第5話
馬で先を行くソーレがむすっとしているのは、その背中を見ているだけで解る。
馬は真っ直ぐ森を抜けて、宮殿と街を区切る大門へと向かう。ルーナは風を切って走りながら、牢獄から出るような爽快を感じずにはいられなかった。
馬は門番のチェックを経て、シエネの街に出る。空気が一変すると、ルーナは感じずにはいられなかった。
ソーレの後ろをルーナはひたすらついてゆく。賑やかで活気溢れる街中に入ると、馬の足並みを緩め、ソーレとルーナは並んで走る。
「このあたりは、薬草の問屋街だ。様々な薬草が揃うから、医師やヒーラーがやってくる。この近くの街のヒーラーや医師も、わざわざ買い付けに来るぐらいだからな。大したものなのだろう」
「私も覗いてみたいです」
「ああ。アーキルと一緒に行くと良い」
「そうですね。先生と、帰ってからの診療のために、色々と準備をするのに、覗きたいです」
「そうだな……」
ソーレは澄んだ空を、切なそうに仰ぎ見る。どうして迷子のような眼差しをするのだろうか。それがルーナには解らなかった。
「ここからが、からくりや錬金術に使うものの問屋だ」
「あっ!」
問屋街を必死になって歩く、見慣れた男を見つける。アーキルだ。アーキルは、問屋の商人に色々と訊き込んでいる。からくりに使う道具やパーツを探しているようには、とてもではないが見えなかった。訊き込んでいることと言えば、たったひとつしかない。アーキルがこんなにも真剣になっている姿を見るのは、ルーナは初めてだった。
「ソーレさん、アーキル先生!」
「ああ……」
ソーレは眉をひそめながらアーキルを見据えると、そのまま馬を巧みな捌きでアーキルの傍に着けた。
「アーキル」
ソーレが声を掛けると、アーキルは万事休すとばかりに、胸で大きな深呼吸をした。その眼差しはどこか思いつめているかのようだった。
ソーレは馬から飛び降り、ルーナもそれに続く。
「……ソーレ、ルーナ」
アーキルは観念したとばかりに、ふたりを見つめる。アーキルが何をしていたのかは解らないが、その表情を見れば、収穫がなかったことは確かだった。
「俺たちは、第一騎士団の支部に向かうところだ」
「ルーナを仕事に同行させてるのか?」
「ああ、致し方ないだろう」
「確かにな……」
アーキルは少し疲れたような表情を浮かべると、ふたりを交互に見た。
「……アーキル先生、何か調べていたのですか?」
ルーナは直球で訊く。今更、遠回しで訊くのも筋が違うように思えたのだ。
「お前らには嘘は吐けんか……。まあ、想像通りのことだ。ここでは、込み入った話は出来んからな。戻ってから言う」
アーキルはなるべく肝心な部分をぼかして言うが、ルーナたちはそれでも十分に理解することが出来た。やはり、宮殿に滞在していることや、皇女の病気と言うこともあり、白昼堂々と話すことは出来なかった。
「解った。詳しく訊かせてもらおう。ところで、アーキル。お前、馬はどうした?」
「ああ、第一騎士団の支部に預けている。軍医をしていた頃の馴染みもまだいるからな」
「そうか」
「アーキル先生は、第一騎士団の軍医だったんですか?」
「ああ。初めはな。第一騎士団に配属された」
アーキルは頭をかきながら飄々と言う。第一騎士団に配属される軍医も、エリート中にエリートと聞いたことがある。その地位に着いたものは、国家でも最高峰の医師になることが約束されたのも同然だと。だが、アーキルは今、しがない町医者だ。
「とりあえず、第一騎士団の支部に向かうか。馬を取り行くぞ」
ソーレの言葉に、アーキルは眉間に深い皺を刻みながら頷いた。かなり厳しい表情をしている。どうしてこのような表情なのか、ルーナには解らなかった。
「おい、ルーナ、お前の馬に乗せろ。支部まで」
「はいわかりました」
「お前のほうが手綱使いは上手いかもしれねえが、今回は、俺が手綱を握る。良いな」
ルーナは月の民であるから、馬の扱いは長けている。だが、アーキルは、自分で手綱を握ると強く主張した。
「解りました」
「じゃあ、乗るぞ」
アーキルはしっかりと手綱を取ると、背筋を伸ばす。その後に、ルーナも馬に飛び乗る。
「しっかりつかまっておけよ、ルーナ」
「はい、はい」
