第3話 長男が居る

 

 この家に、長男が存在したことはない。


 祖父は大きな農家の次男坊で、父は八人兄弟の末っ子である。

 祖父は千葉県生まれで、技術者としてこの地に呼ばれて海軍の官舎に収まった。遠い親戚を嫁にもらってこの地に居着いた。父は、兄が家を継いでいるので、養子にはならないけれども、長女である母の名字に変わることは特に問題ないと、この家にやってきた。先代の起こした繊維工場もすでに廃工場で、家業を手伝う必要もなかったからだろう。

 というわけで、この家の男性陣は、長男ではない。

 そして私には、妹しかいない。


 しかし時々、母に向かって、奇妙なことをいう人が現れる。


「おたくの長男は、先が楽しみですね」

「息子さんにお渡ししましたよ!」


 長年顔馴染みの、近所の人が言うのである。

 どうやら立派な孝行息子がいるものらしい。


 どこにだ。


 私は髪が短く、平均よりはやや身長もある。

 早くに亡くなった祖母が背の高い人だったらしく、隔世遺伝といわれている。

 冬場にモコモコに着込んでいれば、知らない人が見れば、男に見えることもあるのかもしれない。ある日、コスプレ用のぺらぺらな迷彩ジャケットを着て帰宅したら、押し売りが私の姿に驚いて帰ってしまったことがあり、母が大喜びしたこともある。夏場でも、上下ジャージを着て、職場の女子トイレで顔を洗っていたら、「びっくりした!」と声をあげられたことがある。学生の頃、トレーナー姿で駅のトイレに入ったら「ここは女子トイレですよ!」と怒られて、「私、女性なんですけど」と芸の無い返答をしたこともある(なんと返事をすれば気が利いていたのか、未だにわからないでいる)。「そんな馬鹿な、冗談でしょう」と言ってくれる人もあるが、冗談ではない。肌を露出している時期でも似たようなことは発生する。人は、背の高さぐらいは気がつくけれど、胸も腰つきもよく見ないものなのだ。


 しかし、家族構成を知っているはずの馴染みの商売人が、間違えるというのはどういうわけだ。


 ところで私は、母親似の男顔(つまり祖父似)で、妹は父親似の女顔である。

 連れ立っていても、姉妹に見えないこともあるらしい。

 知らない人からは「お友達同士かと思ってた」といわれることもある。

 ある日、私がひどい目眩を起こして、MRIを受けることになった時、妹が病院につきそってきてくれたことがある。

 その時、医者が私に言った。

「あの人は誰です。娘さんですか?」

 申し訳ないが、三歳未満で娘を産むのは無理です、先生。

 現時点で誰も産んでないです、先生。


 まあ、つまり、母娘と思われるぐらいは似ているはずなのだが。


 ある冬、妹が簡単な切開手術を受けることになり、初めての入院をすることになった。私と母が病院につきそっていって、病室に身の回り品を置き、今後のスケジュールについて話しあっていた。

 同室にもうひとり、年配の女性がいらした。

 ご迷惑をおかけします、と挨拶をすると、女性はニッコリして、

「いいわねえ。優しい旦那さんがついてきてくれて」

 妹は慌てふためいた。

「姉です、姉! これは姉です」

 女性はきょとんとしていた。


 その後、予後の確認に、もう一度病院に行った際、同室だった彼女が「私も今日診察なのよ、元気?」と妹に声をかけてきた。そして母にも。私は完全に無視された。妹は「きっと、男と間違えて気まずかったんだよ」といった。

 私は疑っている。

 今でも旦那と思われているのではないかと。


 というわけで、この家には、長男やら旦那やらが住んでいるらしい。


 どこにだ。




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