの力が、ルーナの身体に流れ込むことによって、更なる癒しの力が高まってくる。
心が強くなる。同時に、力が高められる。
なのに、どうしてこんなにも癒されるのだろうか。ルーナにとっては、それが不思議でたまらなかった。
こんなにも温かくて、躍動感に溢れる気を注いで貰ったことは、未だかつてなかったのだ。
安心する。まるで生まれてきた時から知っていたような、そんな懐かしさすら感じる。
ルーナは、優しい安堵感に包まれながら、柔らかな闇が瞼に堕ちてくるのを感じた。
今日は本当に長い一日だった。
夢も見ないほど、ルーナは深い眠りに堕ちて行った。
暫くして、ルーナが寝息を立て始めた。
これには、ヴィーナスはホッとするよりも、どこか切ない厳しさを表情に浮かべる。
「これで、ガキのお守は終わりだな。姉さん」
「……そうね……やっぱり、ソーレ、あなたと月の子ちゃんは、波長が合うのね。共鳴が起こりやすい」
「たまたまタイミングがあっただけだろう、月の子と……」
ソーレは目を伏せて、あからさまに怒りを滲ませる。
ヴィーナスは弟であるソーレを、姉として泣きそうな瞳で見つめてくる。そんな眼差しで見つめられてもしょうがないのにと、ソーレは思う。
「月の子ちゃんとあなたは、離れようとしても離れられないのかもしれないわね。お互いに、磁石のように引き寄せられる」
「姉さん……。言っただろう? 俺は月の子に恋することなどあり得ないと」
ソーレは姉に厳しい眼差しを向ける。
「ソーレ。そのような眼差しをヴィーナスさんに向ければ、向けるほど、俺には、痩せ我慢をしているようにしか見えんがな……。お前が、そんな表情をするのは、誰よりもルーナを大切に思っているからじゃないのか? あいつを傷つけたくないから……。あいつの為に、戒めを破り
たくないから……」
アーキルは、かつて命がけの恋をしていたものとして、友人のソーレに厳しく言う。その眼差しは、誰よりもソーレを愁いでくれている。それは解っている。だが、やはり、ルーナにはそのような想いを抱くことが出来なかった。
「月の子が眠ったから良いだろう……。部屋を出よう。こんなに騒いでいたら、あいつが起きるだろうから」
「そうね。出ましょうか、アーキル」
「はい」
三人はそっとルーナが眠る部屋から出て行く。三人は、ルーナを見護るような優しい一瞥を、ベッドで眠る彼女に投げかけた。
ソーレはもう一度だけ、無邪気な顔で眠るルーナに一瞥を投げる。本当に穏やかな、こちらが癒されるような寝顔だ。
ルーナの手を握った時、新しい力がそそがれて、漲ってくるのを、ソーレは確かに強く感じた。躍動感と安寧のどちらも感じるヒーラーに、ソーレは今まで逢ったことがなかった。能力者であるおばばですらも、このような力を感じなかった。
太陽と月----お互いに対だからだろうか。ソーレはその考えを一瞬にして消し去る。
ルーナには恋をしてはならない----それは、ソーレの中で絶対的な戒めだった。
居間に戻ると、ソーレは平常心に戻ることが出来た。
「話を元に戻すか」
ソーレは深呼吸を大きくした後、ヴィーナスとアーキルを見た。
「そうね」
「そうだな。これでルーナに聞かれては拙いことも含めて話せるからな」
そこにいる誰もが頷くと、再び話し始めた。
「アーキル、今回の黒幕は、エスメラルダ様の事件の時と同じだろう」
「前回はうやむやになっただろう。相手が皇族の血を引くという理由と、決定的な証拠がないという理由で」
アーキルは唇を歪めながら呟いた。
「ああ。まあ、一番は、決定的な証拠がなかったのと、エスメラルダ様が復活をされたから、うやむやになったということもあるな」
ソーレは手を組むとそれをそのまま顎の下に添える。
「エスメラルダ様は一度、アーキル、あなたによって、死の宣告がされた後、復活をしているわ。それが好都合な人物は、エスメラルダ様の言い名付けというか、夫として第一候補だった、サクル殿しかいないわね。彼ならやりかねないでしょう。彼は、どうしてもエスメラルダ様には生きていて貰わなければならないから。でないと、皇帝にはなれないもの」
ヴィーナスは眉根を寄せながら、明らかな不快感を表す。「こんなやつのために眉間に皺を刻みたくないわ」と、追加することも忘れなかった。
「サクル殿とシュタインを繋ぐ手掛かりは、アーキル解るか?」