ルーナがアーキルにしっかりと掴まると、馬は走りだした。
問屋街の中と言うこともあり、最初はゆっくりと馬を走らせる。だが、アーキルとソーレがお互いに目配せをした後、路地に入るなりスピードを上げる。
急に走るスピードが上がり、ルーナは驚いて大きな瞳を更に見開かせた。
そのまま、二頭の馬は、まるで迷路のような都会の路地裏を走り抜けてゆく。
ソーレの金色の髪が激しく野性的に揺れ、アーキルの渋皮色の髪もまた乱れる。お尻が痛くなってしまうぐらいのスピードに、ルーナは競馬でもしているのかと思った。
ふと後ろを振り返る。すると、何人もの男たちが、ルーナたちを追いかけてくる。それもかなりのスピードだ。ルーナはようやく、アーキルがどうして自分で手綱を取ると言ったのかを理解することが出来た。この迷路のような路地裏を、ソーレとアーキルが熟知しているからだろう。それに、乱暴だが、アーキルの手綱捌きは大したものだった。騎士団にいたとはいえ、あくまで軍医であったのに、その腕は並みの騎士よりも巧みだ。
馬の体勢が斜めになるぐらいに、細い角をかなりのスピードで走ってゆく。ルーナは、アーキルにがっしりと掴まることで、何とか振り落とされるに済んだ。
かなりのスリルだが、こんなスリルは正直言っていらない。嫌な汗が背中に吹き出してしまい、気持ちが悪い。心臓も変なリズムで鼓動を刻んでいた。
「ルーナ、もうすぐ支部だ。気を抜くな」
「はい」
正直、アーキルの後ろに乗っていなければ、捕まっていたかもしれない。それぐらいに、かなりのスピードが要する乗馬だった。
つい全身に不用意な力を入れてしまう。強張っていると言っても良かった。
ソーレもアーキルも、逃げることには馴れているかのように、巧みに逃げてゆく。
最も狭い路地に入った時だった。背後から派手な馬の音が聞こえ、落馬する音が聞こえる。
「振り返るな、ルーナ!」
「はいっ!」
ソーレとアーキルは路地を抜け、まんまと追手から逃げることが出来た。
その途端に、馬のスピードがかなり緩やかになる。
「もう良いぞ、ルーナ。身体から力を抜け」
「はい、アーキル先生」
ルーナは振り返って、追手たちが倒れ込んでいるのを確認し、ようやく力を抜いた。
「このまま支部に寄って、アーキルの馬を拾ったら、宮殿に戻るぞ。色々話をしなければならないだろうからな」
「ああ」
ソーレの言葉に、アーキルは神妙に頷いた。
「ルーナ、気を抜くなよ。ひとりで馬に乗ったら特に」
「はい」
ソーレは厳しい声で警告する。どのような方法で、また追手がやってくるのは、予想がつかないのだから。
馬は、更に迷路のような路地をゆっくりと進む。
ルーナは街のことに全く詳しくはないので、一体、あとどれぐらいで支部に着くのかが解らない。それに支部と言うのが、どのような場所なのかも、解らかなった。
ようやく曲がりくねった路地を出る。今までは薄暗い道をずっと走っていたので、ルーナは思わず目を眇める。外は躍動感が溢れる夕陽に包まれていた。
夕陽に染まる、白亜の建物が見えてくる。
「あの白亜の建物が、第一騎士団の支部だ。この街最大の病院でもある」
ルーナは頷くと、夕陽に染まる建物を見つめる。一見して、病院にしか見えないこの建物が、第一騎士団支部だということを、一体、どれぐらいの人間が知っているのだろうかと、ぼんやりと考えていた。
病院の裏にある厩舎に立ち寄り、そこでアーキルの馬を拾った。
「ソーレさん、お仕事があるんじゃないですか? だったら、私とアーキル先生だけで帰りますが……」
「いいや、別の仕事が出来てしまったようだからな。俺も一緒に、宮殿に戻る。ここには俺の優秀な副官がいるから、そいつが何とか仕切ってくれるだろ?」
「だろうな」
これには、アーキルも苦笑いを浮かべながら同意をした。
ソーレの副官になるぐらいであるから、相当の人物なのだろうと、ルーナは思う。
「なら、安心ですね。では、宮殿までもどりましょうか」
「おう。話はその後だが……」
アーキルは次第に表情を険しくさせる。まるで何か不穏な物が近づいているかのような表情だった。
ソーレ、ルーナ、アーキルの順で馬は出発し、ソーレが先導しながら、宮殿へと戻る。
