画家と悪魔 ~魔の十字路~

にのい・しち

第1話 悪魔 契約 死

 生気の無い目で街を彷徨う青年―――小汚いその姿は、誰が見ても浮浪者にしか見えない。

 当てもなく足を進めながら彼は思った。


 何と言うザマだ。こんな姿を家族や顔見知りに見せたくない、何より自分のプライドが許せない。


 何の見通しも立てぬまま、逃げるように街から出た。

 疲労と真冬の風に当てられ、膝が悲鳴を上げている。


 仕事も奪われ食べ物を買う金も無い。

 何故、こうも自分の人生は上手くいかない?


 気付けば、人気ひとけの無い道。

 地面でひっくり返ったドブネズミの死骸が、車に潰され内蔵が露出している。

 内蔵に群がる黒く大きなハエの大群は、黄泉から使わされる亡者のようだ。


 魔の十字路―――街ではそう言われている。


 悪魔や幽霊を見たという噂ばかり聞くが、確かに異様だ。

 まるで異世界に迷い込んだ気分だ。


 精も根も尽きかけた青年は、小石につまずき無様に地面に倒れた。


 寒い……手も足も感覚がない……何だか、とても眠くなって来た……。


 青年の意識は次第に遠退いて行き、静かにまぶたを閉じる―――。


(死ぬのか?)


 誰だ……?


 聞き覚えのない声。

 青年は最初、疲労から来る幻聴かと思った。


(おい、死ぬのか?)


 彼は声のする方へ顔を向ける。


 そこには—―——————卑しい顔で除き込む男がいた。

 全身黒尽くめ、その顔は白目の部分は紅く、不気味な笑顔は歯が全て八重歯のように尖っている。


 まさか……悪魔?


 男は嬉しそうに答える。


「ご名答。お前達、人間が言う悪魔だよ。画家のお兄さん」


 何だ? 私の心を読んだ? いや、まさか……。


「絵も描けず仕事も無くし、救いを差し伸べる者もいない。死ぬのを待つだけ、可哀想に~」


 無礼な男だ! 何の言われがあって、こうも侮辱されなければならない? こいつは悪魔では無くイカれた浮浪者に違いない。


 不気味な男はしゃがみ、首を傾げてこちらを見つめ何かを悩む。


 男は何かを閃き顔が明るくなる。

 そして、道に転がるネズミの死骸に手をかざし、何やら怪しい呪文を唱える。


 すると―――死骸に群がるハエの大群が水飴のように溶け、黒いオイルに変わると、散乱するネズミの臓器や血と共に腹に吸い込まれる。

 皮膚が自然に縫合され腹を閉じた。

 元の身体を取り戻したネズミは、手足をヒクヒクと動かし反り返る。

 甦ったネズミは自分が死んだことを知らないのか、元気に走り回った。


 画家は目の前の光景が信じられ無かった。


 画家が驚愕の眼差しでネズミを見つめていると、男はネズミに投げキッスをした。


 突然、ネズミは走り回るのを止め動かなくなる。


 しばらくするとネズミはひっくり返り、苦しそうに自分の腹をかきむしる。

 やがて、ネズミの腹は風船のように膨らみ、画家の目の前で破裂————―――————―――内蔵と共にハエの大群が飛び出した。


 画家は、目の前の光景に正気を保つ自信がない。

 腹から飛び散る内蔵を見て、男は子供のように手を叩き、喜んでいた。


 頰にひんやりとする感触が流れた。

 破裂した時、外気に触れ、冷えきったネズミの血がこべり付いた。


 顔に付いた瞬間の血は生暖かかった……ネズミは間違いなく生きていた。

 いや、甦っていた。

 

 こんな見技が出来るのは―――。


「悪魔……だから、さっきから言ってるだろ?」悪魔は呆れたように言う。


 次に悪魔が画家の額に手をかざす。


 殺される! 


 画家は身構え、あまりの恐怖でまぶたを閉じることも出来ず、目の前の悪魔を凝視する。


 しかし、画家の覚悟と裏腹に気分は楽になり、さっきまで疲労と寒さで動かなかった身体は軽くなる。画家は身体を起こし自分の身に異常が無いか調べる。


 画家は新たな混乱に思考がついて行けない。

 顔を上げ悪魔と目が合う。


 何が目的だ?


