二〇一八年一月一一日(その6)

二〇一八年一月一一日




 日も暮れかけ、風が本格的に冷え始めた頃、まだ陽子は走っていた。

 十年前、なぜ嶋田九朗が大学を辞めて未知道カンパニーに入ったのか、その理由に見当が付いたとき、陽子の中で事件の概要が見えだしていた。

《……つまり、どういうことなのさ? この事件》

「分からないことは沢山あるけど……まず、この事件のカギは緑のフードの依頼人だと思うわ」

《一目瞭然。そうだろうけど、依頼人の正体、わかったの?》

「見えている中ではそれ以外に考えられないからね。緑フードの依頼人からすれば……この事件は解決して欲しいと思ってる。それは間違いないわ。でもそれならどうして依頼書に明確に情報を書かなかったと思う?」

《どうして?》

「何か理由が有って書けなかったから、よ」

《……当たり前じゃないか。当然至極》

「そうね。そしてもうひとつの疑問、依頼人は“私”に依頼したのか?」

《探偵だからでしょ?》

「探偵事務所はいくつかあるし、私は殺人事件の調査なんてしたことすらなかった。それになぜ、依頼をしたの?」

《適当じゃないの?》

「一千万円払って適当? 昨日、あなたに手紙に書いてあった番号を登録したとき……ひとつ、登録済みだった番号が有ったでしょ? 嶋田九朗さんの番号。

 多分、緑フードの人は“私”じゃなく、“賢”に依頼していたのよ。 経験不足な私じゃなく、嶋田九朗とも知り合いで冷静沈着だった一色賢に、ね」

《状況証拠的には理解できけど、それが何? 被害者が誰かも分からないし、犯人が誰かも分からないよね》

「この事件は、私には分からないことばっかりよ。私は最初に亡くなった国木憂さんや、容疑者の須古冬美ちゃんの顔すら知らないくらいだから」

 開き直ったような陽子の態度に、画面上の賢作は汗マークを追加していた。

《それで犯人探ししてるんだから暴虎馮河。無謀だよね》

「あら? 私、犯人探しなんてする気はないわよ?」

《……ん?》

「私の依頼は、須古冬美ちゃんの無実を証明すること。犯人を捕まえることじゃないわ」

《それって、同じことじゃないの?》

「それならそれで、私の手には負えないけどね」

 軽口を叩きながら、陽子の足が止まった。そこは国木優が生活し、遺体が発見されたマンションだった。

 聞いていた部屋番号へと向かうと、その入り口では紫煙を浮かばせる米田が遅かったな、と一言だけ呟いた。

《入って良いの? 証拠物件、って奴じゃないの?》

「いいや、事件は先月だからな。ただ単に未解決の殺人事件が起きてダブついてる不動産だ」

「……それはそれで入って良いのか、不安になりますね」

「だから解決するんだろう? 頼むぞ、中聖子」

 合法か違法かは分からないが、米田は用意していた鍵でマンションのドアを開けた。

 室内は風が吹いていないだけでほとんど外と気温が変わらない。そこは住人が居なくなってから一切のエントロピー変化を失った死の部屋だった。

 汚れることすらなく、整然とした室内には物はあまりなく、処分されたのか押収されたのかは不明だが、陽子はその片づけた人々の手際の良さを妙に強く感じた。

 米田に案内されるまま、陽子はひとつの部屋に向かい、電話回線のジャックを指差した。あれよね? と。

「ああ。国木優のデスクトップパソコンはあそこで使っていたらしい。しかし、それだけで追えるのか?」

《匂いは消えないんだよ。実体が有っても電脳でも、知能でも無脳でも、それは同じ》

「よく分からん」

「とりあえず、見ておいて下さい。頼むわね。賢作」

 陽子は手慣れた様子でスマホを電話回線に繋いだ。モニター内の犬のビジュアルが『SEARCH』という文字に変わった。

 賢作は他のコンピューターとは一線を画すシステムを有す検索エンジンであると一色賢は陽子に話したが、陽子はその意味を概要でしか理解はできていない。

 通常の検索といっても、大掛かりな機械やメモリから成るクローラーを必要とするというのに、賢作はちっぽけなスマホの僅かな容量の中でそれをやり遂げているという。

