正体X

 かつて霧の満ちる大都市で、毎晩一人の女性が殺されるという事件が起きた。

 国の警察機関は威信をかけて捜査したが、結局その姿形を見ることすら叶わず、事件は最後の被害者を出すまで迷宮入りとなった。

 その犯人のことを、警察機関は畏怖と恐怖、そして怒りを込めて名付けた。

 ジャック・ザ・リッパー、と。

「そのジャックの再来とでも言いたいのか、こいつは」

「さぁ……どぉだかねぇぇ……」

「おいミーリ、真面目に聞いているのか?」

「あえ? 聞いてる聞いてる」

「どこが……だ!」

 思いっきり、ミーリは向う脛を蹴られる。主を守るために盾となり、立ったまま殉職したという屈強な戦士でも叩かれると泣いたという弱点だ。

 故にこれがかなり痛くて、ミーリは一瞬だが痛みで歯を食いしばり、次の瞬間には仰向けに倒れて椅子から転げ落ちた。

 その音に周囲は一瞬振り向いたが、ミーリと彼女のやり取りだとわかると、いつものことだとまた自分達の日常に戻っていった。

 ミーリの脛を蹴ったのは、同級生の荒野空虚あらやうつろ。ミーリやユキナと同じく七騎しちきの一人であり、ミーリの良き友人だ。

 先日あった七騎集会の日程をメールしたのも、それに来なかったミーリを電話で叱ったのも彼女である。

 長く艶の光る黒髪に、焼けてもほとんど変わらない白肌はユキナと同じ。

 だが一五〇センチを下回る低身長のユキナと比べれば、彼女は一六四センチと女子にしては高く、スタイルもいい。容姿としては、ユキナよりも空虚の方がいいという異性は多いだろう。

 真面目でキチっとした性格の彼女は学年でも生徒委員会に所属しているが、その仕事は主にミーリの監視と指導だ。

 他の不良達は生徒会長や他の委員会のメンバーでもなんとかなるが、ミーリは友達でもある空虚の言うことしか聞かない。

 ――いや、空虚の言うことすら聞かないことが多いのだが、それでもまだ空虚の言うことなら聞く場面がある。七騎の一人でもあるミーリを動かせるのは、同じ七騎で友達の空虚くらいなのだ。

 故に彼女は会長から特別に、ミーリ・ウートガルド専属指導員という役職を貰っているのだった。

 その彼女の制裁が、容赦なくミーリにぶつかった。蹴られた向う脛を押さえながら、ミーリはゴロゴロと転げ回る。まぁ実際、わざとなのだが。

「そこまで効いてないだろう、さっさと立てミーリ」

 冷たくツッコまれる。

 するとミーリはピタッと動きを止め、つまらないと言った風の表情で空虚を一瞥し、静かに立ち上がった。

「チェ、もう少し心配して欲しかったなぁ……冷たいなぁ、ウッチー」

「恥ずかしいからやめてくれ。こちらも困る」

 ウッチーというのは、ミーリが付けた空虚のあだ名である。彼女をそう呼ぶのは、ミーリくらいだ。

「……話を戻したい。席に座ってくれ」

「はぁい」

 二人がいるのは、ラグナロクの食堂。

 元は教会の礼拝堂だったために学園でも一番大きい広場で、声と音が反響し、奥には巨大な女神を模った石像がある。最も、神々が人類を滅ぼしに来た戦争以来、この女神に祈る者は一人としていなくなったのだが。

 対神学園は全寮制で、炊事洗濯を自分でやらなければならない。が、無論自炊できない生徒もいる。故に学園は夜遅くまで開いており、食堂も学園の人間ならば誰でも利用できるようになっていた。

 故にこの日も太陽が沈み切った夜にも関わらず、ラグナロクの食堂は実に賑やかだった。

 そんな中で、ミーリと空虚は真面目な話。お互いのパートナーも付き合わせず、食堂の窓際で話していた。

 話題はミーリがサボった集会でも出た、連続通り魔事件についてだ。

「ジャック・ザ・リッパー、ねぇ……夜霧に紛れる正体不明の殺人鬼ってことしかわかってないけど……結局、正体ってなんなんだろうね」

「それは当時の警察機関でも、わかり得なかったことだ。それを題材にした小説はあるが、男だったり女だったり、貴族だったり医者だったりと様々だ」


「まぁ、そもそも誰もそれの正体を知らないのだから、当然と言えば当然と言えるがな」

「ふぅむ……その正体Xが、何故かこの時代のこの街に現れた、ってこと? 人間が神に転生した……魔神、ってことにしたいって?」

「でなければ、私達対神の名を持つ組織は動けないからな。ラグナロクの生徒達が襲われている以上、私達で動きたいが……しかし、相手が神でなければ管轄違いだ。私達の出る幕ではない」