 悪魔は不快な顔付きで言う。


「おいおい、言葉を話せ! 人と猿の違いは言葉の文化を持ってるかだろ? 相手の思考を読むのは神経を使うんだ」


 画家は恐る恐る答える。


「……どうして助ける?」


「人間を堕落させるだけが悪魔じゃない。人間の未知の可能性を見極めるのも、悪魔の仕事さ」


 あくまが―――「悪魔が人間の肩を持つなんて信じられない」


 悪魔は肩をすくめながら言う。


「よく言われるよ。そのせいか人間と契約を結ぶのに時間がかかる」


「契約だと?」


「これでも俺は商売人だ。人間の望むモノを提供し代わりに、こちらが望むモノを現世で人間に得て貰う。お前が欲しいものは、何でもやろう。金、名声、将来」


 画家は安易な提案に、悪魔の真意を探る。


「代わりと言うのは私の魂か?」


「そうだな、魂は欲しい……だが、お前のじゃない」


 この悪魔は何を企んでる? 


 画家を見据える。


 ふざけた悪魔の表情は身構えた様子がなく、逆に腹の内が読み取りづらい。


「やめときな。人間が悪魔の腹を探ろうなんて、土台無理な話しだ」


 こちらは心の内を読まれる一方なのに、なんと理不尽な事か。

 悪魔なんかと契約など冗談じゃない。


 悪魔は陽気に話し始める。


「芸術大学に受験するも二度落ち、絵を売って日銭を稼いでも、評論家や売れている画家からは、模写ばかりで独創性や面白味が無いと言われる。まともな職に着いても、人間関係が下手だからすぐ追い出される。情けない限りだ」


 画家は感情的になった。


「違う、仕事は奪われた! この国に流れ込んだ移民が仕事を横取りした。奴らの祖先は神殺しだ? なのに、この国へ来て我が物顔で暮らしている。それに、誰も私の芸術性を理解出来ない。私を認めない社会が悪い!」


「意識高いねぇ~、何でも人のせいだな? 本心は兵役が嫌で逃げて来たくせに」


「当たり前だ! 戦争は愚かな人間がすることだ」


「口だけは偉いなぁ。とても家族から金をせしめる、堕落した人間の言葉とは思えない」


 画家は動揺し慌てて反論する。


「あ、あれは……仕方ない。芸術には金がかかるんだ」


 悪魔は人間の見栄に笑う。


「ははは! 人間の虚栄は救いようがない。どんなに偉く大きく見せても、小さき弱者には変わりないんだぜ?」


 心を見透かされた画家は、恥ずかしくなった。

 本当は妹の学費を、無断でせしめて娯楽に費やした。

 それを芸術を学ぶ為と言い訳した。


「いいんだぜ、お前が悪い訳じゃない。芸術は麻薬みたいなもんだな、一度魅了されたら悪魔ですら魂を奪われる。人類が発明した虚構の麻薬だ」


 人をたしなめるような悪魔の物言いは、画家にとって度々、不快に感じる。


「しかしなぁ~、そろそろ絵の才能にも限界を感じているんじゃないか?」


 まったく人の心に土足で入り込み、全てを悟るように語る。

 下世話な悪魔め。


 悪魔は画家を見つめニヤける。

 下世話と思われることを喜んでいるように見えた。

 だが、悪魔の言うことはその通りで、画家はうつむきながら答えた。


「全てを諦め故郷へ帰り、職を見つけようと考えた。だが父のように公務員として働くのは社会に負けたも同然だ……それに、私は人に使われる仕事は向いていない」


「お前は端っから人を見下し、他人をあざ笑う。そんなことだから浮浪者施設に入っても、お仲間と仲良く出来ないんだぜ? 惨めな奴」  


「馬鹿を言うな! 私は周囲の人間のように、下劣な蛮人とは違う! 私のような―――並外れた天才は凡才に配慮する必要はない」 


「凄いね~、その世界を斜めから見下す感じ、神だよね~」


 悪魔は手を叩き笑う。


 屈辱された気分だ。


「お前は用量が悪いくせにプライドだけは高い、どこへ行っても失敗する。致命的だよなぁ、インテリジェンス・クオシェントは凡人より高いのにねぇ~。120? いや、140より上……」