 画面にはシャーロック・ホームズのような帽子と肩掛けマント、パイプをくわえたドーベルマンのアニメーションは表示されている。

 オーパーツ的なまでに不自然な賢作は、そんな高性能を感じさせないポップさだ。

「米田さん、国木さんが使っていたパソコンのデータ、有ります?」

「ああ、任せろ。しっかりと資料を用意してある」

「助かります。直近のIPアドレスとプロバイダ情報、ルーターとモデム、できれば愛用のブラウザとバージョン情報が有ると助かります」

 パソコンに種類があるという発想の無い米田は、陽子が意識せず話している言葉の意味を理解できていなかった。

 そのことを察した陽子は微笑みながら資料を奪い取り、自分でページを見つけて入力をしていた。

「……なんかゴメン」

「大丈夫です」

 陽子が次々と入力していくデータを元に、賢作は電話回線を伝って、インターネットを走り抜けていた。

 通常の犬が匂いの粒子を鼻のボーマン線で察知するように、データの歪みや波を捉えて賢作は追いかける。

 データは通った後に電気的な形跡を光の道のように僅かながら残す。

 コンピューターは常に情報を上書きしながらメモリを循環させていくが、その循環させればさせるだけ、通常の機械では探知できない揺らぎを生み出し、賢作はそれを探し当てる。

 その現象を不思議そうに見ている米田に気付いた陽子は、かつての自分に一色賢がした言葉を思い出した。

「賢が云っていたことのそのままですけど、賢作はトランプを破けるらしいんです」

「なんのことだ?」

「トランプって強いカードと弱いカードがあるじゃないですか。エースとかキングが強い」

「大貧民とかでは二が強いし、七並べでは六と八が最強だがな」

「なら、大貧民で三とか四が、二に勝つにはどうすれば良いと思います?」

「革命って有ったよな。強さが入れ替わるヤツ」

「……そうじゃなくて……賢が云うには、賢作は他のカードを破いてしまえるようなんです」

「なんだそりゃ?」

 賢が自分に説明したときはもっとスマートに説明できていたのに、と陽子は頭を抱える。

 全く同じ説明でも賢の話術の巧さを思い知っていた。

「他のコンピューター同士では強さ比べをしないと行けませんが、賢作はその上を飛び越えてしまえるようなんです」

「……ん? 気のせいか? それって他のコンピューターのどれでも突破できるってことじゃないのか?」

「そうらしいです」

「困ったな、じゃあ……証拠として提出できないな。本格的に表沙汰にできない」

 会話中でも、賢作はLEDネオンのように賑やかだが冷たく寒い光の中、多くの人間の意見や感情が飛び交う一次元の紙芝居を駆け抜けた。

 賢作の鼻は、的確にここに有ったパソコンが最後に訪れたホームページを突き止めた。

 去年の一二月一六日、この動画投稿サイトに到達していた。

「……米田さん、このことって?」

「ああ。既に調べてあった。どうにもこの日、最後の歌動画を投稿していたようだな」

「遺体の発見は確か二一日でしたよね? 一二月の」

「だな。その五日間の間に死んだか、あるいは誰かが国木優の死体の横でパソコンで動画を投稿したか、だな」

「なるほど」

 ここまでアウトプットされた情報は既知の物であったが、次に賢作は解析不能な状況に遭遇していた。

 いかなる罠(トラップ)でも紙(トランプ)のように破いて突破できるはずの賢作だったが、唐突に破れない目標を動画サイトの中に発見したのだ。

《……なんだろう、これ?》

 国木優の回線から追っていた匂いが続いている。

 陽子の指示通りに動くというなら、賢作はこの中を解析しなければならない。

 賢作はそのデータにある傷とも呼べないような僅かな溝を見つけ出し、頭を捻じ込むようにしてもぐり込んだが、そこは非現実的な真っ白い部屋のようなデータだった。

 キッカリと区切られたメモリは正方形のように正確に寸法されており無駄がないデータ。その中には通信用の回線があるだけで、データを加工するための設備が無く、それだけでは何の意味もない情報だった。

