紫陽花の特別

 ふらり、と立ち寄った親子連れで賑わう真昼の庭園、入口近くの売店で懐かしいものを見かけた。


 それは『使い捨てカメラ』。


 僕が小学校の頃だろうか、その頃にはまだあったはずだ。

 旅行先、友達とはしゃいで買って、意味もなく使ってまた買うことを繰り返したそれ。

 使い終わった後も、光るのが面白くて何度も手のひらに叩きつけた。


 懐かしさに駆られて売店に駆け寄った。

 『使い捨てカメラ』を手に取って「ひとつください」と窓口に座った女性へ言う。


「……700円」


 あまりにそっけない対応に、思わず店員の顔をまじまじと確認してしまった。


 懐かしのカメラに夢中でろくすっぽ見ていなかったが、店員の女性は随分と綺麗な子だった。

 髪は黒のストレートに切れ長の目、ブラウス一枚をさらりと着て上からエプロンをつけているがそれも様になっている。


 笑えばそれはもう、花咲くように美しい子だろう。

 僕にはにこりともしないけど。


 それを少し、もったいないなぁ、と思いつつも、これは僕の勝手な感想である。

 客商売なんだからもうちょっと愛想がいいほうがいいとは思うけど。

 とはいえ、彼女はきちんと仕事はしている。

 なんとなく複雑なものを感じながら、僕は千円札を出した。


「おつり。300円」


 相変わらず無表情で彼女はおつりを渡してくる。

 ひんやりとした指先から百円玉を受け取って、それから気持ちをきりかえてお目当ての使い捨てカメラの袋を開けた。


 懐かしい黒の本体に笑みがこぼれる。

 おもちゃのようにチープな軽さと、プラスチックの無機質な黒。

 忘れずにフィルムを巻いて、それから紫陽花の咲く庭園内を見回す。


 今日はよく晴れた青空の日だが時期的には間違いなく梅雨で、庭園内のあちこちで青と薄紫の小さな花がしっとりと咲いている。

 慎ましい花の群生に心が浮足立って、足取りも軽く散歩を始めた。


 普段は写真なんか撮ろうと思うこともないし、今はスマホでいくらでも、いつでも綺麗な写真が撮れる時代だ。


 だからこそ、だろうか。

 いつでも撮れるから、こそなかなか興味が湧かない。

 やろうと思えばいつでもできる、が、僕のなかから写真を普遍的なものにしてしまった。


 だが、この懐かしの『使い捨てカメラ』はどうだろうか。


 写真に枚数制限がある、現像するまでうまく撮れているか分からない、しかも現像にまでお金がかかる。

 だから特別なときにしか使わない。

 ここぞ、というときに、大切に使う。


 僕にとってそれは非日常で、スマホのカメラとは違う、特別、だった。


 ぱしゃぱしゃと気の向くままに写真を撮る。


 紫陽花。

 青い空。

 遠くで手を振る男の子。

 鯉と亀が仲良く顔を出す池。

 木陰でひっそりと実を灯すほおずき。


 そこにあるのは普通でも、特別、が楽しい。


 さきほどの店員の塩対応など心の隅に追いやって、僕はカメラを片手に庭園内をふらふらと歩き回っていた。

 残りの数を頭の中で数えながら、ひたすらシャッターを切る。


 そして、最後の一枚。

 青い紫陽花の群れに、遠くからレンズを向けた。


 横切る人の波が落ち着くのを待って、ぼーっとカメラを持つ。

 まぁ、それも結構大変ではあるのだけど。

 なにせチャンスは一瞬。その一瞬も手ブレで何も写らないのは昔に経験済みだ。


 しゃがみ込んだままその時を待っている。


 すると、長い髪の女性がじょうろを持って視界に割り込んできた。

 白のブラウスに、シンプルなエプロン。遠目にもわかる美しい顔。

 さきほどの店員の女の子だ。


 彼女は慣れた手つきで紫陽花たちに水をやっているようだった。


 仕方ない。

 これが終わるまでは大人しく待っていよう。

 そう思ってレンズは覗いたまま、青い花に水をやる姿をじっと見ていた。


 ふっ、と一陣の風が吹く。


 レンズの向こう側で彼女の長い髪が宙を舞った。

 木々が揺れて、木漏れ日が花に乱反射する。

 黒髪も艶やかに風をまとって、軽やかに揺れる。


 そうしてふわりと持ち上がる黒に、隠されていた彼女の表情が、ほんの少しだけあらわになる。

 

 ほんの一瞬。

 柔らかに細められた目元に、僕は釘付けになった。


 それは本当に一瞬のことで、慌ててシャッターを切ったけれど間に合ったのだろうか。

 まだ分からない。現像しなければ見えない答えだから。

 でも、なんとなく、間に合わなかったんだろうな、と思う。


 ほんの一瞬の特別。


 花咲くように笑うその顔を、きっと花だけが知っている。

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