終わりと始まり
満天の星空を見上げながら、女は鼠色をした外套を羽織った。
石壁の向こう側には、たった一人の、心から大切に想う男が眠っている。
でも、もうその顔を見ることはない。
見てしまえば夜風に吹かれて揺れる燭台の火のように、心が揺らいでしまうから。
決心が鈍ればその先には闇しか待っていない。
―――それだけはだめだ。
彼はこの国にとっての象徴なのだ。
象徴は、一人だからこそ象徴となるのだから。
露台の柱に縄を括り付けると、女は縄を伝って軽やかに下に降りて行く。
深深と降り積もる雪を音もなく踏んで着地すると、琥珀の瞳でその城を振り返った。それは一瞬。けれども、全てをその目に焼き付けるようにして強く見上げる。
そして彼女は頭巾を深く被り、城に背を向けて歩き出した。
もう二度とこの場所には、あの人の場所には、皆の場所には戻ることはない。
降り積もっていく雪を眺めながら、この時を選んでよかったと、女は悲しみを誤魔化すような微笑を一人浮かべた。
この分だと、足跡はすぐに雪が掻き消していってくれるだろう。追手がかかることもない。
庭園にある枯れ井戸に潜れば、非常事態に備えた抜け道が続いている。その暗い通路を首元で光る鉱石を頼りに突き進めば、難なくして城外へ出ることができた。
ほっと、安堵の息をつこうとした瞬間。
「———天花」
自身の名前を呼ばれて、女は驚いたように振り返った。
「…びっくりした。驚かせないでよ、
天花を待ち伏せていたようにその場にいた男―――凱と呼ばれた若い男は、月明かりを背に立っていた。
天花は罰が悪そうな顔をして、白い吐息を吐き出す。
「…なんで、分かったの?」
目にかかる黒い前髪を払いのけて、天花は問うた。
しかし男は、その問いには答えずに歩き出す。
「ちょっと、凱?」
「行くんだろ」
「!」
凱が歩みを止めた場所には、二頭の黒馬が用意されていた。木にくくりつけていた手綱の片方を、凱は天花に差し出した。
探るような琥珀の瞳が、感情を読ませない黒曜の瞳と交差する。
「凱、なんで…」
「おまえの考えることなんて分かってる。何年一緒にいると思ってんだ。馬鹿にするなよ」
「でも、凱。私はっ、」
「あのなあ天花、」
凱は眉根を寄せて天花の額を指で弾くと、これみよがしに嘆息した。
そして呆れたように目を細め、天花を見下ろす。
「おまえが盤慈を特別に想っている事も、忘れられないことも分かってる。おまえがこんな行動に出ることも。…盤慈のために、残りの
真っすぐな眼差しから天花は目を逸らし、気まずそうに俯いた。
愚王を排斥するために立ち上がり、まさか自分達兄妹が
でもそれは兄だけで―――盤慈だけでよかったのだ。自分は表舞台に上がるべきではなかった。
六花の紅一点。国民は天花を戦女神だと口にした。天花自身、そんなことは思っていない。ただ、皆の期待を裏切りたくなかった。皆がそう言ってくれるなら、付いてきてくれるなら、せめてその言葉にふさわしい存在であれるようにと、迷って悩んで立ち止まって―――それでも突き進んできただけだ。
でも、そんな存在は戦が終われば不要となる。ただの女となる。
半分だけ血の繋がった兄はそれを望んだ。ただの女になって、自分の番となるように。英雄は二人も要らない。一人でいいのだと。
だから自分を、後宮という
自分とて彼が好きだ。好きなんてものじゃない、狂おしい程慕っている。
幼い頃から共に育ち、彼と共に駆けてきた。自分の隣にいるのは彼で、彼の隣にいるのは自分で。
二人で同じ
どうしてか、いつからこんなにも苦しくなってしまったのか。
盤慈は明日、新たな王になる。皆が、血反吐を吐きながら待ち望んだ王だ。
でも、自分がいたら壊れてしまう。
例え血が半分だけだろうが兄妹であることには変わりがない。
この国では近親婚は禁じられている。それを破ることは大罪だ。
彼を新たな愚王にするわけにはいかない。そんな事のために、ここまで戦ってきた訳ではない。
人の命を奪ったわけじゃない。傷つけたわけじゃない。犠牲にしたわけじゃない。
この国に新たな王を戴くために、王を探して皆は戦ってきたのだ。