最初に宮殿へと向かった時は、堂々と一番賑やかな場所を走ったのに、今度は、裏道のようなところをゆく。
「最初と道が違いますよね? こちらのほうが近道なのですか・」
「まあ、近道と言えば、近道だが、民間人に迷惑をかけてはならないというか」
ソーレが言葉を濁して呟いた後、表情が不意に厳しくなる。
「おいでなさったようだ」
ソーレは、こちらの背筋ですら凍る低い声で呟くと、そのまま剣を抜く。同じく、ソーレも剣を抜いた。ルーナも解る。またしても追手がやってきたのだ。
こんなにも何度も襲われると、やはり、今回の仕事は、かなり危険なのだということを、改めて思う。だが、もう後戻りが出来ないのは、ルーナも良く解っていた。
「ルーナなるべく俺たちから離れるなよ」
「はい」
ルーナの背中にも緊張が走る。手綱を握り締める手が震え、手のひらには汗がねっとりと滲んでくる。それでも、この難局を乗り越えなければならない。だが、ソーレとアーキルが一緒であれば、ルーナは何とか乗り切ることが出来ると思った。
ルーナを完全に護るように、ソーレとアーキルが傍に着いてくれる。
ルーナが傷つかないように。ルーナが無駄な殺生をすることがないように。ふたりは最大限力を尽くしてくれていた。ふたりとも騎士道を貫く精神の持ち主だと、ルーナは思う。
覆面をした男たちが三人に近づいてきた。数は数人程度とそれほどでもないようだ。だが、騎馬隊のような巧みな手綱さばきをしているので、油断ならないことは解った。
「顔を隠すなんて、やましいことをしていますと、自分で認めているのと同じだろうが」
アーキルは余裕すらあるような声で言うと、そのまま男たちに向かって突進してゆく。
「この場合は攻撃が最大の防御だな。ルーナ、お前はひたすら俺たちのスピードについて来い。それ以外は何もしなくても良い。いいな」
「はい」
ルーナの返事を聞くなり、ソーレは素早く男たちに斬りかかって行った。
ソーレとアーキルは、巧みな剣術で、男たちの胴に剣を打ち込み、その衝撃で馬から次々に振り落とされてゆく。
ソーレたちの突進のスピードに、ルーナは必死になって食らいついてゆく。
暫く無心で馬を走らせた後、ルーナが後ろを振り返ると、倒れた男たちが、遥か遠くに見える。
息が上がる、同時に、ようやくホッと呼吸をすることが出来た。
「もうすぐ宮殿だ。流石にここまでは追ってこられないだろう。ルーナ、力を抜いて構わないからな」
「はい」
アーキルの言葉で、ルーナは手綱から力を抜こうとした。だが、上手く力を抜くことが出来ない。解っている。かなりの恐怖で、手綱が手に張り付いてしまっているのだ。汗が滲んで気持ちが悪い。
激しい鼓動は、宮殿の敷地に入ってからも止まることはなかった。
ようやく部屋に戻ると、ルーナの全身から力が抜けた。
まだ、吐きそうになるぐらいに、心臓が激しいリズムを刻んでいる。
ルーナの動揺を感じ取ってか、ソーレが女官に、落ち着くための紅茶を出すように指示をしてくれた。紅茶と一緒に、甘いお菓子とフルーツがやってきて、それらを口にして、ルーナは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「やばい橋を渡るのに手を貸して貰って申し訳ないな」
ソーレは、心からの謝罪の表情を浮かべながら、頭を下げた。だが、その瞳を見れば、ソーレが後悔はしていないのは明らかだった。
「こんなにも狙われるなんてどうしてですか? 今回のことが影響しているのですか?」
「そうだ。エスメラルダ様の件が原因だ」
ソーレはキッパリと言うと、ルーナを見た。アーキルは既にその理由を知っているようで、かなり深刻な表情をしていた。
「あの、どういうことか、きちんと説明して貰えないでしょうか? 知らないより、知っている方が、きちんとしたヒーリングが出来ます。今の私は、エスメラルダ様を癒やすのには、力不足です。だけど・・・・・・、少しでも手がかりがあれば、少しは癒やせるかもしれない。・・・・・・どんな事実があったとしても、知らないよりは良いです・・・・・・。そうでなければ、私は癒やせない」
