第4話
翌日から、エスメラルダの部屋に行き、ルーナはヒーリングを行う。エスメラルダの手をしっかりと結んで、ルーナは何度も語りかける。だが、初日と同じ反応ばかりで、全く進展がなかった。それでも、以前に比べると、かなり反応は良いとのことだった。
繰り返しやるしかない。ルーナは長期戦になるかもしれないと、覚悟をしていた。
今日は予定があるのか、治療中早々にハルマが顔を出した。
「申し訳ございません。ルーナ。姫様はこれからご予定がございますから、今日の治療はここまでにして頂けますか?」
「はい、解りました」
ルーナは静かに穏やかな表情で頷いたが、アーキルは納得いっていないようだった。明らかに不快な表情を浮かべている。
「治療よりも大切なことがあるのですか? ハルマ殿」
「ええ。治療よりも大切なお時間ですわ。姫様にとっては」
ハルマは、アーキルなど突っぱねるとばかりに、きつい表情を浮かべる。静かなる怒りを滲ませていたのは、言うまでもなかった。
ハルマは、アーキルに向ける表情とは全く正反対の表情を、エスメラルダに向け、その手を握り締める。
「さあ、エスメラルダ様。今日は、シュタイン先生がお話に見えますからね。ご準備しましょうか?」
その名前を耳にした瞬間、アーキルの表情が明らかに変わる。
「……シュタイン……。あいつはまだ、エスメラルダ様の家庭教師を」
「ええ、そうですわ」
ハルマは、エスメラルダの家庭教師はシュタイン以外には考えられないかのように、すまして言う。
「やはり、あの時に、廊下で見かけたのはアルベルトだったんだな……。まだ、エスメラルダの家庭教師をしているのか」
アーキルがひとりごちるように言うと、ハルマは頷いた。
「シュタイン先生は、エスメラルダ様に色々と尽くして下さっていますわ。医療にも見識がおありですしね。シュタイン先生だけは、諦めずに姫様の傍にいて下さいましたから」
ハルマは嫌みたっぷりな声で、言外に、“アーキル、あなたと違って、見捨てたりはしない”と、言っているようにすら聴こえ、ルーナは思わずアーキルを見つめた。
「でしょうね。今の俺の職務は、エスメラルダ様を元の状態に近づけることだけです。ルーナと共にベストを尽くすつもりでは、います。では、失礼します」
アーキルは慇懃無礼に頭を下げると、ルーナを伴って部屋から出た。同席していたソーレも後に続く。
「アーキル先生、シュタイン先生って……」
ルーナは言い掛けて、前から人が静かにやってくるのを視界に認めた。
まるでプリズムのように輝くプラチナブロンドの艶やかな髪を、無造作に肩まで伸ばし、どこか高貴な雰囲気すら漂わせている男が、白衣を着たままこちらにやってくる。
男もまた、アーキルとルーナ、そしてソーレの姿を見つけて、怪訝そうに眼をスッと細めると、ふたりの前でゆっくりと歩みを止める。男は感情のない無機質な美しさが印象的な眼差しをアーキルに向けた。
「シュタインか……。お前はまだ家庭教師の職を辞さずにいるんだな」
アーキルは、静かすぎる冬の海のような冷たい目でシュタインに一瞥を投げると、まるで無視するように視線を外す。
「エスメラルダ様の役に立つことならば、どんなことであろうと厭わない……。私は」
まるでエスメラルダ姫への恋心を堂々と宣言するかのように、シュタインは透明な声で固く呟いた。
「シュタイン、お前らしいな」
アーキルはフッと覚めた笑みを滲ませながら言う。
ふたりはお互いに冷たい炎のキャッチボールをしているかのように、言葉と視線を投げ合っていた。
「お前はエスメラルダ様の最も傍にいる者のひとりだろう? エスメラルダ様の病状は、客観的に見てどうなんだ?」
