第6話
ルーナがやるべきこと。それは、エスメラルダを癒すことだ。今はそれしかない。ただ、エスメラルダに対して、ヒーラーとしてベストを尽くしたいと、ルーナは強く思う。そうするには、向き合うしかない。
ヒーラーとしてエスメラルダを癒すことが出来たら、これほど素晴らしいことはない。患者と真に向き合って、元気な状態にしてあげるのがヒーラーとしての使命だとルーナは思っている。
ルーナは、今日もエスメラルダが療養している部屋へと、ソーレやアーキルと共に向かう。
「アーキル先生、少しでもエスメラルダ様の病状が改善すれば良いんですが・・・・・・」
「ああ。だが、エスメラルダが、ああしていられるのは、俺の見解ではあり得ない。当時、俺以外の医師も同じ意見だった。だからこそ、俺はどうして生命を維持できているのか、そのからくりが知りたい」
アーキルも頷きながらも、厳しい表情を変えない。ベリトスの町にいるときには見せない厳しい表情に、ルーナも神妙になる。
「今日も根気よく治療をして、様子を探ってゆくしかないな」
「はい」
ルーナは静かに頷き、回廊の隙間から見える美しい青空を見つめた。
ルーナにとって、エスメラルダの背後にあるものなどどうでも良い。ただ、少しでも病状を改選したかった。
エスメラルダの居室の前まで行くと、扉の前でサルマが立っていた。
「アーキル殿、ルーナ、本日は、大変申しわけありませんが、今日の診察はご遠慮下さい。エスメラルダ様の大切の方が見舞いに来られるので」
サルマは仰々しく言うと、芝居じみた動きで頭を垂れた。
アーキルの顔が一瞬こわばる。
「大事な方? 皇帝陛下は会議のはずだが」
アーキル以外のエスメラルダの大事なひとといえば、皇帝しかいないと言わんばかりに、ソーレは眉根を寄せながらサルマを見る。
「サクル様ですわ。サクル様は、エスメラルダ様がこのような状態になられても、献身的に支えておられましたもの。誰かさんとは違って」
サルマは一瞬、狡猾的な笑みを瞳に浮かべながら、アーキルを見る。だが、アーキルはそれを無視した。
「サクル様は、一生、エスメラルダ様のお側にいて下さる覚悟をお持ちです。噂をすれば」
鎖骨まである艶やかな漆黒の髪を優雅に揺らしながら。、すみれ色の瞳をした美しき男がこちらにやってくる。男臭さのあるアーキルとは正反対の雰囲気を持った男だった。
その美しさにルーナが目を見開いていると、サクルはぴたりとルーナの前で立ち止まった。
「・・・・・・月の子か・・・・・・」
サクルは独りごちると、真っ直ぐルーナを捉える。麗しの容姿と艶のある甘い声にルーナは、一瞬、魅入られたようになり、動けなかった。
「おばばとアーキルの診断が間違いであることを、弟子であるお前は証明に来たのか?」
サクルの言葉がルーナの心に鋭く切り込んできた。同時に夢想のような状態から醒める。
「おばば様とアーキル先生が間違えるとは、とうてい思えません」
ルーナは唇を噛みしめ、拳を作ると、屈辱のあまりに肩を震わせた。
「サクル殿、俺がふたりに来て貰った」
ソーレが怜悧に言うと、サクルは眉を上げる。
「ソーレ、第一騎士団の団長ともあろう、貴公も間違いを起こすことが、あるのかもしれぬな」
サクルの悪意すら感じる声に、ルーナは憤りすら覚え、強い眼差しでサクルを捕らえる。
「ソーレさんは間違っていません!」
ルーナの抵抗などただの小娘の戯言だと思ったのか、冷たい笑みをわずかに浮かべた。
「そう思っておけば良い。失礼する」
余裕のある笑みを浮かべると、サクルは、サルマに導かれてエスメラルダの部屋に入っていく。ルーナは、背筋が伸びたサクルの背中にナイフのように鋭い視線を投げることしか出来なかった。
「さあ、ここにいてもしょうがない。行くぞ、月の子」
ソーレは何事もなかったかのように乾いた声でクールに言うと、静かに歩き出す。
「今日はこれで解散だ、ルーナ。お前も自由に時間を使え」