「問屋に行って、アーキルがかなりのからくりの材料を買い込んだのは解っているんだが、それはすべて、自分で選んで、自分で買っているからな……。パトロンについての何か手掛かりがあるかどうかを、俺も探していたんだが、見当たらなかった。問屋ルートと言うよりは、シュタインの正攻法ルートを攻めてはダメだな」
話を聞きながら、ヴィーナスが考え込むように、人差し指を軽く咬む仕草をする。
「姉さんは何か心当たりでもあるのか?」
「……想い出せたら良いんだけれど……。喉にひっかかって取れない魚の骨みたいなのがあるのよ……。それが解れば良いんだけれど、何分記憶が薄いから……」
「老化現象」
「深刻な話をしているのに! あなたは何を言うのよ! ソーレ!」
ポツリと言ったソーレの言葉に、ヴィーナスは烈火のごとく怒る。年齢のことを触れてはいけないことは解っているのだが、姉がどのように怒るのかや、どれぐらい地獄耳なのかを見てみたくて、つい、ソーレはやってしまう。
「とにかく。サクル殿の件は引き続き調べる必要があるはね……」
ヴィーナスは言いながら、アーキルを見た。
「ねえ、アーキル。明日もエスメラルダ様の診察予定?」
「そうだ」
「だったら、私も一緒に行くわ。ちょっと確認をしたいことがあるの。そうすれば、さっきのもやもやは取れるかもしれないから……。ソーレ、あなたは、シュタイン博士を警備しておいて。ここは、最高の警備がされているから、滅多なことはないかと思うけれど、念のためにね」
「ああ」
本当は、自分が、ルーナたちの護衛に向かおうと思っていた。だが、姉が行く以上は、シュタインの警護が必要だ。
それに、どうして行きたいかはなんとなく解っていた。ルーナを自分の手で護りたいと思っているからだ。
これには自分自身苦笑してしまう。あんなにも、ルーナのことを避けようと必死になっているのに、自分が護りたいと思うなんて。これには、ソーレも愕然とするしかなかった。
「何? ソーレ、あなたは月の子ちゃんを自分で護りたいと思っているんじゃないの?」
ヴィーナスの鋭い指摘に、ソーレは睨むだけで、黙り込むしか出来ない。それが図星であるということを、アーキルやヴィーナスに言わしめるのと同じことだが、それはもうしょうがないと思った。
「まあ、ルーナはこちらの保護欲を刺激するぐらいに純粋な奴だからな。俺も、師匠として、ルーナを護らんねえといけないと思っているからな」
アーキルはあっさり過ぎるぐらいに、自分も同じ気持ちであることを認める。だが、それは、師匠であるという立場を超えた思いであることは、ソーレが一番理解出来た。
「そうでしょうね。私ですら、あの子にあれほどまでに癒されているんだから、あなたたちが癒されているのは当然だと思うわよ。これは本当にそう思っているの」
ここにいる誰もが、純粋なルーナに惹かれているのは、やはり、余りにもピュアだからではないかと、ソーレは思わずにはいられない。ルーナほどにピュアな者は、中々いないのだから。
「----だけど、あなたたちは戒めを護るのね。あの子が月の子であるから」
ヴィーナスはひとりの女性として、ルーナに同情するような気持ちを抱いているような表情をする。
「あたりまえだ」
アーキルも、ソーレも、キッパリと言い切り、強く頷く。だが、それが心から納得できていないものであるということは、ソーレが一番解っていた。
「----あの子は、折角、女性として生まれてきたのに、恋をすることが許されないなんて……」
「それがあいつの命を護るためだ。仕方がない。あいつは、帝国になくてはならなくなるだろうからな」
アーキルは眼を伏せながら、おばばの前でもう何度も言ったであろうセリフを、まるで暗唱するかのように言った。
「だから、恋をしないように、俺たちが護るしかないんだ。まだ誰も、恋をしないでほしい。そしてあいつも、まだ誰にも恋をしないでほしい」
ソーレは苦々しい想いが心の中で広がるのを感じながら、苦しげに呟いた。
「……それが、あの子のためなのよね。解っているの。私たちはそれを護るために、今こうしているのだから」
アーキルも、またヴィーナスも目線を下にして、溜息を吐く。
総ては帝国のため。ルーナのため。
その枷が破られる日が来ないようにと、ソーレ自身が強く祈るしかなかった。
沈む闇の中でルーナは目覚めた。
頭が冴えるのと同時に、シュタインへの罪悪感が頭をもたげてくる。シュタインにはどうしても助かって貰いたい。その思いから、ルーナはベッドから置きだした。
少しでも痛みを楽にしてあげたい。