「今まで、多くの医師とヒーラーがエスメラルダ様の傍にやってきては、治療を断念してきたが、アーキル、とうとうお前に白羽の矢が立ったのか……。お前に回ってくるということは、それだけ判断が難しいということだよ……。まあ、お前のことだから、心配し過ぎて、いても立ってもいられなかったかもしれないが」
「俺は自分の仕事の結末を見極めに来ただけだ」
アーキルはあくまで仕事だと、無機質な低い声で冷たく淡々と話す。しらっとしたアーキルの態度に、シュタインはフッと失笑する。
「お前の仕事ね……。私も自分のやるべきことをやるだけだ……」
シュタインは、アーキルに対して静かなる炎を燃やすような瞳を、向けている。すぐ近くに、ルーナとソーレがいることなど、全く考えていないようだった。
シュタインは優美な美しさを持った男だ。菫色の魅惑的な眼差しを見つめられると、このまま溺れてしまいそうになる。それほどまでに魅力的だ。こんな家庭教師ならばお姫様も夢中になってしまうかもしれないと、ルーナは思った。
だが、シュタインの瞳の奥に宿る光を見ると、どこか冷たくて歪んでいるようにルーナには思えた。
「アルベルト、お前はエスメラルダ様にどのような授業を行っている? それに、エスメラルダ様は反応するのか?」
アーキルは主観が感じられない、医師としてのごく普通の質問をする。
「何故、そのようなことを訊く?」
アルベルトはまるでアーキルに挑むように、どこか高圧的に答える。
「担当医としては当然だろう? 生命反応がかなり薄いお姫様が、お前にはどのような反応されているのか、知っておく必要があるからな」
アーキルは、誰よりも冷たくて厳しい眼差しを、シュタインに向ける。シュタインはそれをやり過ごすように、僅かに眉を上げた。
「……医師として……ね」
シュタインはどこか嫌みのように言うと、苦笑いを浮かべる。何処かアーキルを小馬鹿にしているようだった。
「まあ、医者として、君が興味のあるような話は何もないし、出来ないよ。私は、これからエスメラルダ様の授業があるから、行かせてもらう。ああ、ちなみにエスメラルダ様は、私の話をよく聞いてくれる。以前のように詩作をされたり、童話を書かれたり、からくりを考えられたり、作ったり……、なんてことは、流石にないね。今は私の話を聞いたり、からくりを見たり、物語を聞いたりぐらいだね。それだけだ」
シュタインは事務的に言うべきことだけを言うと、エスメラルダの部屋へと向かおうとした。ふと、ルーナの存在に気付いたのか、その前で歩みを止め、菫色の瞳を向けてきた。
「……君は?」
「アーキル先生の助手をしているルーナです」
シュタインの菫の瞳に真っ直ぐ見つめられると、ルーナは落ち着かなくなり、頭を下げることで、その魅惑的な視線から逃れた。
「……ルーナ、月の子か……」
シュタインもまた、ソーレと同じようにひとりごちる。
シュタインは菫色の瞳がルーナを捕える。逃げられないと感じた。
「月の子。君がエスメラルダ様のヒーラーか……。まあ、しっかりと頑張って。君が、エスメラルダ様を、本当に意味で癒せるのならば……ね」
まるでエスメラルダを癒すことなど不可能だと言わんばかりに、シュタインは挑発するように呟くと、薄い唇に不敵な笑みを浮かべた。菫色の高貴な瞳には似合わない、皮肉な光をルーナたちに向けていた。
ルーナの心の中に、重い自信のなさが頭をもたげてくる。全く、アルベルトの言う通りではないかと、ルーナは思わずにはいられない。もう数日、エスメラルダの元に通ってはいるが、症状は全くと言って良いほど改善されてはいなかった。
ただ、手を握り、話しかけ、癒しの力を送るだけ。それ以上のことが出来ない自分が歯がゆくてルーナはしょうがなかった。