アーキルは飄々と言うと、大きくの伸びをする。
「アーキル、月の子、今日のヒーリングが終わったら案内するつもりだったんだが、姉さんが許可を取ってくれ、宮殿内の薬草園に入れることになった。皇帝陛下直属の薬草園だ。今から、来るか?」
「本当に! ありがとうございます」
サクルの言葉で抉られた傷が、ほんの少し癒える気がするほど、嬉しい事だった。
「・・・・・・あの薬草園か。よく許可が出たな」
アーキルはふと目を伏せると、独りごちる。
「エスメラルダ様のためだと言うことで許可が出た」
「・・・・・・そうか」
アーキルは一瞬、ノスタルジックな眼差しを浮かべると、空を見上げた。
「じゃあ行くか。薬草は摘んでも良いそうだから、それを煎じて、お茶なり、薬なりすれば良い。お前たちが滞在している間は、入っても構わないそうだ」
「ありがとうございます!」
宮殿にいる間は使えるなんて、なんて太っ腹なのだろうかと思う。
「月の民の医術は、ヒーリングと薬草中心だからな。お前には堪らない場所だろうな」
アーキルも、険しい表情を引っ込めて、いつもの表情に変わった。
先ほどは、サクルにキツイことを言われたが、今は、薬草園に入れる嬉しさに、ルーナの機嫌も良くなる。
ソーレが、宮殿の中庭奥にある、薬草園へと連れて行ってくれる。ルーナは興奮しながら、笑顔で着いて行った。
「ここが薬草園だ。入るぞ」
ソーレは鍵を開け、ルーナたちを中に入れてくれる。
麗しい緑と薬草らしい芳香を、肺いっぱいに吸い込むと、とても清々しい気持ちになった。空気だけでも、身体に良いのが解る。
「エスメラルダ様に飲んで頂くお茶を作るために、薬草を頂きますね」
「ああ」
ルーナは、薬草じっくりと見ながら、お茶のために使うものを吟味する。
今までエスメラルダをヒーリングした感覚を頼りに、薬草を選んでゆく。いつになったらエスメラルダを診察できるのかは解らないが、処方したお茶で、少しでもヒーリングが出来ればと思った。
夢中になって薬草を摘んでいると、アーキルとソーレが笑顔で見守ってくれていた。
「月の子、お前は本当にヒーラーの仕事が好きなんだな」
ソーレがしみじみと言うと、ルーナは素直に頷いた。
お茶に使う薬草を取り終えて、ルーナはソーレに声をかける。
「ソーレさん、有難うございます。欲しい分は摘みました」
「ああ、じゃあ、出るか」
薬草園を出た後、ソーレは鍵をしっかりと締める。それほどここは大切な薬草園なのだろう。
「この鍵は、お前がここにいる間預けることにする」
ソーレは大切な鍵を、ルーナに差し出してくれた。これには、流石にルーナも驚いた。皇帝の薬草園の鍵など、大切極まりないものではないか。
「ソーレさん、薬草園の鍵なんて、そんな大事なものはお預かり出来ないです!」
「お前なら大丈夫だ。ちゃんと考えて、薬草を使うだろうし。必ず誰かの為に使うのは解っているからな。お前に預けているのが一番安心だ。俺や姉さんなら、ただの宝の持ち腐れだけれどな」
ソーレは自分たちには必要ないからと、ルーナの目を見て頷いて見せた。
こんなに素敵なプレゼントは他にないと思う。ルーナは遠慮なく、ここにいる間は鍵を持っていることにした。
「では、ここにいる間は、この鍵を使わせて頂きます」
ソーレは笑顔で頷いてくれる。その笑顔は太陽のように眩しく、ルーナの心の奥まで照らしてくれる。馴れない甘い感情に、ルーナは戸惑い、ソーレから目を逸らした。
「だけど、この薬草園は本当に素晴らしいです。月の民が使う、総ての薬草が揃っているなんて。きっと、この薬草園を作ったのは、月の民だったんだと思います。ひょっとして、おばば様ですか?」
ソーレとアーキルは、一瞬、真顔になってお互いの顔を見合わせた。
「おばば様ではないな」
アーキルは何処か言いにくそうにすると、ソーレに答えるようにと、押し付けるように見た。
