二〇一八年一月一一日(その7)
二〇一八年一月一一日
太陽が空から姿を消した黄昏時、雪が降り始めたが、米田の長い一日はまだ終わりそうになかった。
雪を弾くワイパーは、雪を巻き込んで鈍くしか動かず、どうするかと考えている頃、目的地に到着していた。
陽子は云う。自分は一色賢から探偵事務所を引き継いだだけの凡人で、彼の代わりにこの町のちょっとした幸せを守るだけだと。
しかしながら、憧れるということはその姿を追いかける姿勢のことであり、米田は陽子の中に一色賢の機転を見出していた。
名探偵ではなく凡探偵、よく陽子の使う言葉ではあるが、この事件の真相に迫ったのが彼女だと世間が知れば、それは十二分に探偵としての名誉となるだろう。
ただし、陽子はそんなことを望んでいないことは米田自身も熟知しているし、そして“この事件の真相は決して明かされない”ということまで、米田は理解していた。
「米田さん、お久しぶりです」
「よく覚えていたな。事件以来だから、二か月ぶりくらいだというのに」
そこは須古冬美が逮捕された交番だった。そこにはあのときと同じく日下長一がひとりだけ駐在していた。
日下長一はパチンコ屋で陽子と会話していたときの温厚な様子はなく、張り詰めるように集中していた。
須古冬美を保護してから、何も変わっていない交番だった。
「……どうした日下? 何か訊かないのか? 今日の要件は何かとか?」
「どうでしょうね」
「ヒマだろ? 日下、全部教えろ。お前は“全部わかっていた”はずだからな」
「一介の交番勤務の巡査に過ぎない私が何を知っていると?」
「国木優と嶋田九朗の話だ。まず“銃”の話をしようぜ。嶋田の頭を吹っ飛ばした凶器のな」
「未だに発見されていないらしいですね」
「発見は困難だと思ったよ。捨てようと思えば犯行から発見までが一時間半。移動と血糊を落とす時間を考えても二〇分程度しかないが、事前に準備しておけば処分の手段は無限に考えられる」
だが、と米田は続けて手を出した。
「拳銃出せよ日下。お前のニューナンブだ。予備弾も」
日下はホルスターに入っている拳銃を取り出し、盗難防止用の紐を外して見せた。なぜと問うことも無く、予想していたとばかりに。
そして金庫を開けて予備弾丸を取り出す間、米田は手慣れた様子でリボルバー部分をスライドさせて弾倉を確認した。
「弾丸は全部有るな」
「ええ、使ったことが無かったので」
「それはウソだな。火薬の臭いがする。間違えようがない」
「手入れ中に暴発……させたことが有ったような気がします」
「ダウト。通らない。お前、始末書書いたことないだろ?」
「始末書?」
「それも知らないのか? 弾丸が足りないときは始末書を書くとお代わりが貰えるだろ」
始末書を書くのは使途不明や不適切な使用と思われる場合の話だということを米田が知らないというのも恐ろしいが、この場にそれを指摘する人間は居ない。
とにもかくにも、日下のニューナンブには使われた拳銃のように火薬の臭いがし、その上、補充できるわけもないのに弾丸は全装填されていた。
「これだろ? 嶋田九朗の頭を吹っ飛ばした拳銃は? だから須古冬美はこの近くの歩道橋の上で意識を失っていた。お前に拳銃を返してから人格を交換したんだ。自然だろ?」
「……弾丸が全部入っているのが説明できないでしょう」
「足りない分は嶋田九朗の持っていた拳銃から取ったんだろ? あっちは弾丸が入ってなかったからな」
先ほど未知道カンパニーで関に見せられた拳銃のことだった。未使用だったにも限らず弾丸が入っていなかったものと、使用済みなのに弾丸が欠けていない拳銃。
数時間前、陽子が導き出した仮定だが、この場の拳銃が使用済みなのに弾丸が足りているという状況は、米田の中でその推測を真実であるという確信にまた一歩近づけた。
「未知道を支援していた企業の男(関)が嶋田に拳銃を用意してて、んで、お前の拳銃でその嶋田を殺して、そしてその弾丸がお前の拳銃に戻って来てる……おかしいよな、これ」
「……答えは簡単でしょう、ミステリーでは一番安易で、一番惨めな回答ですから」
「殺された嶋田も共犯だったのか……?」
人格交換というシステムが実用化されたとき、好き者同士のトラブルでそんな事案が有った。
“自分を相手に色々なことを試してみたいから身体を入れ替えた”ということだったが、そこから暴行事件に発展したという笑うしかない様な事件は米田の耳にも嫌というほど入ってきていた。
しかしながら、今回の猟奇的な殺人事件においては笑うこともできない。ただ見詰めることしかできない結論だった。