「そんなこと、やってみないと解らないだろうが……。アルベルト」
シュタインの皮肉など斬り裂くようなナイフのような鋭い眼差しを、アーキルはシュタインに向ける。まるで、視線だけで人を殺してしまえるかのような勢いがあり、ルーナの仇を取るかのようだった。
それをまた、シュタインも穏やかに受け止める。
アーキルとシュタインは、お互いの手の内を解りすぎるほど、解っているのではないかと、ルーナは思った。
シュタインの魅惑的な瞳が再びルーナを捕える。また、動けなくなってしまう。
「私はこれで。月の子、また近いうちに君とは逢えるだろうからね」
シュタインは、先ほどの表情とは裏腹に、一瞬、何処か物悲しそうな表情を浮かべたあと、ハルマが招き入れる部屋へと入っていった。
「ソーレ、アルベルト・シュタイン博士は相変わらずの、二面性変人なのか?」
「まあな。相変わらずのマイペースだな」
ソーレは、シュタインのことを良く知っているからか、苦笑いを浮かべた。
「そうか……」
アーキルは懐かしそうでありどこか甘酸っぱい笑みを浮かべながら、宙を眺めた。
二面性変人とは言い得て妙だと、ルーナは思う。
「だけど、あのシュタイン博士の言う通りかもしれません。最初は少し進展があったかもしれませんが、あれから全く自体は動いていませんから」
ルーナは痛い事実を自分で言葉にして、余計に心にダメージを喰らってしまう。
「お前しか出来ないと言ったはずだが? ここまでのヒーリングを行えたのは、今のところ月の子以外にいないのだからな。俺は出来る者に情けは掛けない主義だからな」
ソーレはキッパリと言い切り、ルーナに厳しい眼差しを向ける。ここで情けを見せないのが、ソーレだ。
「確かに、お前は出来る者に対しては厳しいからな。出来るのに努力しない、或いはやらない者、出来ない者には、最初から期待をかけない、冷たい奴だからこそ、優しく出来るんだろうけどな」
アーキルはクールに苦笑いを浮かべながら、友人であるソーレに視線を投げた。それは逆に、だからまだまだ頑張れとルーナに言っているようにも聴こえた。
「とにかくアルベルトのことは気にするな。あいつは究極に変わりものだと……俺は思っているからな。とにかく気にするな」
励ましているのかそうでないのか、いい加減なところがアーキルらしくて、ルーナはほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。ほんのりと笑みさえ浮かべることが出来る。
「そうだな。アーキルに言うとおりだ。エスメラルダ様の現在の主治医はアーキル、ヒーラーはお前で、変更されない。そもそもシュタイン博士にそんな権限があるはずもない」
ソーレはキッパリと言い切ると、ルーナを冷たい目で見た。
今はまだ逃げてはいならないし、逃げられないのだ。ルーナはそう自覚すると、後ろ向きの気持ちを振り払うように笑顔になった。
「あのシュタイン博士ってどのような方なのですか?」
「ああ、シュタインは、あれでも錬金術師であり、科学者だ。様々な分野に精通していて、エスメラルダ様の教師をずっと勤めていた。専門は医療からくりだ」
ソーレは、まるで経歴を棒読みする司会者のように言った。
「まあ、ろくでもねえもんしか作らない、ポンコツ発明家でもあるけれどな」
アーキルは茶化すように言った後、わざと大きな欠伸をして、伸びをする。
「さあ、ルーナ、今日の俺たちの仕事はこれまでだ。お疲れさん。俺は外で気持ちよく、寝るわ。ソーレ、ルーナを頼んだぞ!」
アーキルはルーナの背中を叩くと、そのままフラフラと部屋とは違う方向へと行ってしまう。本当に昼寝などするのか疑わしかった。