「おばば様ではないんですか……。何だが、優しい、懐かしい空気が流れていたので」
ルーナの胸の奥は、優しい追憶に満たされ、切ない幸せが滲む。
「今から二十年近く前、ヒーラーとして召された月の民が、整えたと聞いている。今は、皇帝陛下の勅命で、月の民が、この薬草園を管理している。この薬草園はそもそも、ヒーラーのためにあるものだ。月の民以外は殆ど使わない。だから、お前は、ここを存分に使う権利がある」
ソーレは、いつもよりは歯切れは悪いが、何か大切な物語を語るように、呟いた。美しき光を抱いた蒼き瞳を柔らかく輝かせて、空を見上げた。
「だったら、私も使って良いとの事ですね。見事な薬草園なので、それを穢さないように使います」
「ああ」
「この薬草園を整備して下さった方には感謝したいです」
自分が生まれる前に、こんなに素晴らしい薬草園を整備してくれた、月の民に、ルーナは心から感謝をした。
早速、部屋に戻ると、ルーナはお茶を煎じるのに没頭した。
エスメラルダを助けたい。
少しでもエスメラルダを楽にしてあげたい。
その想いを、ルーナは色濃く薬草に託した。
薬草園の薬草はどれも極上で、煎じるだけでも、爽やかな自然の清々しい香りがした。吸い込むだけで、ルーナ自身も癒される。懐かしくも愛しい香りで、これと同じ、上質の薬草の香りを、ルーナは何処かで嗅いだような気がする。遠い、遠い昔に。
お茶をある程度の種類作った後、余った薬草で、サシェを作った。
サシェは月の民に伝わる御守りで、癒しの力も込められている。五つほど作り、ソーレやアーキル、そしてエスメラルダに渡そうと思った。
翌日のヒーリングには、アーキルは同行しなかった。治療経過を皇帝に説明に行かなければならなくなったからだ。そして、診察もルーナのヒーリング以外は施すことがないからだ。
今回は任されているから、かなり緊張している。しかも、ソーレもアーキルに同行しているため、ルーナは本当にひとりだ。
エスメラルダが、かつてアーキルと恋をしていた頃と同じような、生命力溢れるようにと、願わずにはいられない。ルーナは、また、アーキルとエスメラルダが、かつてのような感情を交換し合うことが出来るようになって欲しいと、祈るような気持ちでいた。
「ルーナです。エスメラルダ様、お話のお相手をしに参りました」
サルマに部屋に入れて貰い、ルーナは早速、透明感のある声で、エスメラルダに声をかけた。
すると、エスメラルダは生気のないグリーンの瞳をルーナに向ける。今日は、いつもよりも長く話をしてみようと思った。
「こんにちは、月の民のルーナです。これは、月の民に伝わる技法で作ったサシェです。エスメラルダ様にお渡ししようと思って」
ルーナは、サルマに分からないようにそっと、エスメラルダの手のひらに忍ばせる。
一瞬、エスメラルダの瞳がきらりと光り、空を見上げる。
「・・・・・・なつ、かし、い」
エスメラルダが話したような気がして、ルーナは目を見開く。本当にエスメラルダが話したかどうか確かめるために、ルーナは話しかける。
「渡しは、アーキル先生の助手をしています。アーキル先生といえば、いい加減で、いつも寝坊ばかりで、診療開始の準備をしてなくて、髪がみょんみょん立っています。だけど、医術の腕は確かで、町の人たちは皆、笑顔で先生を信頼しています。アーキル先生は町一番の医師だと評判です。ただし、いい加減だって、皆、笑っていますけれど」
ルーナはわざと怒ったように言い、感情に波をつけて話をする。こうすれば効果があると、おばばから聞いたことがあったからだ。すると、エスメラルダは一瞬、にっこりと穏やかに微笑んだ。瞳は宝石よりも美しく輝いている。
なんて魅力的な微笑みなのだろうかと、ルーナは思わず見惚れてしまう。あのアーキルが、そしてシュタインが夢中になったのが解るような気がした。
「……す……て……き」
「……!!!」
