第2話 成功 代価 魂

 魔の十字路―――街ではそう言われている。

 今、目の前にいる男は悪魔。

 私と契約を結び、人生を成功に導くと誘惑する。

 一体、何が目的だ?

 

 悪魔に支配されてたまるか!


 画家が睨みを効かせると、悪魔は手を振り邪険にする。


「よせよせ、人間は人知を超えた存在の前では、等しく愚かだ」


 悔しいが事実。

 生死を操る見技を、目の前で見せつけられたばかりだ。


 悪魔が画家へ顔を近付けると、紅い眼球に映ったのは、野良犬のように哀れな青年だった。


「お前は誰に対して怒っている? 何に対して叫ぶ? 移民か? 脆弱ぜいじゃくな社会か? いや……神だよ」


「悪魔が神の話しを持ち出すとは、滑稽こっけいだな」


「よく聞け? 神に救いを求めるなんて、それこそ滑稽だ。世界に人がどれだけいるか知ってるか? 人間が増えすぎたせいで、神も救いの手が回らない。神の手に収まる救われる者、神の手からこぼれ落ち見捨てられる者。これが世の不条理の真実さ。お前はこぼれ落ちた存在。ただそれだけだ」


「私の人生が上手く行かないのは、見捨てた神のせいだと? そんな理屈があってたまるか! ただ神に愛されないだけで不幸になるなら、こぼれ落ちた者を誰が救うんだ!?」 


 悪魔は画家を、真剣な眼差しで射る。


「お前だよ」


「私が?」


 悪魔の投げかけに、思わず心のすきが出来る。

 悪魔は続ける。


「神の手が回らないなら、人間の中から神の代わりになる存在を出せばいい。哀れな人々を導き、救いの手を差しのべる人間の神。来たるべき新世界の神は、世の不条理を知ったお前にしか出来ない。お前は人を引きつけ導く才覚がある。画家や建築家、音楽家などは、その才覚の一部だ」


 私が神? 世界は、この私に人類の命運を託すと言うのか?


 悪魔はさとす。


「そうだ……運命を受け入れろ」


 そうか、運命…………これが運命だったんだ! この苦しみも、自分の運命を知る為の試練。

 全ては軟弱な人から、神に生まれ変わる為の試練だったんだ! 

 神には世界の真実を人々に伝え、正しき道へ牽引けんいんする義務がある。

 間違った価値観を覆す革命家が、この世界には必要だ―――世界は臆病な民族のためにあるのではない。


「私は人類の中から選ばれた現世の神なのだ。私がこの手で救い上げた者達こそ、繁栄を許される人類だ! 移民は土地も民族の血も汚す害獣だ! 移民だけではない―――神は臆病な民族を原則として自由にしてくださらぬ―――障害を持つ物や、同性愛者も社会を堕落させる。理想の国家を作るのは、高潔な魂と祖国への誇り。私の闘争はここから始まる」


 画家が奮い立つと、悪魔は興奮し勢いをあおる。


「殺せ! 皆殺しだ! お前の理想を邪魔する者を、抹殺しろ。お前の思想を理解しない者を排除しろ、キリストを処刑したディアスポラ(その土地に根付いた移民)を、一人残らず消しされ」


「そうだ! シオン議定書の記したとおりだ! 奴らはこの世界を支配し、邪悪な神の思想を持ち込むイスラエルの堕天使。真の悪魔は第三世界の使者だ―――永遠の闘争により人類は成長した―――私は立ち上がる! 勇猛果敢なジークフリートのように、聖杯騎士ローエングリンごとく、ドイツ国民を導く! アーリア民族の血を絶やさぬ為に、汚れたユダヤの血を粛清せねばならない!」


 悪魔はほくそ笑んだ。


「いい顔だぜ、アドルフ。お前の帝国を作れ……」

 




 新聞やラジオは連日、アドルフ・ヒトラーのニュースを扱い、映画は彼の栄光を讃えた。


<ナチス労働者党、党首ヒトラーが政界への進出を表明>


<ナチ党が過半数を越えました。ヒトラー政権の誕生です>


<ドイツ軍が不可侵条約を破棄しポーランドに侵攻。イギリス、フランスが宣戦布告を表明>


<ドイツ軍がフランスの首都パリを占領、わが国の快進撃は止まりません。ドイツ国内の雇用と、生産量は前年の倍に跳ね上がり、世界に誇る経済大国になりました>


<ヒトラー総統の姪。ゲリ・ラウバルが遺体で発見されました。死因は銃による自殺と断定。最愛の姪を失った総統の失意は深く、政界からの引退を考えているとのことです>


<今日未明、ヒトラー総統が爆破テロに巻き込まれましたが、命に別状はありません。我が国の指導者は不死身です> 



 


 ヒトラーが書斎で、ワーグナー<ワルキューレの騎行>を聴いていると、蓄音機の針を持ち上げ音を止める者が現れた。


「随分と偉くなったな、アドルフ。今は総統と呼んだほうがいいか?」


 総統は至福の時間を阻害され、悪魔と言えど、腰に備えた銃で撃ち殺そうかと思った。


「俺の言った通りだろ? 画家だけじゃなく、音楽家、建築家としても成功した。自伝の売れ行きも上々らしいな? <我が闘争>とは、よく言うぜ」


 常に人を見下した態度を取る。

 悪魔からすれば、人間は知能の劣る愚かな猿と言うことか?