ソーレとたったふたりで取り残されてしまい、ルーナはその背中を見送るしか出来なかった。
「頼むと言われても、俺も仕事に戻らないといけないんだけれどな」
ソーレは困ったように苦笑いを浮かべる。ソーレもやらなければならないことが沢山あるのだろう。第一騎士団長なのだから、それは当然だ。騎士団長であるにもかかわらず、今までずっと付き合ってくれているのは感謝していた。
「私ならひとりで大丈夫ですよ。ソーレさんはお仕事に戻って下さい」
「しかし、な……」
ソーレは益々困ったような表情になる。弱ったと言っても良いような表情だった。
「流石に街には出られないかもしれないですけれど、宮殿の中なら、探検出来そうですし、森には良い薬草がありそいですから、そのあたりを歩けたらと思っています。この敷地を出るわけではないから、ひとりで充分です」
「しかし、おばば様との約束があるからな。お前を護る条件で、許可を貰って連れて来ているからな……」
本当に困り果てたとばかりに、ソーレは長めの前髪をかき分けた。
「宮殿の中では安全が確保されているんですよね?」
「そうなんだが、お前の場合は……」
口ごもったあと、ソーレは益々険しい表情を浮かべた。きっと、おばばとの約束を固く護りたいと思っているのだろう。明るく柔軟なところはあるが、やはり騎士団長になるぐらいだからか、硬質さも持ち合わせているのだろう。
「おばば様との約束を気にしているなら、大丈夫ですよ。だってこれぐらいなら、約束を破っていることにはならないでしょうし」
「……しかしな、相手はあのおばば様だぞ!? 皇帝陛下の信頼すら厚い。これは約束を破らないわけにはいかないだろうが……」
ソーレは益々苦々しい表情を浮かべる。
「律儀ですね、ソーレさんは」
「いや、律儀だとかは関係ないのだが……」
ソーレは気持ちが煮え切らないかのようになかなか決断が出来ず、本当に困っているようだった。
「私はもう仕事が終わりましたから、ソーレさんは職務に戻ってください。そちらも疎かには出来ないでしょうから」
ルーナは、おばばとの約束を必死に守ろうとするソーレを、どこか気の毒に思いながら、言う。
「そうか、お前を第一騎士団の本部に連れていけば良いのか」
ソーレは妙案を思い付いたとばかりに、明るい笑顔になった。
「月の子、今から第一騎士団の本部に行くぞ、これなら問題はないだろうし、街の見回りも出来るからな」
ソーレは何もかも解決したとばかりに笑顔になると、そのまま歩き出した。
「ちょっと、ソーレさん待って下さい!」
ルーナは、足のストライドの大きいソーレに追いつくために、駈け足になる。
「どうした、月の子」
「あ、あの、私、まだ、行くと、返事をしてませんが……」
「とにかく、俺に着いて来い、月の子。悪いようにはしない」
「はあ、それは解っていますが」
「じゃあ着いて来い。お前も色々と勉強になるだろうからな」
ソーレは問答無用とばかりに、先を急ぐ。ルーナは溜息を吐きながら、ソーレに早足で着いてゆくしかなかった。
「あの、第一騎士団はどこにあるのですか?」
「騎士団の本部は宮殿の敷地内にある。だが、多くの騎士団員が詰めるのは、シエネの出張所だ。本部に顔を出した後、そちらに向かわなければならないから、着いて来い。街に出たら、お前も気分転換になるだろう」
「はい、有難うございます」
シエネの街は、最初に通っただけで、あとはずっと宮殿に詰めていた。そろそろ息が詰まりそうになっていたので、これにはルーナは有難かった。
ソーレの後について、一旦、宮殿の外に出た。眩しいほどの明るい光に、ルーナは思わず目を眇めて、手のひらで影を作る。
「ここから馬だ。宮殿内の敷地にはあるが、少し離れているからな」
「はい」