かなりか細い声であったが、エスメラルダは確かに声を発した。これにはルーナも驚いた。
嬉しい驚きであり、胸がいっぱいになるぐらいに感動する。エスメラルダは、ルーナが一番反応しないと感じた患者であったから、嬉しさはひとしおだ。感動が滲む。
振り返ると、サルマが驚いて涙ぐんでいる。そしてその横には、いつの間にかシュタインがいた。
シュタインもまた驚いて目を見張っている。だが、それは、嬉しい驚きだということが、ルーナには分かった。
このひとたちは、本当にエスメラルダを愛しているのだ。
ただ、生きているだけで良いと思っているのだ。
その想いを感じ取り、ルーナは、エスメラルダの周りにいる、本当に大切に思っている人々のためにも、がんばらなければならないと、強く思った。
そして、未だ、エスメラルダに想いを遺している、尊敬するアーキルのためにも、エスメラルダを元に戻したかった。
「……月の子……。お前は大したヒーラーだな……」
いつも無表情なシュタインは珍しく、甘く優しい笑みを浮かべた。その表情が砂糖菓子よりも甘くて、ルーナの鼓動が揺れる。
「有り難うございます、シュタイン博士」
「……アーキルの話も面白かった」
雪が溶けるように優しく笑うシュタインは、とても穏やかで静かな魅力を持った温かい人物だと思った。
透明感のある声、麗しい容姿に、儚げで穏やかな表情など、とてももてるだろうと思う。ただし、エスメラルダに一途でなければだが。
「エスメラルダ様、また色々とお話をしますね……。どのお話が一番お好きですか? 私の? それとも、ソーレさん? ヴィーナスさん? アーキル先生?」
やはり、アーキルで反応する。
魂の深いところで、アーキルを愛した記憶は刻まれているのだろう。愛する心は消えない。その事実に、ルーナは泣きそうになるぐらいに感動してしまった。
ルーナは柔らかな笑みを浮かべて、しっかりとエスメラルダの手を握りしめて、頷く。
「アーキル先生のネタは沢山ございますよ? にゃんこのご飯を取ったこととか、色々お話ししますね。では、エスメラルダ様、癒しの力を注ぎます。エスメラルダ様が、いつまでも笑顔でいられますように。月の女神様のご加護がございますように……」
ルーナは柔らかな声で言いながら、エスメラルダに力を注いだ。
するとほんの少しではあるが、彼女の顔色が良くなり、生体反応が僅かではあるが認められた。
少しずつ良くなっている。ルーナはそれが嬉しくて、笑顔になった。
ほんの僅かでも良い。エスメラルダの反応が、ルーナには嬉しかった。
「では、エスメラルダ様、また参ります。今度はにゃんこのご飯を取った話をしますね」
ルーナは明るく言うと、静かに笑顔で、エスメラルダから離れた。
「サルマさん、シュタイン博士、では私はこれで。また、明日参ります」
ルーナは頭を深々と下げて挨拶をした後、エスメラルダの居室を出た。
良い報告が、アーキルたちに行える。それがルーナには一番嬉しいことだった。
「月の子、待ってくれ」
声を掛けられて、ルーナが振り返ると、シュタインが部屋から大急ぎで出てきた。
「シュタイン博士」
「ほんの少しで良いから話が出来ないか?」
シュタインが声をまともにかけてくれるのは初めてで、ルーナは嬉しくて笑顔になる、こうして、とっつきにくい雰囲気を醸し出していたシュタインとまともに話す機会が得られたのが、ルーナには好ましかった。
「シュタイン博士こそ、エスメラルダ様にお話をするのはよろしいのですか?」
「サルマに頼んであるから、大丈夫だ。だが、すぐに戻らなければならないから、十分ぐらいしかないが、構わないか?」
「はい。大丈夫です」
ルーナは笑顔で元気よく返事をする。
シュタインがどのような人となりなのかは、ルーナは興味があった。エスメラルダのヒーラーとして、知っておく必要もある。
「中庭に行って話をしよう」
「はい」