それが女一人のために崩れるなんて許されない。
何のために、この道を進んできたのか。何のために、理想を掲げたのか。
自分達には責任がある。人々を未来へと繋ぐ責任が。
それをせずして、どうやって命を散らしていった彼らに顔向け出来ようか。
ここで彼を止められなければ、残りの六花達は天花を、盤慈を許さない。
だから―――自分はここで消えなければならない。幕引きだ。
彼らとは、そのように話を付けた。
天花の目から涙が溢れ、熱い雫が流れ落ちる。
苦しくて苦しくてたまらない。
守ると言ってくれた言葉も、あの手の温もりも、唇も、あの優しい笑顔も、眼差しも、与えられる熱も。そう、この身体が全て覚えてる。
忘れない。忘れることなんてできない。
でも、これ以上は無理だ。
共に過ごすことは許されない。彼が王として立つのならば尚更の事、彼は今まで以上に厳正でなければならない。
それに、気づいてしまったのだ。
私をただの女にしないで欲しいと、心の奥で叫んでいるもう一人の自分がいることに。
女の身でも、必死に戦っていた自分を奪わないで。私の存在をかき消さないで。自由を奪わないで。
だから始まりに戻ろう―――いや、違う。新しく始めるのだ。戻ることなく先に進もう。
争いのない世を、少しでも長く築けるように。
ねえ、盤慈。どうか、忘れないで。
立ち上がったあの時の気持ちを。掲げた理想を。そばにいる仲間を。
貴方は一人ではないことを。
玉座は孤独かもしれない。
でも遠く離れていても、心は共にあるという事を覚えていてほしい。
「…天花、」
凱は、ぼろぼろと大粒の涙を零して静かに泣く天花の腕を引くと、彼女を己の胸に抱き留めた。
そして、驚きに目を瞠る天花の背を優しく撫でていく。
「仕方がないから一緒に行ってやる」
「っ!?」
「だからその不細工な泣き面、どうにかしろ。さっさと泣き止め。こちとらもう見飽きてんだよ」
「う、うる、ざい…!」
憎たらしい口調であるがその声色はとても優しい。昔から彼はそうだ。
「鼻水つけんなよ。汚いから」
「……。ふん゛っっ!」
「おい!言ってるそばから人の服で鼻をかむな!嫌がらせか!」
何度か鼻を啜って息を整えると、天花はようやく凱の胸から顔を上げた。
そして真っ赤に腫らした目で、恨みがましそうに彼を見上げる。
「おう、泣き止んだか」
「…誰かさんのおかげで」
「ならとっとと行くぞ。長居は無用だ」
凱はそう言うと、ひらりと馬に飛び乗った。
「…凱、本当に一緒に行くつもり?」
すると凱は、その頬に挑戦的な笑みを浮かべて天花を見遣った。
幼馴染の男らしい表情に、天花の心がどきりと跳ねあがる。
「俺が諦めの悪い男だってことは知ってるだろ?おまえの心が俺に傾くまで粘ってやるさ」
「っ、」
「だから、簡単に隙を見せんなよ。見せたら俺、容赦しねえからな」
「か、勝手に言ってなよ!この自信満々男!」
熱を帯びた頬を見られないように外套を深く被りなおすと、天花も馬に飛び乗った。
その姿を横目で眺めながら、凱は気づかれないように笑いを噛み殺す。
「…で、どこに向かうつもりなんだ?」
「ヤン族のところへ。そこから北に向かおうと思う」
「!」
ヤン族。その部族の集落から更に北ということは、遊牧民諸部族らが抗争に明け暮れている地―――真覇がある。
「これから澄は内政の基盤を整えなければならない。これ以上、戦ができる余裕はない」
「…で、北を抑えに行くってか」
「抑える事なんてできないけど、澄の外からでも出来ることは何かあるはず。…一緒に居ることはできなくとも、目指す志を忘れないなら」
先の見えない旅だが、全くの光が無いわけではない。
今宵のように夜空に浮かぶ星達が、満月があるように。
きっと自分達にも、小さな光を見つけることができるはず———。
これは、終わりなんかじゃない。新たな始まりだ。
満月の下、二頭の馬が雪原を駆けてゆく。
振り返ることなく、前へ前へと。
ふわり、ふわりと降り注ぐ雪が、蹄の跡をゆっくりと消していった。
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