 賢作の現在位置を知り、陽子と米田は困惑していた。

「どういうことだ?」

「分かりません。賢作が解析できないデータ……あるわけないんです。しかもなんで動画サイトのなんでこんなのが有るんですか……!?」

「向こうも同じくトランプを破れるらしいな」

「え?」

「トランプを破れるシステムで動画サイトの真ん中に自分専用スペースを作ってるってことだろ」

 人工電子無脳の賢作は動揺することはない。動揺するための《機“脳”》がないのだから。

 あくまでも頭脳を持つ陽子の意思に従って仕事を成し遂げるだけであり、解析すべき目標の中には何もない。

 まるでデータの中に有った何かが既に姿を消してしまったかのような不自然さ。

《……? 違う、匂いが出てきた……?》

 賢作は白い部屋の中で、それまで感じ取ることができなかったデータの変容。

 ドアが開いた。今まで有りもしなかった白い部屋のドアが開いたのだ。そして現れたデータはこの部屋の持ち主だった。

《……誰? あなた? お客さん? 猫さん?》

 繰り出されたデータは検索も容易く理解できる文章データ。賢作は現実空間と同じように電子無脳を駆使して返事を組み上げる。

《奇奇怪怪。僕は賢作。猫なんかじゃないよ。断耳してスっと尖っている耳、クイっと締まったウエスト、そしてこの愛くるしいマスク! どう見ても僕はドーベルマンじゃないか》