エスメラルダを癒して元気にする自信も、現時点ではない。だからこそ小さな手がかりがほしい。それ故に、ルーナは理由を説明してほしかった。それがなければ、やはり首はしっかりと立てには振ることが出来ないと、ルーナは思った。
「当然だな。お前にはきちんと話をしておく」
ソーレは頷くと、アーキルに目配せをする。アーキルもまた、苦しそうではあるが、頷いた。
「エスメラルダ様は、皇帝陛下の妹にあたる方だ。皇帝陛下はご結婚されておらず、故にお子もいない。皇室の直系はお二人だけなのだ。皇位継承権があるのは、現時点では、公式にはエスメラルダ様だけだ。将来的には、皇帝陛下がお子様を持たれない場合、エスメラルダ様のお子様、あるいは、皇室に縁のあるしかるべき家から迎えたエスメラルダ様の夫君になる方・・・・・・にも皇位継承権が与えられることになるだろう」
ソーレは複雑な表情をすると、一瞬、目を伏せる。その表情にはやるせなさが滲んでいた。
「更に問題を複雑にしているのが、皇位継承権エスメラルダ様ではなくなる場合だな。直系ではなく、遠縁の貴族が皇帝になることになる。直系ではないが、皇室の傍系家は沢山あるからな。ゆえに権力争いも激しい」
ソーレはうんざりするように言うと、大きくため息を吐いた。辟易してるのが見て取れる。
「つまり、今回、俺たちが何度か襲われてるのは、皇位継承に関して、俺たちの動きが邪魔な人間が、沢山いるってことだ」
「え!?」
ソーレやアーキルの言葉は、ルーナにとってはまさに晴天の霹靂で、どのように反応して良いのかが分からない。月の民の世界とは全く異なる世界に、ただ目を丸くするばかりだ。
「背景の話はこれぐらいにしておいて、エスメラルダ様の話をしなくてはな」
ルーナは気持ちも表情も引き締めると頷く。
「エスメラルダ様は元々活発な方であったが、病弱でもあった。幼いころから、月の民の強いヒーラーが常に傍にいるほどだったそうだ。それ故に、いつもその病状が危惧され続けた方でもあった」
「ルーナ、俺はエスメラルダ様の専属医師だった」
アーキルは苦しげに呟く。アーキルにとっては、苦しい過去なのだということは、その表情でうかがい知れた。
「俺は第一騎士団の軍医だったが、ある時、皇室に呼ばれて、エスメラルダ様の専属医師になるように辞令を受けた。最初は俺と同じ年の姫様のおもりをするのかと、すごく嫌だったんだけれどな。だが、エスメラルダ様は、明るくて、病弱とは思えないほどに元気で、しかも、生命力に満ち溢れていた」
アーキルは、綺麗な思い出を手繰るようにノスタルジーな眼差しで宙を見る。きっと、とても素敵な思い出なのだろう。そこには、愛以外の何も感じられなかった。
「元気なころのエスメラルダ様はきっと素敵な方だったんでしょう? アーキル先生の話を聞くだけで解ります」
「そうだな。とても魅力的な……女……お姫様だった」
アーキルは自嘲気味にフッと笑った後、黙り込んでしまう。瞳に涙の幕のようなものが輝き、ルーナは共鳴して切なくなった。
「そこからは、俺が話そう」
黙り込んでしまったアーキルに変わって、ソーレが口を開く。
「エスメラルダ様のヒーラーとしては、お前は知っていなければならないことだからな」
「はい、お願いします」
「エスメラルダ様とアーキルは、やがてお互いに慕い合うようになった。だが、片や皇女で、片や医師だ。ふたりの恋は許されるものではない。だが、エスメラルダ様は、たとえ純愛であったとしても、アーキルとの恋を貫こうとした。そして、それを皇帝陛下も容認していた」
「え?」
意外だとルーナは思った。普通ならば、そのような状況だと、兄として反対するだろう。だが、容認していたなんて、俄かに信じられなかった。それと同時に、皇帝のどこか優しい気質も感じられる。
「容認されていたんだ。だが、それらを疎ましく思う輩もいた。エスメラルダ様を利用して皇帝の地位を狙っている輩だ。奴らは、アーキルを暗殺しようと画策した」
「……なんてことを!」
ルーナは思わず息を呑む。非公式であると言え、皇帝も容認していた恋だというのに。だが、どこにも、地位のために様々なことを画策する者はいるとルーナは思った。