ふたりは肩を並べて、廻廊をゆっくりと歩いて行く。回廊には優しい光が注いでいて、とても穏やかな気持ちになれた。
「月の子、お前のヒーラーとしての実力は認める。大したものだと思う」
「有り難うございます。だけど、私は並みのヒーラーですよ。シュタイン博士の買いかぶりです。今日うまくいったのは、皇帝陛下の薬草園の薬草を使用したサシェとアーキル先生の話のおかげだと思います」
ルーナは素直に自分の実力を告げる。本当にそうなのだからしょうがない。だが、シュタインはルーナの言葉が納得いかないとばかりに、完璧なまでに美しすぎる眉を顰めた。
「そんなことはないだろう……。今まで誰も癒せなかったエスメラルダ様を癒して、反応させたのだから」
「少しだけですよ。それもアーキル先生の弟子だから、ヒーラーとしてはおばば様に師事したからに過ぎません。お二人に師事しなければ、今回、エスメラルダ様を癒すことも出来なかったでしょうし、ここに来ることはありませんでした」
決して卑屈になっているわけではない。事実だからしょうがないと、ルーナは思っていた。
「お前はアーキルの弟子の上に、おばば様まで師事をしていたのか……」
シュタインは噛み締めるように言うと、自分で納得したように頷いた。
「ふたりともお前の実力がよく解っているからだろうな……。あのアーキルが弟子を取るとは思えないし。ましてやおばば様もいくら月の民でも、見込みのない者には教えないと聞いている」
シュタインにここまで賞賛されても、ルーナは何も言えない。本当に、実力がないことは自分が一番良く解っているから。
「おばば様は私の親代わりなんです。私は生まれた時に母を亡くして、天涯孤独だったから……」
「おばば様の孫格か……。ならば納得だ」
シュタインはフッと微笑んだ後、空を見上げた。
「シュタイン博士も、医療からくりで凄い方だとお聞きしました」
「アーキルか?」
「そうです」
素直に答えれば、一瞬、怒るかと思った。今のふたりは犬猿の仲にしか見えないからだ。
だが、シュタインは柔らかく懐かしそうに微笑んだ。
「かつてふたりで、命を救うためのからくりを研究していたからな……」
シュタインの美しい瞳はノスタルジックに輝き、ルーナの胸がきゅうんと音を立てるほどに痛くなる。その瞳は、懐かしく輝かしい日々を回想する老兵にも似ていて、まともに見ると泣きそうになった。
「今も、医療からくりを研究されていますか?」
ルーナは、シュタインの横顔を見ながら、さり気なく核心を突いた。一瞬、シュタインの瞳が神経質に大きく開く。明らかな動揺が感じられた。
「いいや……。お前はどうしてそう思う?」
「なんとなくです。ただ……」
ルーナもまた、シュタインと同じように青空に視線を向ける。
「楽しいからくりがあったら、是非、教えてください。私、昔から、からくり人形や、からくりのメリーゴーランドのおもちゃが大好きなんですよ」
ルーナは、シュタインがあまり気にしないように、わざと、子供のころに好きだった、からくりおもちゃの話をする。
「特に好きだったのは、お月さまの形が、三日月から満月に変わったり、太陽と重なったりする、からくりおもちゃが大好きでした」
「名前通り、月のおもちゃが好きなのか、月の子。そのからくりは俺も懐かしい。俺も好きだったな、そのからくりが……」
一瞬、強張りを見せていたシュタインの表情だが、再び柔らかくなった。ルーナはホッと胸をなでおろした。
「からくりが友達でした。おばば様に色々と教わった後に、からくりを使ってよく遊んでいました。月と太陽のからくりおもちゃは、おばば様が幼いころに誕生日の祝いにと贈ってくれました」
「そうか、それは俺の親父が作った最高傑作だ。今でも持っているか?」
「え? 本当にですか!? 何だか嬉しいです」
まさか、あの素晴らしいからくりを作ったのが、シュタインの父親だとは思わなかった。これは嬉しい発見と、ルーナは思った。