「まぁぁ……そうなんだけどさぁ……俺としては、なぁんか違う気がするんだよね」

「と言うと?」

 ストローでグラスをかき混ぜながら、ミーリは少し間を溜める。中に入っている氷がグラスと衝突し、小さくも高い音を立てて二人の間にのみ広がっている静寂に響いた。

「神様にも匹敵する霊力を持ったまま死んで、神として転生したのがいわゆる魔神。俺はまだ会ったことないけど、神になった人間は人生で遺した逸話とか伝説を能力として持ってるって聞いた」


「もしその魔神に伝説の殺人鬼である正体Xがなってるんだったら、襲われてる生徒の顔ぶれが納得できないんだよね」

「何故だ」

「だって、確か伝説だとジャックは女の人しか襲ってないし、確実に殺してるんでしょ? でも今回の被害者の中には男もいる――ってか、男子の方が少し多いよね。それに何より、伝説の殺人鬼が数十人襲ってなんて、怪しすぎるよね」

「確かに……」

「それにこれは被害者のみんなに悪いけど、みんなそこまで強くない人ばかりなんだよね。全員パートナーがいないときに襲われてるし、襲ってない。要は自分の力に自信がないんだよ。魔神に転生するくらい凄い殺人鬼なら、そんな弱い人だけ選ぶなんて手間、省くと思うけどな」

「……」

「で、これは勘だけど。もし正体Xが被害者の実力を選んでるなら、正体Xはラグナロクの能力値を知ってるし、いつでも見れるってことになる。つ、まぁりぃ――」

「犯人は、ラグナロクうちの生徒と言うことか」

「あれ、最後自分で言うの? あぁぁ……ここ、決めようと思ってたのになぁ……」

「ちょっと待ってくれ、ミーリ。もしそうなら……」

 空虚が言葉を詰まらせる。自らミーリの最後の台詞まで取った空虚が急激に失速すると、大袈裟に落ち込んでいたミーリが静かに詰まっていたその先を続けた。

 それも、淡々と。

「うん、ラグナロクうちの能力値を知ってるってなるとそれは先生とかの関係者か、それとも学園でもそれを見れることが許されちゃうかなりの実力者……ってことになるねぇ」

「そう簡単に言ってくれるな、これは大問題だぞ。学園の生徒が同じ学園の同士達を襲うなど……目的は、なんだと思う」

 ここまで自論ながら、実に的確な推理を披露したミーリに空虚は問う。

 授業でやるような歴史の勉強や数学に雑学、そう言ったものは大嫌いでやりたがらないミーリだが、こと戦闘や敵の観察となると途端に頭の回転が速くなる。その部分に期待しているところがあった。

 ミーリはその頭で少しだけ考えて、そしてストローでジュースをすべて吸うと、小さく息を漏らして言った。

「ぜぇんぜんわっかんない」

「そ、そうか……」

 つい期待してしまった自分を、空虚は少し責める。こういうときばかりミーリに期待してしまうことが、普段は注意とかしているだけあって少し悔しかった。

 が、ミーリは氷を噛み砕きながら続ける。

「それがわかれば、正体Xの正体そのものがわかったりするんだろうけどねぇ……でも、一つだけ言えるかもしれないことがあるよ……」


「正体Xの目的は人を殺すことじゃなくて、だってこと、かな」

 同時刻、ユキナは闘技場で後輩達の指導を終え、シャワールームで汗を流している頃だった。

 一五〇センチ満たない後姿を覆える黒髪を洗い、全身を撫で回す。その指はやがて、体に刻まれた刻印へと伸びる。

 普段はドレスワンピースに隠れて見えることはないが、ユキナの体には刻印が刻まれている。

 左の脇から脇腹にかけて、二重の円とその中にある六芒星。そしてその中心にある数式記号のπを縦にしたような形のマークが、固まった血の色で刻まれている。

 現在の力と契約したときに刻まれたものだが、それが何を意味するのかはわかっていない。契約の証なのか、それとも別の何かなのか、それを語らぬまま、彼女は意識を閉ざしてしまった。