やはり、皇帝陛下が住まう場所なだけあり、敷地はルーナが想像出来ないぐらいに広い。恐らくは、町ひとつぐらいはすっぽりと入ってしまうだろう。
「宮殿内にある騎士団の本部は、第一騎士団のみだ、他の騎士団本部は総てシエネの街にある。後は、外交省、大蔵省、元老院、衛生省、軍事警察統帥省、皇族方のお世話をする宮内省の本部が、宮殿内の敷地にある」
「やっぱり、第一騎士団はそれだけすごいということですか?」
「いいや。皇帝陛下を護る役目を賜っているからだけだろう」
ソーレはまるで他人ごとのように言うと、そのまま厩舎に入って行ってしまった。
「月の子、行くぞ」
「あ、はい」
ソーレは手早く毛並みの良い白馬に跨り、ルーナもまた艶やかな漆黒の馬に跨った。
「ここから十分ほど走れば、第一騎士団本部だ。俺から離れるなよ」
「はい。迷わないようにします」
「……そうだな。迷子は困るからな」
ソーレは目を伏せながら言うと、何かを振り払うように前を見、そのまま馬を走らせる。
「あ、待って下さい! ソーレさんっ!」
相変わらず、ソーレはせっかちだ。思い立ったら吉日とばかりに、動きがかなり早い。ルーナは必死になって追いつくしかなかった。とにかく、この宮殿で迷子になってしまったら、途方に暮れてしまうだろう。それぐらいに宮殿の敷地は大きい。
ソーレの背中を必死になって追いかけてゆく。ソーレの後ろ姿を見ていると、まるで背中に羽根でも生えたのかと思うぐらいに、神々しく見える。太陽に愛されたような黄金の髪と、しっかりと鍛えられた強靭でしなやかな肉体、そして誰をも護ることが出来るのではないかと思うほどの広い背中があるからではないだろうか。ルーナはまるで太陽神の後を追いかけているような気分になった。
宮殿から十分ほど走ると、ベージュ色の煉瓦で彩られた、まるで大金持ちの邸宅のような建物が見えてきた。太陽と月、そして獅子をあしらった荘厳な紋章が掲げられている。すぐに、この建物が騎士団本部だと解った。
「ソーレ・アポロ団長がご帰還です!」
門番の騎士が高らかに声を上げる。門番は良い声でなければなれないのかと、ルーナは思った。ルーナが門番に反応したのをみて、ソーレは声を掛けてくる。
「あれでも、門番は、出世コースだからな」
「え?」
「俺もやったことがある」
「なるほど」
馬を降りながら、ルーナは思わず笑顔で頷く。ルーナが納得してしまうほどに、ソーレは美声だった。
ソーレとふたりで第一騎士団本部建物に入る。ソーレは団長だから、高貴かつ堂々としていたが、ルーナは何だか恐縮してしまった。団長室に向かうまでの間、誰もが敬礼をして、声を掛けてくる。ルーナがいちいち恐縮しながら頭を下げるしかなかった。
その際に、騎士たちは口々に「月の民だ」とこそこそと噂をする。ヒーラーは噂の種になるほどに珍しいものではないのにと、ルーナは思わずにはいられなかった。
「ソーレさん、シエネの街でも、ここでも、月の民だというだけで、こそこそと噂されます。どうして、ですか? ヒーラーである月の民など沢山いるのに。私が若いだけというのにしては、何だか噂をされ過ぎだと……」
「気のせいだろう……、なんてごまかせるレベルではないか。今、第一騎士団専属のヒーラーがいない。だから、新しいヒーラーではないかと、噂をしている。それだけだ」
ルーナは腑に落ちた。各騎士団には、高い能力を持つ、専属の軍医とヒーラーが必ずいる。ルーナがそう思われてもしょうがない節はある。
「確かに、それなら解ります」
ソーレに連れられて向かったのは、いちばん奥にある、荘厳にして立派な団長室だった。
「ここで書類を見なければならないから、少し待っていてくれ」
「はい」