「月の民の民謡が流れるんですよ。それが子守歌代わりでした」
ルーナは宝物である、太陽と月のからくりを思い出しながら、つい笑みになった。
「----月の子、お前は天涯孤独と言ったな? さびしくはないのか?」
シュタインは青空を見上げながら、まるで空の向こうの天国を眺めているような、そんな物悲しい表情を浮かべる。
なんて切ない表情ばかりをする人なのだろうかと、ルーナは思った。その彼を唯一癒したのが、エスメラルダなのかもしれないと、ルーナは考える。
「私は天涯孤独であって、天涯孤独ではありません。母親は私が生まれたのと同時に亡くなりましたし、父親は知りません。だけど、ものごころがついたときには、既におばば様が傍にいてくれましたし、今は、アーキル先生がいます。そして、宝物のからくりもあるし、今回、ソーレさんや、シュタイン博士と知り合うことが出来ました。だから、私は孤独ではありません……」
ルーナは強くそう思う。ひとりであってひとりじゃない。血のつながった家族がいる、いないにかかわらず、人間は誰でもそうなのだろうと、ルーナはしみじみと思った。
「----アーキルがお前を傍に置く理由が解ったような気がする。おばば様がお前を慈しんでいる理由が解ったような気がする……」
シュタインは、今までで一番晴れやかで透明感のある笑みを浮かべ、ルーナを優しく見つめてくれた。
本当に優しいひとだ。瞳の輝きや笑顔を見れば、一目で分かる。
ルーナは、シュタインの印象が一気に変わるのを感じた。その印象の落差に、苦笑いすら浮かべてしまいそうになる。それほどシュタインは魅惑的だった。
「月の子、色々とお前と話すことが出来て、楽しかった。また、色々と話をさせてくれ……」
「勿論です。シュタイン博士」
ルーナもまた、この純粋なひとと話をしたいと思う。そうすることで、自分の心にあるピュアな部分を確認することが出来るのではないかと、思ったからだ。
「おい、アルベルト、ルーナに何をしている」
低く鋭い声が、ルーナたちの背中に突き刺さり、ふたりは思わず振り返る。
するとそこには、アーキルとソーレが立っていた。ソーレはいつもと同じ態度で、いつもと同じ表情だった。
だが、アーキルは、あからさまに怒りを露にした表情だった。
「アーキル先生、ソーレさん!」
どうしてこんなにも怒るのだろうかと、ルーナは思いながら、ふたりをいつもと同じ表情で見上げる。
「ルーナ、何かされなかったか?」
アーキルは本当にあからさまに呟く。不機嫌が突き抜けたような表情だった。
「シュタイン博士とは、ただお話をしていただけですよ。エスメラルダ様が、笑われたんです。そのことをお話していました」
「エスメラルダが、笑っただと!?」
驚きと興奮のあまりに、アーキルは言葉遣いを崩す。それは、アーキルとエスメラルダが恋に関しては対等であったと示していた。それがどこか微笑ましいと、ルーナは思う。
「エスメラルダが笑ったのか……。まさか、明らかな反応を示すとはな……」
ソーレも信じられないとばかりに呟く。
ソーレもアーキルも、あれ以上の奇蹟を考えてはいなかったようだった。
「“すてき”と、言葉を発せられた……」
シュタインはふたりに生真面目な視線を送る。
アーキルはかなり興奮したように、ルーナの細い肩を掴んだ。
「そ、それで、他には!?」
肩を何度も揺らされて、ルーナは驚いてしまい、つい怯えるように大きな瞳を更に見開いてしまう。
「あ、あの、それだけで……」
アーキルが興奮ぎみな理由は分からないではないが、ルーナはどうして良いかが解らずに、半ば戸惑ってしまった。
「それだけか!?」
アーキルは更にルーナの肩を揺する。ルーナはくらくらした。
「アーキル!」
ソーレが、アーキルを嗜めるように言い、腕で制止する。アーキルはハッと息を呑んで、自分を取り戻した。
「……ルーナ、すまなかったな……」