 悪魔が画家の額に手を当て知能指数を計ると、彼はその手を煙たそうに払う。

 せせら笑う悪魔は問い掛ける。


「何なら、お前の気に入らない人間の名前をノートに書いて、そいつら消そうか?」


「何だと?」


「旧約聖書のソドムとゴモラは俺の手腕だ。インドラの雷も俺が発明したんだぜ?」


 それが本当なら魅力的な提案だ―――完全に全ての手段で相手を倒す―――いや。


 画家は悪魔の囁きに心を揺さぶられるが、首を振り誘惑を断ち切る。


「そんな、陰惨で卑劣な真似はしたくない……それは臆病者のすることだ」


 悪魔はつまらなそうに口笛を吹いた。が、こりもせず尚、持ち掛ける。


「俺と契約すれば全て上手くいくぜ? 古代ローマの王も極東に存在した将軍達も俺が才能を見出した」


「やけに契約を急がせるな? 逆に信用出来ないぞ」


 画家は少し優位なったつもりで返す。

 悪魔の腰が低くなる。


「お前みたいな才能ある奴を、援助してやりたいのさ~。画家だけじゃない、建築家や音楽家にだってなれる。数いる人間の中から、冥界により選ばれた存在だ。普通の人間と違うのは当然だ」


 わずらわしい奴だ。

 侮辱したかと思うと褒め称える。

 しかし、皮肉だな。私の全てを認めてくれるのが悪魔とは……。


 画家は不意に悪魔へ心を開く。


「私には建築家は向いていない。音楽家か……クラシックやオペラは好きだ。図書館に通い詰め、名だたる作曲家の歴史を学んだ。タンホイザーのような傑作を作りたい。冥界での快楽に溺れ、街を彷徨う騎士タンホイザーが、恋人エリーザベトの悲劇に自らも……」


 その時、画家の中に微かな違和感が生じる。

 ふと、悪魔にもて遊ばれたネズミを見て、考えを巡らせた。


 悪魔が見えるなど常識ではあり得ない。

 契約とは、私を冥界に連れて行く為の予約なのでは? こいつは、息絶え魂をハゲタカのように喰らう機会を、うかがっているのか? 

 まさか! 魔の十字路にたどり着いた時、飢えと寒さで意識が遠のき眠った。そして、そのまま目覚めることなく私は凍えて……。


 画家は悪魔を見る。


 何だ、その哀れむような顔は? 一体、私の身に何が起きた?


 画家は悪魔に問う。


「まさか…私は死んだのか?」


 画家が悪魔にしがみ付く。


「嘘だ! 嘘だと言ってくれ!」


 悪魔は画家をただ見つめ、沈黙が全てを物語る。


 そんな、この世には慈悲すらないのか……。


 画家は絶望し、すがることすら諦め、力無くうな垂れる。


 その姿を見た悪魔は笑いをこらえているのか、肩を震わせて終いには吹き出した。

 笑いを止められなくなった悪魔は、腹を抱えて大笑いして、道で転げ回った。


「う、嘘だよ! ほ、本当に死んだと思ったのか!? ははは! 安心しろ、生きてるよ。その証拠に……」


 悪魔は画家の腕を取り袖をまくると噛みつく。

 獣のように尖った歯が、腕の肉を引き裂き食い込むと、彼は思わず叫んだ。

 腕を振り払い、悪魔を突き放すと、傷口から真っ赤な血が流れた。

 画家は痛みで震える腕を押さえながら、悪魔にナイフのような鋭い眼光を向ける。 


 この悪魔め―――どこまでも侮辱しやがって!


 悪魔は血の付いた歯で、不気味な笑顔を作ると、吸血鬼のようなおぞましい印象を与え言う。


「いいね、その顔……お前には怒りの顔がよく似合う。なぁ……俺と契約しようぜ」

 

 続く―――。

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