ソーレは第一騎士団長らしい豪奢な椅子に腰を掛けると、書類に目を通し始めた。
ルーナは特にすることがなく、団長室のソファにちょこんと座る。騎士団本部の建物を探検してみたいという気持ちはあるが、流石に迷子にはなりたくなかった。迷子になる自信はあった。
ふと、仕事をしているソーレの横顔を眺める。なんて綺麗なのだろうと思わずにはいられない。団長室は、光が美しく入るように調節がされていて、ソーレの見事な黄金のようなブロンドを、より豪奢に見せている。その上、海よりも蒼い力強い瞳は、情熱と冷静が交差し、とてつもない強さを秘めているように感じた。
真剣に仕事に向き合っている男性と言うのは、なんて素晴らしのだろうかと、ルーナは思わずにはいられない。つい、うっとりと見惚れてしまう。
アーキルもそうだが、自分の全身全霊を仕事に向ける男性と言うのは、なんて素晴らしいのだろうとルーナは思わずにはいられなかった。
この姿をずっと見つめていたい。ソーレを見つめていると、まるで白昼夢の中に迷い込んでいるかのようだった。
空間も超え、時空すら超え、それらとはまったく別の次元に存在しているような気がしてしまうほど、ソーレは素晴らしいと思う。
ソーレを見つめていると、それだけで満たされる。それは、美しい芸術を鑑賞した時と同じような感覚だと、ルーナは思った。
あまりに、熱心にソーレを見つめていたからだろうか。ルーナが見つめていることを、ソーレに気付かれてしまったようだった。ふと、ソーレの切れるような冷酷な眼差しが、ルーナを捕える。
冷徹で厳しすぎる眼差しに、ルーナは思わず目を逸らせた。このような視線で見つめられたら、それだけで殺されてしまうのではないかと、ルーナは思った。
「どうした?」
ソーレの声がいつも以上に低い。まるでルーナを非難しているようだ。
「何でもないです。ただ暇なので、ソーレさんを眺めていました」
「俺なんかを眺めてどうするんだ、お前は」
ソーレはあからさまに嫌そうに呟く。じっと見つめられたりするのが、どうも苦手な性分のようだった。
「こんなことを言ったら怒られるかもしれないですけれど、何だか、芸術品を見ているようで、綺麗だなあと」
「はあ!? お前はまた頓珍漢過ぎることを」
全く頓珍漢なことを言うルーナに、ソーレからは厳しい表情がなくなり、どこか脱力をしたような顔になった。
「お前、本当に、ヒーリングの力以外は、普通の子供だな……」
先ほどまで険悪な表情が一気に崩れ落ちて、ソーレは一気に青年特有の明るく人懐こさを漂わせた表情になる。厳しく冷酷な表情が第一騎士団長の顔であるならば、この明るく屈託ない表情は、ひとりの青年、ソーレ・アポロの素の姿だ。その落差に、ルーナは一気にソーレをより身近に、そして素敵な存在であることを認める。
「どうせ、子供ですよ!」
ルーナがわざと頬を膨らませると、ソーレは再び苦笑いを浮かべる。その表情はとても魅力的だった。
「とにかく、書類を見終わったら、街に出る。もう少しだけ、待っていろ」
「はい、解りました」
ルーナは静かに頷くと、今度は、団長室の窓によりかかって、外の景色を見ることにした。こうしていれば、ソーレが気を散らせるということはないだろう。
ルーナはじっと窓の外を見つめる。宮殿の敷地内は緑が豊かで、沢山の薬草が茂っているのではないかと、そんなことを考える。エスメラルダの病状を安定させるような薬草はないだろうか、そんなことをぼんやりと考えながら、景色を眺めた。
見れば、見るほど、宮殿の敷地は、緑の要塞のように見える。ここには、帝国の総てが集まっている。ここで国の重要なことが数多く決められているのだ。そんな場所に自分自身がいることが、奇妙なことのように思える。