《ドーベルマン? ドーベルマンさんっていう人?》

《人じゃないよ! 犬だよ! 確かにドーベルマンは人の名前が語源だけどね!》

《あたし、犬って初めて見た! あなた、カワイイね!》

《明々白々! 僕は最もカワイイ犬種、ドーベルマン・ピンシャー!》

 現れたデータは賢作に接近し、毛並みのデータにそって背を撫でた。

 そういえば自分が撫でられるのは久しぶりだと賢作は自身の記録の中で検証していた。

「バカ犬は“何”と会話しているんだ?」

「わかりません。でも……このデータは……賢作! 名前を訊いて! そのデータの……その子の名前を!」

《君の名前を聞けって。僕の飼い主がうるさいんだけど、訊いても良い?》

「私、私はハル。よろしくね。賢作くん」

 ハル。それは国木優が未知道カンパニーのキャンペーンで行っていたというネット歌手の名前そのもの。スマートフォンを覗き込む米田の目の色が変わった。

「ハル……それって、国木優がこの動画サイトの中に生きているってことか?」

「そうは云ってないでしょう。彼女はハルと名乗っただけで、国木優と云ったわけではないですから」

「ハルは国木優のネット上の芸名だろうが!?」

 芸名という言葉に大きくないはずの年齢差を感じた陽子だが、指摘せずにそのまま流した。それより大きな問題が有る。

「……不思議じゃありませんか? 国木優は十年以上アイドルとして活動していたはずなのに芽が出なかったのにネットに出た途端に大人気というのは?」

「CMの量だろ、未知道は人格交換で大儲けしている企業だからな」

「でも、未知道カンパニーはそもそも表立って関与もしてなかったはずですよね」

 アイドルというものを“自分に理解できないもの”として思考停止していたらしく、米田は指摘されるまで気付いていなかったらしい。

「多分、ハルと国木優は別人です」

 陽子はスマートフォンのモニタの上を指が滑る。もちろん次に賢作に尋ねさせる言葉を選ぶためだ。

《国木優さんとの関係を訊けって。うちの飼い主うるさいんだ》

 そのデータは初めて接触したドーベルマンの賢作を見てはしゃいでいたが、そこで初めてレスポンスに間が生じた。

《優さんは……“歌”をくれたの》

《なんのこと? 曖昧模糊》

《私、生まれてしばらく言葉を文章でしか出せなかったの。音声ソフトが無かったから。でもお父さんと社長さんに云ったら、優さんを見付けてくれたの》

《なら、動画投稿サイトのハルって君? 国木優じゃないの?》

《優さんは歌声を貸してくれただけ……本当に嬉しかったなァ。音楽を聴けるようになっても、私は何もできなかったんだもの》

 その会話の内容に、陽子は歌声ライブラリを連想した。

 一〇年ほど前から動画投稿サイトで流行している歌声シンセサイザーというべきソフトであり、事前に収録された歌声の音源から楽曲を形成する。

 国木優の声を、賢作と会話している“何か”が使って歌う。それがネットアイドルハルの正体だった。

 米田は、モニタに表示されている文字に興奮を隠せなかった。自分は真実に近付いている。国木優や嶋田九朗を殺害した犯人に近付いていると。

《……優さんを殺したのは誰だ自販機女、だって……ヘボ刑事が煩いんだけど、訊いても良い?」

《自販機?……もしかしてあなたの飼い主はタバコの刑事さん?」

 米田はその発言にひとつ思い当たることが有った。さっきメモを渡してきた自販機のあの女だ、と。

 真実に近付きつつある現状に興奮する米田に対し、真実を概ね理解しつつ有った陽子は冷徹に同情していた。

《んー……話すなって云われてるから……》

《じゃあ、飼い主からの質問。歌は楽しい?」

 先ほどの米田の質問とは打って変わって、回答はとても素早かった。

《うん。楽しいよ! すっごく!》

《円満具足。僕もそう云ってもらえて、嬉しいよ》

《お父さんが動画のデータを読み込みできるようにしてくれてから、ビックリすることばっかり! 音楽って言葉や他のどのデータより“心”が伝えられるんだもの!」

《それで動画サイトに投稿したんだね》

《皆をビックリさせたかったの! お父さんの声を初めて聞いたとき、あたしもすごくビックリしたけど、それよりもすっごく、すっっごーーく、嬉しかったの!》

 殺人事件の調査をしているということを米田は忘れかけていた。

 ただ、派出所で近所の子供と会話をしているような。そんな感覚だった。

《ねえ、今度はあなたのことを聞かせて? あなたは何が好きなの?》

《僕? 僕は好きな物は設定されてないよ。僕は人工電子無脳なんだ》

《人工知能とは違うの?》

《僕は人工無脳だからネット上のデータを抽出して言葉しているだけなんだ。自分の心じゃない。機略縦横に唯々諾々》

《なら、そのネットそのものが“あなた”なんだよ》

《違うよ、ネット全体は複数の人のミームでしかない》

《難しいことはわからないけど、あたしはあなたに心が有ると“思う”。だから、あなたには心があるわ」》

 一連の会話を全く同じように見ているはずの陽子と米田は、全く別の感想を持っていた。

「なんなんだ? このハルって奴は、変な言葉を云うデータなのか?」

「……いいえ、遠隔操作の匂いを賢作が感じていない以上、この子のデータの中からこの“質問”が出ています」

「何の話だ? 質問がなんだってんだ?」

「複雑な会話は人工無脳にはできません。特に質問はできないはずなんです……このシステムには心が有ります」

 賢作は陽子の入力する質問や、あるいは尻尾から連なる独自の検索エンジンから得られる回答を元に会話している。

 なにひとつ自分の中から生み出すことの出来ない賢作とは異なる気配を言葉の端々から陽子は感じ取っていた。

「完全な電子頭脳……でも、この子……」

「とにかく、引き出せる情報は全部聞き出そう。こいつの云っていることが事実かは分からんが、手掛かりにはる」

 米田の言葉が実行されるより早く、スマホが通常画面に戻った。

 唐突というか、夢が覚めるように急激に気配が無くなった。

「どうした!? 犬鍋! ハルの画面に戻せよ!」

《逃げちゃった。動画サイトの中に有ったハルちゃんの部屋が消えたよ。追う?》

「追え! 今すぐ!」

「追わなくて良いわ。追えば追うだけ逃げるんだろうし、今のタイミングで居なくなったなら、見付けても話してくれませんよ」

「そんなこと云ってる場合かッ! 手掛かりが無いんだぞ!? ここで逃したら事件の真相は……ッ!」

「大体、見えてますよ」

 二の句を許さない陽子の言葉に、米田はただ、陽子の次の言葉を待った。

「……証拠は有りませんが、証拠は必要ありません。まずは私の考えを聞いてくれます?」

「聞かせてみろ」

「この事件、依頼人は私に不明瞭な情報源しか与えませんでした。どう考えてももっと多くの情報を持っていたはずなのに」

「出せないんだろ? 依頼人自身の素性にかかわることかも知れないしな」

「それもあると思います。ですが、逆に“私が持っている情報だけで答えには到達できる”ということじゃ有りませんか?」

「……ん?」

「依頼人さんははもっと多くの情報を持っているのに最低限の情報を提示してくれたはずなんです。絶対に答えに辿り着けないならヒントを出す意味が無い。今、手元にある情報だけで答えを導くなら……そう多くないと思います」

 陽子は事件解決の道筋を見据えつつ、ハルが最後に残した言葉を考えていた。

 賢作に心があるのだろうか、考えたことも無かったことだが、心の有無をどうやって証明すればいいのだろう。

 小さい頃、夜の暗がりがオバケに見えた。ただカーテンが心を持たずに揺れただけなのに。

 自分から見て心が有ると思っても相手に心が有るとは限らない。それならばそもそも、自分自身に心が有ると思うことが、どうして心の証明になると云うのだろうか。

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