 心は読まれている……かまうものか、ここまで国家と国民を導き、富と名声を得たのだ。

 もう、悪魔の力なんぞに頼る必要はない。


「へぇ、俺は用済みか? 偉くなったもんだ。ホロコーストで何人殺した? 何百、何千?」


 ヒトラーは愚問だと言わんばかりに、鼻で笑い答える。


「私の知るところではない」


 悪魔は書斎に並べられた、数々の勲章を見ながら言う。


「まぁ、何にしても、これだけの栄誉があれば、あんたの姪っ子も地獄で喜んでるさ」


 ヒトラーは悪魔が不意に漏らした言葉に、心をかき乱される。


「何? ゲリか? ゲリのことを言っているのか。何故、ゲリが地獄にいる?」


 悪魔は不気味な笑みを見せる。


 しびれを切らしたヒトラーが詰め寄ると、悪魔は宙を舞う木の葉のようにかわし、総統の椅子に座りふてぶてしく話す。


「人間の世界は物理法則が支配している。この世界では、何かを得る為には等価値の物と、引き替えにしなければならない。あんたには、魂を多く集めて貰わないとならない。死なれると困る。だから、あんたの命に匹敵する価値の物、愛してやまない姪の魂を頂いた」 


 馬鹿な、私が悪魔と契約した事で、ゲリの死が運命付けられたと言うことか?

 

 脳天を打ち砕かれるような衝撃が走る。


「何故だ……何故、私を選んだ?」


「あんたには、いろんな未来があった。売れない画家の道、平らな公務員の道、戦争に行かなかった道、十字路で野垂れ死ぬ道……その中でもあんたを、輝かしい未来へ導いただけだ」


「恩着せがましいことを!」


 悪魔は笑いながら言う。


「あぁ、魂を効率よく集める為に利用したのさ。地獄では、人間の魂は石油と同じ資源なんでね……おかげで大勢の魂を地獄に送れた。本当に用済みなのはあんただよ」


「ふざけるなぁぁぁぁ!!」


 怒りが頂点に達したヒトラーは、腰にあるホルスターから拳銃を抜き取り、悪魔へ向けて発砲する。

 弾は悪魔に命中、総統は尚も銃を撃ち続け、気付けば弾を撃ち尽くしていた。

 憔悴しょうすいするヒトラーは、しばらく悪魔を見つめる。


 すると―――。


 悪魔は睡眠から目覚めるように立ち上がり、ヒトラーに顔を近づけた。


 紅い目に睨まれヒトラーは、恐怖で呼吸と心臓が止まり、このまま魂を悪魔に喰われると思った。

 悪魔は抗議する。


「いきなり撃たれると驚くだろ!? あんたも四十二回、暗殺されかけたんだ。それぐらい解れ?」


「四十二回だと?」ヒトラーは困惑する。


「あんたを陰ながら守ったのは俺だよ! だから、この前のワルキューレ作戦……爆破事件も命拾いしたんだ! どいつもこいつも、時の権力者ってのは、その事を誰も感謝しない。ネロを英雄にした大火事は俺がやった。足利義教あしかがよしのりはクジ運を操って将軍にしてやったのに……」


 悪魔は冷めた態度で突き放す。


「まぁ、これで契約破棄だな」


 悔しいが、人知を超えた存在に敵わないのは解っている。

 こんな罵倒ばとうしか出来ないとは、何て非力なんだ。


「この悪魔め!!」


 悪魔は冷笑する。


「何言ってんだ―――悪魔はあんただよ、アドルフ。あんたは、あの十字路で高潔な”魂”を売った。本当のあんたは弱い人間だ…………じゃぁ、地獄で待ってるぜ」


 そう言うと悪魔は、ろうそくの火が吹き消されるように姿を消した。


 残されたヒトラーは、膝から崩れ落ちた。


 その姿は、一国の頭首とは思えぬ程、軟弱で、女のようにすすり泣く。


「あぁ……あぁぁ―――ゲリ……」



 数週間後、ノルマンディー上陸作戦の成功により、戦局は一変。

 翌年、ベルリンは陥落。

 ヒトラーは邸宅の地下壕にて自殺。

 ドイツ第三帝国は崩壊した。



                            Das Ende

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画家と悪魔 ~魔の十字路~ にのい・しち @ninoi7

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