「元々エスメラルダ様の身体は弱く、おばば様がヒーラーとして何度も来なければならないほど、衰弱が始まっていた。おばば様もアーキルも、時間の問題かもしれないという結論に達していた時だった。アーキルの存在を疎ましく思った者が、アーキルを襲った」
アーキルは眼を強く閉じる。瞼と睫毛を振るえるところを見ると、悪夢以上の経験であるということは、ルーナはすぐに理解することが出来た。
「……だが、実際に、毒刃にかかったのはエスメラルダ様だった。アーキルを庇い、心臓を深く刺された」
ソーレが感情なく淡々と話すが故に、ルーナの躰は小刻みに震えた。
「そんな……」
訊いているだけで、ルーナは苦しく、そして哀しくなり、瞳からぽろぽろと涙を零す。こんな苦しくて切ない悲恋が他になるのだろうか。アーキルの気持ちを考えると、ルーナはいても立ってもいられなくなる。涙が溢れすぎてしまい、ルーナは、小さな手のひらで、小ぶりの顔を覆った。
「アーキルによって緊急手術が行われ、それにおばば様も立ち会った。しかし結果は、上手くいかなかった。この国一の医師とヒーラーが、エスメラルダ様は死んだと判断した。アーキルはそのために専属医師を辞めた。後はお前も知るところだ」
「・・・・・・犯人は捕まったんですか?」
「直接、手を下したものは捕らえられた。だが、すぐに毒物で殺され、裏で糸を引いているものは分からないままだ。見当はついているが、証拠がない。それに・・・・・・」
ソーレは唇を軽く咬み、その怜悧な横顔には苦悩が滲んでいた。
「そして、アーキルが死んだと判断したにもかかわらず、葬儀の準備の途中に、エスメラルダ様は目を覚まされた。死んだと宣言されたにもかかわらず、エスメラルダ様は、生きていた。だが、もう以前のエスメラルダ様とは様子が違っていた。記憶が定かではなくなり、闊達ではなくなった。逢うのは、女官のサルマと家庭教師だったシュタインのみだ。それ以外の人間は、あれほど慕われていた陛下や姉さんすら全く受け入れない」
ソーレは面妖とばかりに眉をひそめる。その表情は、かなり厳しかった。
「……陛下やお前の姉さんですらダメだったのか……」
アーキルはようやく重々しく口を開く。
「ああ」
「ヴィーナスさんも、エスメラルダ様とお知合いなんですか?」
「ああ。幼馴染と言うか。子供の頃、姉さんはエスメラルダ様の遊び相手をしていたんだよ」
「そうなんですか」
「お前、あのヴィーナスに逢ったのか?」
先ほどまで厳しい顔をしていたアーキルがぎょっとした表情になった。
「はい、今日。カッコ良い方ですね」
「カッコ良い……ねえ」
アーキルは忌々しいものでも話すかのように言うと、大きく溜息を吐いた。こんなにもあからさまに苦手そうな表情のアーキルを見るのは、おばばの話をする以来だった。
「とにかく、まったく反応を示さないから、陛下が、国中の医師とヒーラーから、特に優れているものを呼び寄せて、エスメラルダ様を診察させた。だが、結果は、お前たちも知っている通りだ。そこでお前たちに白羽の矢が立ったという経緯がある」
ルーナはようやくバックボーンを理解し、しっかりと頷いた。
「背景はよく解りました。だけどどうして、シュタイン博士は寄せつけるんでしょうか? 女官であるサルマさんはなんとなく、昔から一緒だからかなあとも思うんですが、それにしても良く解らないです」
ルーナは考え込む。記憶のない人物でも、自分の想いで反応する人物を寄せつけるとしたら、シュタインと恋仲だったことになる、だが、今の話を聞くとそうは思えない。ルーナは益々訳が解らなくなってしまった。
「あの、シュタイン先生とエスメラルダ様は恋仲ではなかったですよね?」
「ああ。少なくとも、シュタインはエスメラルダ様のことが好きだったが、エスメラルダ様自身は、尊敬する先生であり、親愛なる友人ぐらいにしか思ってはいなかった。これは、あの姉さんの証言だから間違いはない」
「なら、どうしてでしょうか? まるで、初めて見た人とか物を親と思う刷り込みみたいです」
「刷り込み?」
ソーレは眉を寄せながら、怪訝そうにルーナを見た。
「はい。よく、ひよことかが、最初に見た動く物を親だと思うというでしょう? 最初に見たのが、シュタイン博士だとか。だけどそれだと可笑しいですよね? 生まれてすぐシュタイン博士を見るはずなんてないのに……」