 だからこの華奢な細躯さいくに残された刻印の意味を、ユキナは知らない。

 ユキナは嫌いだった。

 ミーリは自分のことを好きだと言ってくれる。この長い黒髪も、小さな体も、そして雪のように白い肌も。

 なのにその体に刻まれた、黒く澱んだ血の色の刻印。そんな血生臭いものが体に刻まれていることが、耐えられなかった。自分の体そのものが、穢れているような気がしてならなかった。

 だから嫌いだ。

 嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い。

 あのミーリ・ウートガルドに、誰からも愛されるミーリに愛されているのに、何故私の体には――

 そのときだった。

 突如として、聞こえて来た悲鳴。その声の主が今さっき体術を教えた後輩の一人のだとわかると、とっさにシャワーを出しっぱなしにしながらも飛び出した。

 体も拭かず、服も着ず、悲鳴が聞こえた方に行ける最短ルートの窓を探してそれを蹴破り、外に飛び出す。

 漆黒の黒髪を暴れさせながら全速力で駆け抜け、そして闇の中で見つけた敵影に跳びかかる。時速六〇キロを下らない速度で跳び蹴りを喰らわせ、敵影を思い切り蹴り飛ばした。

 着地と同時に四角柱の立体パズルを現出する。その形を掌の上で変えながら、蹴り飛ばした敵影と対峙した。

 獣の皮を頭から被っているために判断しがたいが、背丈と肩幅の広さからおそらくは男。そして皮で隠しきれていない霊力の質から見て、悪魔の類であると思われる。

 ミーリと違って、霊力の量や構え方から実力を計ることはできないが、だがそれでも、今敵が持っている禍々しい黒剣を見れば、ただの剣士ではないと思えた。

 そして、背後を見ればその黒剣に斬られたのだろう後輩達。急所は避けられているが、傷口から流れる血はとめどない。

 すぐに死ぬことはないが、早く手当しなければ当然命に係わる。

「……あなた、もしかして噂の切り裂きジャック?」

 敵影は答えない。黒剣を向けたまま、肩で息をして黙っている。

「私のことを知らないはずはないわよね。ここで会ったのが命運だったって、諦め――?!」

 突然、視界が黒くなる。次の瞬間には敵影がまとっていた皮を投げつけられたのだと気付いたが、それを反射で払い除けるのが少し遅かった。

 払い除けたと同時、敵影が黒剣を地面に叩きつけたことで舞い上がったのだろう土煙と黒霧が視界を遮り、ユキナをその場に留まらせる。

 敵影はその目くらましに紛れ、姿形を完全に消した。ユキナの霊力探知圏外まで、離れている。そうなればもう、ユキナに追う術はなかった。

「あなた達、大丈夫?」

「は、はい……なんとか、でも……レオが……!」

「レオ! レオ! しっかりして、レオ!」

 彼女達の中で、確かに獅子谷玲音ししやれおんが一番の深手を負っていた。横っ腹と右太ももを貫かれ、血が流れ出ている。

 ユキナはとっさに敵影が投げつけて来た皮を引きちぎり、玲音の傷口に押し当てる。残りを上から羽織って服代わりにすると、大きく息を吸いこんだ。

「ミーリィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!!!!!」

 大気をつんざく、雷轟にも匹敵するほどの絶叫。彼の名前を呼ぶ声は広大な学園の敷地全土に響き渡り、その直後にその彼を自身の元へと駆け抜けさせた。

 わずか十数秒で飛んできた彼は、汗だくになった額を拭ったあとにユキナが羽織っている皮を取り、自身が羽織っている上着をかける。

 そして怪我をしている後輩達を順に見て、特に怪我が酷い玲音を見ると珍しく眉間にシワを作った。

「話はあとで聞くからね。まずは保健室に運ばないと……この子は俺が運ぶ。他の子は……君達にやってもらおうかな」

 そう言って、ミーリはたった今駆けつけて来た生徒達に言う。その一言で察した彼らは、すぐさま怪我人に手を貸して保健室へと向かい始めた。

「で、見た? 正体XのXの部分」

「……ごめん、見逃した。見れなかった」

「……そっか」

 ユキナの頭を撫で回す。その手は実に優しく、そして重かった。

「無事でよかった」

「……うん」

 その後、襲撃された五人は無事に手当てが終わり、玲音に関しても一命を取り止めた。

 だがその犯人である正体Xが果たしてジャック・ザ・リッパーその人だったのかは、確認することができなかった。

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