その思いから、ルーナはこっそり部屋を抜け出して、薬草園へと向かう。シュタインのために出来ることと言えば、それぐらいしかなかった。
定期的に軍靴の音が響き渡り、騎士たちが警備をしているのが分かる。捕まれば、ソーレやヴィーナスに迷惑がかかる。ルーナは息を潜めながら、回廊を抜けて、薬草園へと向かった。
ソーレから預かった鍵を大切に握りしめながら、ルーナは息を弾ませて、薬草園へとたどりついた。
薬草園の鍵を開けて、ルーナはこっそりと入り込む。薬草園の中は、幻想的な風景が広がっていた。
月光に照らされた薬草は、深い緑色に輝き、瑞々しい命を放っている。
「今夜は、満月・・・・・・」
ルーナは空を見上げ、厳かに力強い月の光を一身に浴びる。そうしているだけで、自分の中から力が溢れてくるのを感じた。
月光はルーナにとって、まるで母親のような優しい包容力のある光だ。幼い頃、寂しいときは、月の光に包まれて眠りについたものだ。
薬草園に差し込む月光は、いつも以上に愛と母性を感じ、ルーナはやわらかな気持ちになれた。
ルーナは深い深呼吸をした後、導かれるままに、薬草を摘み始める。
薬草園の中で、ひときわ光を放つ薬草を、ルーナは導かれるように摘んでいく。この薬草があれば、きっとシュタインは助かるに違いないと思った。
「・・・・・・そんなことをしても、シュタインは助からない。全く、無駄なことだ」
妖艶で冷徹な声が背後から聞こえ、ルーナは思わず振り返った。
「・・・・・・サクルさま」
鎖骨まである艶やかな漆黒の髪と。、すみれ色の瞳は、今夜見ると冥界の魔王のようにみえ、ルーナは魂の底から震え上がる。美しさよりも恐怖が勝り、ルーナは首をぶるぶると横に小刻みに振りながら後ずさった。
「シュタイン博士は絶対に助かります」
ルーナは摘んだ薬草を入れた袋を抱きしめながら、精一杯の虚勢を張るが、サクルには全く通じなかった。
薄い笑みを浮かべながら、ゆっくりとサクルが近づいてくる。サクルの腕が、ルーナの首に向かって伸びたときだった。
「私の薬草園に許可なく入り込んだのは誰だ」
凛とした声が朗々と響くと、豊かな身長を持つ堂々とした身のこなしの男が、静かにやってきた。幻想的で威厳のある男は、誰よりも月の光が似合っている。まるで、月光が男を愛するように輝かせている。
「・・・・・・!」
サクルはその姿を見るなり、目を見開き、その場で立ち尽くす。
「立ち去るが良い、サクル」
男が冷たい一瞥を投げると、サクルは気まずい表情を浮かべながら、早々と立ち去った。
男の琥珀色の眼差しが、ルーナを柔らかく見つめる。どうしてこんなに優しい眼差しで見つめてくれるのか。どこか懐かしさすら覚え、ルーナは男をただ見ることしか出来なかった。
「・・・・・・ソーレ、送ってやりなさい」
男がソーレの名を呼び、ルーナが振り返ると、そこにはソーレが不機嫌そうに立っている。
「承知いたしました」
ソーレが背筋を伸ばして、正式な敬礼を行う。月光に照らされたソーレは、誰よりも鋭く、逞しく、そして美しかった。
「月の子、帰るぞ」
「あ、は、はいっ」
ソーレに強く手を引かれて、ルーナは無理矢理薬草園から出て行く。
もう少し、もう少しだけ、あの人のそばにいたいと本能で思った。
回廊を歩きながら、ルーナはふとソーレを見上げる。整った横顔は、明らかに怒っている。
「・・・・・・ソーレさん、ありがとうございます」
「お前も、夜中に抜け出すな」
ソーレは苛々するように言うと、足早にルーナの部屋まで向かう。
ソーレが気づいてずっと見守っていてくれたことがうれしくて、ルーナは、先ほどのサクルへの恐怖をすっかり忘れていた。
ソーレが握りしめる手は強いのに、怖くない。むしろ、もう少し力強く握りしめられてもかまわないとすら、思った。
「不良の子、着いたぞ」
ソーレはぶっきらぼうに言うと、ルーナの手を離す。すると、心も一緒に引き離されたような気分になり、ルーナは泣きそうになった。
「今夜はとっとと寝ろ」
「・・・・・・はい。色々とありがとうございました」
ルーナは深々とソーレに向かって頭を下げると、部屋に入る。ルーナが部屋に入り、鍵をかけるまで、ソーレはずっと見守ってくれていた。
今度こそ、安心して眠ることが出来る。
ルーナはベッドに入ると、すぐに眠りに落ちることが出来た。
ソーレが扉の前で、苦悩の深いため息を吐いたことに気づかずに。
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