アーキルはばつが悪そうな表情になると、うなだれながら、ルーナから手を離した。
「しょうがありません。今回は、エスメラルダ様のことだったんですから……」
アーキルがいつもの反応が出来ないのを切なく思いながら、ルーナは笑顔で頷いた。ルーナは真っ直ぐアーキルを見つめる。
「アーキル先生、エスメラルダさんは、アーキル先生の話題で反応されたんですよ」
「俺の?」
アーキルは目を見開き、まるで恋する青年のようなはにかんだ魅力的な表情になる。見つめているだけで、こちらが幸せになるような表情だ。
「アーキル先生が、町の患者さんに慕われていること。いい加減だけれど、腕は確かな医師だと思われていることを、お話ししました。すると、本当に楽しそうに笑われたんですよ。エスメラルダ様は」
「俺のことで……」
アーキルは感窮まるような表情を浮かべる。アーキルが、今でもエスメラルダのことを心から愛しているのだということを、ルーナは強く感じずにはいられない。
アーキルやシュタインを見ていると、ひとを愛することは、なんて素敵なことなのだろうと思う。ルーナには、男と女が愛し合うとはどのような感情を生むのか、まだ具体的には解らなかったが、それが奇蹟すらも起こす感情なのだということは理解した。
「俺は端から見ていたが、感動的だった。俺は、正直、エスメラルダ様を微笑ませることなど出来るヒーラーはいないと思っていたが、それは間違いだった……」
シュタインは静かにだがどこか晴れやかな表情で呟いた。
「月の子のヒーラーとしての素晴らしさを話した。それだけだ」
シュタインは再び固い表情になる。
「では、俺はこれで。エスメラルダ様のところに戻る」
そこまで言って、シュタインは三人を羨ましそうに見つめる。
「お前たちが羨ましいな。アーキル、お前は良い弟子を持ったな。それだけだ」
シュタインは静かに呟くと、三人に背中を向けてエスメラルダの部屋に戻って行く。その背中はどこか寂しそうにも見えた。
「相変わらず、つかみどころのない男だな」
ソーレは苦笑いすら浮かべている。
「だけど純粋なひとだと思いますよ。少年のように」
ルーナもまた、笑顔でその背中を見送りながら言う。
「まあ、そうだけれどな」
ソーレもそれは納得とばかりに頷く。だが、アーキルは複雑な表情を浮かべながら、どんよりとしていた。
「ルーナ、先程はすまなかったな……。つい動揺してしまった……」
「アーキル先生もとても純粋な想いを持っていらっしゃるんだと思いました。アーキル先生のこのような面を見られて、楽しいです。患者さんへの話の種に良いかも」
「いらんことを話すなよ」
アーキルはうんざりとするように言いながら、完敗とばかりに溜め息を吐く。
「患者さんたちも楽しみますよ。ロマンティックのロの字もないようなアーキル先生のロマンスに」
ルーナがわざとからかうように言うと、アーキルはムッとした表情になる。
「大人をからかうな」
「はい、はい」
ルーナは面白くて、つい笑顔でからかってしまった。
「しかし、良かったな。ほんの僅かだが、光が見えた。皇帝陛下もお喜びになるかもしれないな」
ソーレの言葉に、アーキルは、複雑な表情を浮かべる。
「ある意味はな……」
「まあ、ある意味はだけどな……」
ふたりは何か深い事情があるのか、喜ばしい話題のはずなのに、どこか表情を曇らせた。
「さてと、明日からの治療方針を考えなければな、ルーナ」
「そうですね。アーキル先生。だけど、先生の失敗話をしておけば、エスメラルダ様は喜ばれると思いますが」
「お前は鬼っ子か」
アーキルが拗ねたように言うものだから、ルーナはわざとつんとした。
「そうですよ。」
ルーナは、アーキルが楽しそうにしてくれることが、何よりも嬉しい。ずっと影があることが気になっていたのだ。
明るくいい加減にしていても、どこか影のあるひとだと、ルーナは本能で感じていた。その原因が今は解る、愛するひとを失った哀しみだ。その重さを、ルーナはまだ頭では理解できなかったが、本能では理解できるような気がした。