「それで須古冬美の肉体に嶋田か国木かお前が入って撃ったのは想像できるが、嶋田の肉体に入っていて、死んだ人格は誰だったんだ?」
スマートに考えるなら須古冬美と嶋田九朗の肉体が入れ替わり、死んだ心は須古冬美だとすれば事件は終わる。
しかしながら、米田は刑事と容疑者として須古冬美と顔を合わせているが、その中には事件に巻き込まれた被害者という匂いしか感じ取れなかった。
中学生以来やっていないトランプを米田は連想していた。人格がシャッフルされて、どこにどのカードがあるか分からないが、須古冬美の肉体の中に居る人格は須古冬美本人であると神経衰弱ゲームで直前に見たカードのように確信している。
「死んだのは……誰でもありません、いや、“誰にもなれなかった”、可哀想なあの人だけです」
「? 誰にもなれなかった?」
「米田さん、あなたはシュレディンガーの猫というのを知っていますか? 私には今回の事件が……その実験だったんじゃないかとすら思えるんです」
「知らんな。映画のタイトルか何かか?」
「……昔、ある科学者がひとつの粒子は“Aであると同時にBである”という説を唱えました。しかし、知人のシュレディンガーという科学者はこう反論しました。
【それは箱の中に猫を入れて、二分の一の確率で中に毒ガスが発生するようにしておく。その箱を開けない間は猫は生きている状態と死んでいる状態が同時に存在することになる】、と」
「禅問答に興味は無い」
「……あのとき、嶋田さんの身体の中に居たのは、シュレディンガーの猫だったんです」
米田が引き抜いて持っていた弾丸の一発が地面に当たって転げた。
雪の降っているせいだろうか、妙に澄んだ空気の中、それはとても綺麗な音を立てていた。
「分かるように話せ。全く分からん。それは国木優の話か?」
「彼女だったのかもしれません、彼女はもしかしたら……私が殺したのかもしれませんが、生きているかもしれません……。」
「お前は答えを喋る気が有るのか? 無いのか? さっきから俺に全て話しているようだが、何も説明できていないぞ!」
「……私も全部わかっているはずなんですが、説明がし難いので……これを読んでいただきたい」
弾丸が入っていた金庫の奥から日下が取り出してきたのは、変哲もない使い古されているもののキレイな大学ノートだった。
米田は弾丸と拳銃を机に置いてノートに目を通すと、それは細かく改行されて日付が振られている日記であり、内容から若い女の――独身で夢見がちな――アイドルというキーワードに深い関心を持つ人物――であることを読み取った。
「国木優の日記帳……? どこでこれを入手したッ?」
「彼女の家ですよ、彼女が……生きていた最後の日、生死が曖昧になって……死体になった日、彼女の家から持って来ました」
「居たのか? その場に」
「……ええ、私が……」
震えていた。恰幅の良く立派な警官姿の日下長一の手は暖房の効いた部屋の中で指先を揺らし、福々しい頬と耳たぶの間を結露のような涙が伝った。
「私が……その拳銃で彼女を、殺したんです」
国木優は日記を書くことすら忘れていたのだろう。
毎日毎日記入されてきていた日記で、二〇一四年一一月二二日から日付が大きく跳び、再開したのは二〇一五年一月一三日だった。
米田は斜め読みしながら、必要な情報を拾ってきていた。
二〇一五年
一月一三日
しばらく書いてなかったけど、また書きたいと思う。10年間書いてたし、せっかくなら“夢”を適えるまで書き続けよう。
妖精ちゃんの声として、私の声を使いたいと学者さんは言ってた。私自身ではないけど、私の声が歌を唄ってくれるのも嬉しい。
私の声を使って話す妖精ちゃんと会話をした。レコーディングの練習で聞いた自分と同じ声だったけど、かわいらしくほがらか、彼女の歌を聞いてみたいと思った。もうそれは、妖精ちゃんの声だった。
二月七日
インターネットにアップする前に、M社長と学者さんに妖精ちゃんの歌を聞かせて貰った。
私と同じ声とは思えない、優しくてそれでいて強く心に残る歌声。妖精ちゃんが私に歌い方を教えてくれた。私も頑張ろう。
二月一三日
とうとう歌を投稿した。思ったより再生数が伸びなかった。
あれだけ良い歌なのに、やっぱり私の声じゃダメなのかな……。
二月一六日
昨日も凄かったけど、アクセス数が2ケタずつくらい伸び始めた。
特にコマーシャルはしていないのに、アクセス数は見る見る伸びて行く。
やっぱり妖精ちゃんの歌はすごい。でも私の声もちょっとは頑張れてるのかな、って自信! 私、単純だから!