自分で言って、ルーナは流石に違うと溜息を吐いた。
「それは解らないが、ひとつだけ分かることは、今回の一件は、シュタインとサルマが絡んでいるのは間違いないと俺は思っている」
ソーレはキッパリと言い切った後、アーキルに視線を投げた。
「俺もそう思って、何か解ることがないかと、俺が知る限りの、シュタイン御用達の問屋だとかを、シラミ潰しであたることにした。その途中で、お前たちに出くわした」
「刺客はいつからお前にくっついていた?」
「俺が問屋街に入ったときからだ。刺客は、お前たちが来る前から何となく気付いていたが、泳がしておいた。やはり、あの二人が絡んでいるのは間違いないとは思うが、何か背後にいるような気がしてな。少なくとも、そいつらが、俺たちを妨害しているようには思えるが」
アーキルは冷静すぎる表情を浮かべる。だが、その背後にいる何かは、まだ特定できていないようだった。
「背後にいる何かは、探るのが俺の仕事だからな。アーキル、お前はシュタイン周辺を洗い出してくれ。根本的な行きつくところは、俺が調べるから」
ソーレは頷くと、椅子から立ち上がる。
「まあ、お前の場合、ヴィーナスがいるからな」
アーキルはからかうように言う。
「それは言うな。姉さんの力を借りるのは不本意だ」
「まあ、そうだな・・・・・・」
ヴィーナスはどのような人となりなのだろうか。少なくとも、弟であるソーレと、その友人であるアーキルは、かなり怖がっている。ふたりとも立派な騎士たちなのに、そのふたりを怖がらせるヴィーナスは凄いと、ルーナは思わずにはいられない。きっとふたり以上の技量を持っているのだろう。
「ヴィーナスさんってすごいんですね。尊敬します」
「「尊敬しなくて良いから!」」
ソーレとアーキルの声がまるでコーラスのように重なる、ルーナは思わず笑ってしまう。ふたりともヴィーナスには同じ印象を持っているようだった。
「姉さんみたいなのは、この世にひとりで沢山だ……」
「俺もそう思う……」
ソーレとアーキルは共に頭を抱えて、深い溜め息を吐いた。
「おふたりとも、ヴィーナスさんに弱みでも握られているんですか?」
「お前も長く付き合ったらわかるさ。ヴィーナスと」
アーキルは深々と溜息を吐きながら、ルーナの肩を脱力しながらポンと叩いた。
「姉さんのことは置いておいて、話を元に戻さないとな」
「ああ」
ルーナたちは表情を引き締める。
「何か背後の権力に操られているというよりは、アルベルトの場合は、利害が一致しただけなのかもしれないと、俺は思っている。アルベルトが、ある意味利用しているのが正しいのかもしれない」
ソーレは達観するように分析をする。
「……そうだな。あいつは、エスメラルダ様のことが好きだが、エスメラルダ様が幸せであればそれで良いような男だからな。それ以外は無頓着。権力なんて文字はあいつにはないな」
「……純粋な方なんですね」
「……ある意味はな……。だが、屈折している」
ソーレは表情を歪めながら、深刻さと苦々しさがブレンドされたような声で呟いた。
「すてきな思いです」
だが、なんて崇高な愛なのだろうかと思う。見返りなどいらないと純粋に思う愛だ。
考えるだけで、ルーナは泣きそうになってしまった。だが同時に、こんなにも苦しい愛は他にはないのだろうかとも、思う。
「おい、アーキル、お前は何を調べていたんだ?」
「俺は、アルベルトのルートで何か分かるのかもしれないと思って、からくりのパーツ屋を調べていたところで、お前たちに逢った」
「からくりパーツの何が関係あるんだよ」
ソーレは怪訝そうに美しい眉を寄せながら呟く。
「ああ。聴診をした時、エスメラルダ様の心臓の音と動きが、からくりで作ったものに似ていると、なんとなく思ってな……」
アーキルは恐いぐらいの非難の表情を浮かべる。眼光は、医師として許されるものではないとばかりに、怒りの炎ではぜていた。
「そんなことが出来るんですか?」
「アルベルトの専門は医療系のからくりだ。戦争や事故で不自由になった人のための義手や義足作りが得意で、心臓の動きを助けるからくりを、俺と二人で開発しようとしていた……。だが、あくまで、助けるものだ。からくり心臓ではない」