ただの月の民。蒼い月の夜に生まれただけの子供。ここの仕事が終われば、もう二度と来ることはないだろう。ルーナはこの景色を想い出の一つとして、目に焼き付けておこうと思った。
「おい、ルーナ、終わったぞ」
ソーレは凝ったとばかりに、肩をコキコキと上下に動かしながら、荘厳な椅子から立ち上がった。
「あ、はいっ! ソーレさん!」
ルーナは驚いて思わず背筋をシャンと伸ばした後で、ソーレを見た。
「そんなに硬くなるな。何を見ていた?」
「緑を見ていました。ここには薬草になるような植物が沢山あるようで、きっと散歩のし甲斐があるなあと思いました。エスメラルダ様を癒せる薬草が見つかるかもと思ってました」
「お前は仕事熱心だな。まあ、薬草摘みには付き合ってやっても良い。宮殿には、立派な薬草園がある・・・・・・」
ソーレは一瞬息を飲むと、目を伏せる。
「ソーレさん?」
「ああ。アーキルも今度は一緒に来てくれるだろうからな」
「はい!」
アーキルの名前を聞いて、ルーナはふと切なくなる。アーキルは昼寝などではなく、きっと、エスメラルダがこうなった理由を探りに行ったのではないかと、勘ぐってしまう。
「ソーレさん、アーキル先生はごろ寝なんてしに行っていないですよね? 確かに、普段はぐうたら医師だし、ごろ寝は先生の趣味だけれど、だけど、エスメラルダ様がこうなった理由を本当は調べに行っている。そうじゃないですか?」
ルーナは思いつめたようにソーレを見つめる。するとソーレは真摯な表情で頷いた。
「そうだろうな。だから、お前を俺に託した……。というよりは、俺たちを巻き込みたくなくて、自分ひとりになりたかった……。が、正解だろうけれどな」
ソーレは溜息を吐きながらも、友であるアーキルを心配するかのように目を伏せる。
「とにかく。あいつは殺しても死なないから、ひとりで大丈夫だ。あいつの技量は俺が太鼓判を押すから。心配するな、月の子」
「はい」
確かに危険なことがあっても、アーキルの技量ならば大丈夫だろう。だが、ルーナはアーキルの心が壊れないかどうか、それが一番の心配ごとだった。
「ほら、行くぞ」
「は、はいっ!」
ソーレはまた素早く部屋を出て、厩舎に向かう。ルーナは慌ててその後を追った。ソーレといるとおいてけぼりを食う可能性が高い。ぼんやりせずに、しゃんとしておかなければならないと、ルーナは思った。
ルーナとソーレが騎士団本部の回廊を歩いていると、目の前から、それこそ目が3回覚めてもまだ足りないぐらいの、美しい女性がこちらに向かって歩いてきた。背が高くスタイルも良く、ブロンドの長い巻き毛を無造作に揺らしている。美しく伸びた背中にぴったりの、統制本部の軍服を優雅に着こなしていた。
ルーナは思わずぼんやりと見つめてしまう。
女性は、ソーレとルーナの前でぴたりと歩みを止めた。
「ソーレ、お疲れ様。久しぶりね、本部に顔を出すのは」
「総本部長、お久しぶりです」
ソーレが背筋を伸ばして敬礼するのを見て、ルーナは益々驚いてしまう。まさか、この美しい女性がソーレの直属の上司だとは、思ってもみなかったのだ。
「ソーレ、あなたの横のかわいこちゃんは、噂のヒーラーかしら?」
「あ、あの。月の民のルーナと申しますっ!」
ルーナはこれほどまでに美しい女性を今まで見たことはなくて、鼓動を早くしながらぎこちなく挨拶をした。緊張するぐらいに美しくて、格好良い女性だ。総てを兼ね備えていると言っても、過言ではない。
「……“月の子”ちゃんね……。ルーナ」
女性はとても魅力的な艶のある声でルーナの名前を呼ぶと、洗練された指先で頬を撫でる。こんなことをされたことはなくて、ルーナは、心臓がそのまま口から飛び出してしまうのではないかと思うほどにドキリとした。