二月二〇日
町中でアリスちゃんに再会した。一緒にアイドルだった頃に比べて少し太っていたけど、コーちゃんと一緒でとても楽しそう。お母さんになったんだァ、アリスちゃんも。
その中で、妖精ちゃんの話が出た。ネットのアマチュアでこんな凄い子が居るなら、芸能界に居るのは大変だね、と励ましてくれた。
今までアクセスカウンタだけで現実感が無かったけど、どこか学者さんが妖精ちゃんを喜ばせるために数字を動かしているのか、そう自分が思っていたことに気が付いた。
1番びっくりしたのは、一緒に歌ってたアリスちゃんも私の声だって気付いてなかったみたい。10年くらい前だし、しょうがないのかな。
三月二二日
とうとう生放送の日。声は妖精ちゃんだけど、映像も一緒に放送ということで私も登場。
見に来てくれた人の数が多すぎてサーバーが落ちそうになったけど、声と手の動きがズレてても騙されてくれる、と学者さんはそこまで計算していたらしい。
手や動きも一緒になるように練習したけど、少しずれちゃった。次はもっと頑張らないと。私と妖精ちゃんはふたりで歌姫だもの。
日記の内容は概ね陽子の予想と符合しており、外部に漏れた場合のことも考えてのアイドルの自意識を感じた。
登場する他人をニックネームで呼ぶ。万が一、流出した場合の被害を減らすためだろうが、米田の中ではニックネームも見当が付いた。
アリスちゃんやコーちゃんはアイドル仲間とその子供ということしか判別できなかったが、文脈からして、“学者さん”は嶋田九朗、“M社長”は三毛正二、“妖精ちゃん”はネットアイドルのハルのことだろう。
「……本当にアイドルになれると思ってたんだな。国木優って女は」
情報として国木優のことを刑事として米田は熟知していたが、情報が立体感を伴ってきていた。
今から二年前、二八歳の国木優という女。米田の中では初見からバラバラ死体であった彼女の思いが、真っ黒なインクを通して透け始めていた。
それから少しずつ、国木優はハルをサポートしながらイキイキと文章を書きだしていったが、そんな生活が二年続き、二〇一七年。国木の死ぬ年に差し掛かった頃、米田は興奮気味に少し荒れた文字を見付けた。
そういえば、同じく三十路の女だったのだと思った――自分が生まれて刑事になるまでの人生と同じだけ、この女はアイドルになりたいという思いに注いでいたのか。
二〇一七年
一二月二日
初めて! 初めて会っちゃいました! 町中で会ったジュンサさん(あだ名そのまんますぎ!)が私の声が妖精ちゃんと同じだって気付いてくれた!
ジュンサさんは、私が違うって言っても妖精さんのファンだって言ってくれたから、つい私も「実はそう」って言っちゃったけど、しょうがないよね! ファンサービスだもん!
たくさん、たくさん話してくれた。目をキラキラさせて、握手とサインをして欲しいだって! 初めてだった!
その後、一二月三日から六日まで穏やかだったものの、七日は目を見張るものが有り、米田は不意に日下を見た。
無意識な視線だったが、日下は大きい身体を可能な限り小さくしようとしているようだった。申し訳なさが溢れている。
「日下、このファン、お前か」
「……本当に良い曲なんですよ。ハルの歌は……優さんの声を聞いたとき、おやと思って訊ねたら嬉しそうに笑ったので……間違いないと思いました」
アイドルと町中でばったり出会った自慢話は、犯人の自供にそっくりな張りの無い言葉だった。
その出会いがそのアイドルの、というより、この事件の発端だったと知っていれば、それはやむを得ないのかもしれない。
「忘れもしない七日、もう一度、町中でばったり会いました。そのときに……私は……」
嗚咽が漏れた。日下は吐き出すように大粒の涙を地面にまき散らした。
「【同じ声なのに別人のようですね】なんてね。そのあと、作ったような笑顔で優さんは云いましたよ。“どっちが好きか”とね!」
「……お前はなんて応えた?」
「もちろん歌っている方ですよ、あちらが本当のあなたです……そんな余計なことをね!」
そこで米田は日記に視線を戻した。
一二月二日と同じく荒れた筆記だが、所々シワになっている。書いている最中、何かで――水滴のような何かで――汚れたのかもしれない。
それまで一貫していたニックネームでの記入もされなくなっていた。
一二月七日
私は妖精ちゃんじゃない 当たり前だった 気ずいてた
アイドルで10年がんばって 当たらなくて なにもならなくて、でもハルちゃんの歌はすぐにみとめられた。
歌声の問題じゃなかっただ 歌は心 私は人に受け入れられなく てハルちゃんはうけ入れられる 私はだれかの夢じゃないハルちゃんは夢
レッスンすべきは歌やダンスじゃなかた 私はハルちゃんにならなきゃいけなかたっんだ。
島田さんが言ってた 人工チノウと人間を入れかえることもできるかもしれないって。私も人格をかえればアイドルになれる。
三毛さんが言ってた ハルちゃんをコピーした人工チノウが出きてるって。
ハルちゃんのコピーと人格を入れかえれば 私はハルちゃんになれる なれないわけない 私はハルの声があるんだから。
夢が国木優を育んでいたはずだった。
だが、日記からは夢が国木優を狂わせたことをうかがわせた。
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