アーキルは苦し気に目を閉じた。
「……いつか、からくり心臓が出来て、胸の病に苦しむひとが、ひとりでも減ることになれば良いと、俺たちは考えていた。長くは持たないかもしれないが、それでもそのまま病を放っておくよりも長く生きていけるようなものが出来ればと、二人で考えていた。あいつがからくり心臓を、俺が生きたまま手術をする外科医術を開発しようと、約束をしていた……。だから、あいつがからくり心臓を作って埋め込んでいるのかもしれないと思った」
ルーナは、アーキルの表情と声が苦悩に満ちているのを感じた。だが、アーキルの言葉を聞きながら、今も昔も全く変わりがないことを痛切に感じる。アーキルは命を救うためなら、様々なことをして手を尽くす医者だ。そこが、ルーナが尊敬してやまない部分だった。
「……エスメラルダ様の心臓は弱かったからな……。お前たちが何とかしようとしているのは、知っていた。お前たちが全身全霊を賭けて、開発しようとしているのは、部外者な俺や姉さんは知っていた。エスメラルダ様に、そしてエスメラルダ様と同じ病気で苦しむ人たちのために、お前たちが研究していたのを、俺は傍にいる人間として誇らしく思っていた」
ソーレはノスタルジーな笑みを浮かべながら、アーキルを見る。
「ソーレ、もう昔のことだ。昔のな」
アーキルはどこかやぶれかぶれになっているのではないかと思ってしまうほどに、重い面持ちで呟いた。
「アーキル先生、からくりの心臓を、医師でないひとが移植するとしたら、死体に置くことしか出来ないんじゃないでしょうか……。だけど、死体にそこまで出来るのは、なかなかないかと。ましてや医術の心がなければ……」
ルーナは腕を組んで考え込む。
「からくり心臓が動いているのなら、エスメラルダ様に生態反応がなかったことに合点がいきます。だけど、エスメラルダ様は、わずかに反応されたので、私、そこが不思議で……」
ルーナは益々解らなくなり、ついため息を吐いてしまった。
「そうなんだよな。俺もそこがすごく気になった」
アーキルも医師として面妖とばかりに眉根を寄せる。
「調べれば、調べるほど訳が解らなくなる。ちなみに、アルベルトは、からくり心臓のパーツになるものを購入していた形跡があるところまでは解った」
アーキルはソーレに淡々とした眼差しを向ける。
「そうか。だが、あいつは医師じゃないから、手術は別の者がやったとかは考えられないか?」
「心臓外科の手術はそうそう出来るものではない。かなりの医師であってもな。その線であたるのもありかもしれないが……」
アーキルは思わず口ごもる。
「期待できない可能性が高いと、言いたいんだな?」
「そうだ」
「確かに、お前以上の外科手術が出来る者は、帝国探してもいないかもしれないな」
「だから可能性として、死体にからくり心臓を入れたことを考えた。アルベルトは俺の手術に立ち会ったことがあるからな。器用なたちだから、死体相手ならば、出来るかもしれない」
「生体反応はないが、生きているのは分かる・・・・・・。益々訳が解らなくなるな……」
「ああ、その通りだ」
アーキルとソーレの会話に熱心に耳を傾けながら、ルーナも益々訳が解らなくなってきた。
三人はお互いに溜息を吐くと、ぐったりと天井を見上げた。これだと、エスメラルダが根本的にどこを治療しなければならないのかが、見えなくなってしまうのだ。それは三人には痛かった。
「アーキル、お前は、引き続き、からくりルートで調べてくれ。俺は、エスメラルダ様を利用しようとするやつらのルートから追及してゆく」
「解った」
「あの、私はどうすればよいですか?」
ルーナも今回のことは是非協力をしたいと思う。エスメラルダのことを解決してからでないと、帰ることが出来ないと思ったからだ。
「お前は、とにかく、癒してやってくれ。それが一番の仕事だ」
ソーレもアーキルも同じことを言う。
ルーナは、まずは自分でやらなければならないことを、前だけを見てしっかりやろうと、強く頷いた。。
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