ルーナはすっかり女性に魅了されてしまい、ぼんやりと見つめてしまう。真っ赤になりながらもうっとりと見つめるルーナに、女性は更に甘く微笑んだ。
「まあ、まあ、月の子ちゃんの可愛いこと」
「からかうのは止めてあげて下さい」
ソーレはうんざりするように言うと、自らの上司であるにも関わらず、女性を睨みつける。
「まあ、ソーレって怖いわね、月の子ちゃん」
「あ、そ、その、まあ、怖いっていうか……、その」
「早く、月の子に自己紹介をして下さい」
「あ、そうね。そうだったわね。月の子ちゃん、私は、軍事警察統帥庁の騎士団全体の総本部長をしている、ヴィーナス・アポロです。以後、仲良くしてね。あなたに逢うことが出来てとても嬉しく思うわ。おばば様にはいつもお世話になっているの」
騎士団全体を統括しているとは思えないほどに優しい笑みをルーナに向けてくれる。益々憧れてしまう。
「よ、宜しくお願いします」
ルーナは、益々身体を固くしながら、ヴィーナスに深々と頭を下げる。ルーナを見護るかのように、ヴィーナスはずっと優しい眼差しで見つめてくれた。
ヴィーナスはふと、甘く切ない眼差しをルーナに向ける。指先で再び頬を撫でられて、ドキリとした。そこから、まるで女神さまのような優しい慈愛が流れ込んできた。
「……太陽と月がとうとう出逢ったのね……」
「え……?」
ヴィーナスは、ロマンティックなのにどこか切ない声で呟くと、ルーナを真っ直ぐ見つめた。
太陽と月が出会う----同じようなことをいつかどこかで聞いたことがあるような気が、ルーナはした。それがいつだったか、どこだったか、明確には思い出せない。だが、その時も、今も、ルーナの心が張り裂けそうになるぐらいに甘くて切なくなる。
ヴィーナスはフッと微笑むと、また先ほどと同じような、明るくて力強い、かっこいい女性の顔になった。
「月の子、ルーナ。しっかり頑張るのですよ」
「はい、ヴィーナスさん! 頑張ります」
「はい、よし、よし」
ヴィーナスは、まるで小さな子供にするかのように、ルーナのブルネットのくせ毛をくしゃくしゃと撫でる。ルーナは優しさを沢山もらったような気がした。
「ソーレ、ちゃあんと、月の子ちゃんを護りなさいよ。それと、騎士団本部庁には定期的に顔を出しなさい。良いわね」
「……了解致しました」
ソーレは渋々返事をすると、再び溜息を吐く。ヴィーナスがとことん苦手なようだった。
「では、また。月の子ちゃん、またね。ソーレがいじめたら、私に言って来てね。ちゃんとおしおきをするから」
「はい、ヴィーナスさん」
ヴィーナスは手をひらひらと振ると、そのまま第一騎士団内部を視察に行ってしまった。
「素敵な方ですね。憧れます」
「俺は憧れない」
ソーレはキッパリと言い切る。
「どうしてですか!?」
「----あんな姉はいらないだろう、男だったら」
ソーレはかなり不機嫌な声で言うと、さっさと厩舎に向かってしまう。
ルーナは、膝を叩くように総ての合点がいった。本当によく似た二人だ。あの姉にして、この弟ありだとしみじみ思う。それに黄金の髪や蒼い瞳など、容貌も良く似ているとルーナは思った。美しいふたりだ。
「ほら、月の子、とっとと行くぞ」
「あ、は、はいっ」
ソーレが素早く馬に乗るものだから、ルーナも慌てて後に続く。きっとソーレは、ヴィーナスに弱いのだろう。それを考えただけで、ルーナは可笑しくてくすくすと笑った。弱点などなく、完璧で強いように見えるソーレの弱点が、まさか姉のヴィーナスだなんて、ルーナは考えただけでもおかしかった。
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