アーキルの表情が医師らしい厳しいものになる。
「明日は俺も治療には同行するからな。その時に、エスメラルダ様の様子を診て、更なる手立てを考える」
「はい。お願いします」
「ルーナ、俺はソーレと話があるからな。お前は部屋に戻って構わないぞ」
「はい。有り難うございます」
ルーナは良い報告が出来て良かったと心から思いながら、笑顔になる。
「では戻ります」
アーキルとソーレに頭を下げた後、自室に向かう。
「ああ。戻ってゆっくり休め、ルーナ」
「月の子、ゆっくりしろよ。明日から、また宜しくな」
「はい、アーキル先生、ソーレさん、お先に失礼します」
エスメラルダに新たな反応が得られたなんて、こんなにも嬉しいことはない。ヒーラーとして爽快で、充実感あふれた幸せな気分だ。
明日も頑張れる。とても素敵な気分だった。
ソーレとアーキルは二人きりになり、大きな溜息を吐いた。喜びと深刻さが、ふたりの精悍で整った顔を彩っている。それは、くすんでいるようにも輝いているようにも見えた。
「----アーキル、ルーナは確実に覚醒しつつあるな……」
「ああ。解っている」
アーキルはそっと目を閉じると、苦悩に満ちた声で呟く。迷いと苦しみ。そして誇らしさも滲んだ、複雑の感情の繭の中にいると、ソーレは感じずにはいられない。
「あいつが天性に備わった、非常に強いヒーリングの力を、上手くコントロールして使えるように、おばば様に頼まれて、今までは弟子として医術を教えてきた。確実に成長はしてきたが、今までは亀の歩みだった。それが、今回のエスメラルダの件で、ヒーラーとして、一気に力をつけてきている……。間もなく、本当の意味で目を覚ますだろう。その時に俺たちが傍にいて、あいつの力のコントロールを助けなければならん」
「ああ。そうだな。月の子のヒーラーとしての力は、帝国としても保護をしていかなければならないと思っている。幼いころからおばば様に預けられ、来るべき日のために準備を進めてきたのだからな。だが、あいつが、あの力をコントロールするには、かなりの試練が待ち受けている。それが、月の子が耐えられるかどうかだ……」
ソーレもまた目を伏せる。ルーナの力の強さを理解しているからこそ、あの素直で明るい無邪気な性格を理解しているからこそ、ソーレもまた苦しくなった。歪めたくはなかった。
「今回のエスメラルダの件が成功すれば、あいつはヒーラーとして大きく成長するだろうな。だが、師匠として、今まで見護って来た者としては複雑だな。あいつには成長して欲しいが、傷つかないためにもこれ以上は成長してほしくないと思ったりもする。俺は師匠として、全く勝手な男だな……」
アーキルは自嘲気味な苦笑いをフッと浮かべながらも、その瞳をやるせなさでいっぱいにさせていた。
「お前の気持ちは解る。俺も、最初に月の子を見た時の印象はデカかった。あのような無邪気な少女が、まさか、国を救ってしまえるほどの、強力な力を兼ね備えているかもしれないとは、到底解らなかったからな……。月の子の良い部分をこのまま伸ばしてやりたいと思うのと同時に、力をコントロールできるようになることで、あの天真爛漫さがなくなってしまうのではないかという危惧もある……。だから、とても難しい」
ソーレもまた、ルーナの一番純粋な部分がなくなってしまうのではないかと、危惧をしてしまう。
「明日からの成長が楽しみであり、怖いな……、アーキル」
「ああ」
二人は、ルーナのことを思い複雑な思いを抱かずにはいられない。
帝国にとって、ルーナのヒーラーとしての力は、必要だ。だが、ルーナには成長こそすれ変わって欲しくはない。
二人男たちはそう願わずにはいられなかった。
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