第16話 冬のある日
トーマスは川沿いの岩にやっとたどり着いた。冬になってしばらくすると大雪になって足元が危うくなっていた。
「さすがに山には登れないか」
トーマスは手に持った靴を握りしめて呟いた。
収穫祭から約一ヶ月、トーマスは父親から絶対安静を言い渡されていた。ネイサンたちから受けた傷は思いのほか深く、骨にひびが入るほどの重症だった。気が張っていると意外と気がつかないものらしい。
すぐにでも山に登ってクヌガに靴を返さなくてはと思っていたが、ジェイコブと共に診療所のベッドに寝かされては抜け出すチャンスもなかった。
やっと退院の運びとなった時には外は一面の銀世界と化していた。
もしかしたらとここまでやってきたがやはりこれでは登るのは無理だろう。
「帰るかな」
そう思って踵を変えそうとした時、川の側の小屋の扉が開いているのに気づいた。雪が深くなるのを想定しているのか高床式にこしらえてある小屋の扉が開いていた。トーマスは好奇心のおもむくままにそこまで足を運んだ。
「お邪魔します」
声をかけて小屋の中に入る。少し薄暗い小屋の中はなにやらきな臭い匂いが立ち込めていた。果たして、そこには人がいた。壁に向かってうずくまり、なにやらギシギシと音を立てていた。
「こんにちは」
トーマスはその背中に声をかけた。返事はない。さらに
「こんにちは、聞こえますか?」
と声をかけた。しばらくたっても反応がないのでもう一度声をかけようとしたら
「聞こえてるよ」
と返事が返ってきた。
「火薬を詰める作業は集中しねえとケガじゃ済まねえからな。何の用だ坊主」
振り返った男はそう聞いてきた。どこかで見たことあるなとトーマスは思った。
「……ああ!あなた干し肉をくれた人だ。たしかカールさんですよね」
はじめて山に入る時にお腹が減ったからと畑仕事をしていた男の側に近づいて弁当の干し肉を恵んでもらったことがあった。
「……ああ、思い出した。いったい今日はなんの用だ。あの時の肉を返しに来てくれたのか」
カールは聞いてきた。
「いえ、肉は持ってないです」
「だったら、なんの用だ。今日は弁当はやらねえぞ」
「ここでなにをやってるんですか?火薬を詰めてるって言ってたけど」
トーマスは小屋に入ってきた理由を話した。
「ここは火薬庫だ。今は花火の玉皮に玉を詰めてたところだ」
「花火ってここで作ってるんですか?」
トーマスは収穫祭でみた花火を思い出していた。
「全部作ってるわけじゃねえ。ほとんどは本職が作ったものをここで保管してるだけだ。わしはもっぱら採掘につかう爆弾や鉄砲の火薬を作ってる。花火作りは趣味みたいなもんだ」
「どうしてこんな町外れでやってるんですか」
「町ン中でこんな危ねえもん置いとけるわけねえだろう。ここだったらもしものことがあっても被害に遭うのはわし一人だけだからな」
「もしもって……。カールさんはそれでいいの?」
「いいも悪いもわしはこれで暮らしているからな。ここで生きていくには爆弾作らなきゃいけねえよ」
そこに入口から別の声が聞こえた。
「じいさん、せいが出るね」
町長のカイル・ハッチンソンが外套にかかった雪を払いながらカールじいさんの小屋の中に入ってきた。
「おやおや、町長さまじゃねえかい。いったいこんな町の外れに何の用だい」
「ご挨拶だな、冬になる前に頼んでいた仕事の進捗を見にきたんだよ。ちゃんとやってるかい?」
「仕事?なんだいそりゃ?」
「おいおい、春になるまでに銃に使う火薬や採掘の爆弾を今までの倍、準備してほしいと言っただろう。大丈夫かい?」
「なんでそんなに必要かね?戦になるわけじゃあるまいし」
カールじいさんは立ち上がり、花火の作業に戻った。
「そんなことは、お前さんが考えることじゃないよ。お前さんは頼まれたことだけをやってくれればいいんだ。花火なんか来年の収穫祭までに買いつければいいんだ」
カイルはカールじいさんの背に向かって言った。
「ここでいつなにを作るかはわしが考えて決める。頼まれたことは期限までにちゃんとやっておく。それでいいだろう」
カールじいさんは背中を向けたまま答えた。カイルは
「お前さん一人で本当に期限までにあげられるのかい?」
と言った。
「僕が手伝います」
突然、足下から声が聞こえてカイルは驚いた。ふと声のした方を見ると子どもが一人しゃがんでこちらを見ていた。たしかトンプソン医師の一人息子だったか。
「坊ちゃんいらしてたんですか。ビックリしたな。今、なんて仰ったんですか?カールじいさんの手伝いをするって聞こえましたが」
「そう言いました」
トーマスは立ち上がって返事をする。
「……そいつはできない相談ですね」
カイルの言葉にトーマスは食い下がる。
「どうしてですか。学校も今は冬休みに入っているから手伝いに通えます。そうすればカールさんの仕事も少しははかどるでしょう」
「カールじいさんの仕事がなんなのかご存じなんですか?爆弾や銃の弾、火薬なんかを作るんですよ。そんな危ない仕事にドクターのお子さんを手伝わせるわけにはいきませんや」
「花火を作るのだって大事な仕事です」
「……そうですな。その花火作りだって危険な仕事です。町長として町の子どもにそんな仕事はさせられません」
カイルは念を押して言った。
「……その子に手伝ってもらう気はねえよ」
二人のやりとりを聞いていたカールじいさんは声をかけた。
「とにかく春になるまでに頼まれた仕事はきちんとやってやる。だから今日は帰ってくれ」
そう言って扉を指さした。
カイルはため息をついて
「わかったよ。今日は帰るからしっかり頼むよ」
と言いながら玄関に向かった。そして、ふと振り返って
「……ところで坊ちゃん。坊ちゃんはなんで私のことをそんなに睨みつけるんですか」
と聞いてきた。
「聞いてないんですか?」
トーマスは驚いて問い返した。
「……いえ、坊ちゃんに関することはとくに」
トーマスの反応にカイルは戸惑った。
「……だったらいいです。不愉快な思いをさせてごめんなさい」
トーマスはペコリと頭を下げた。ネイサンも保安官もあの収穫祭の初日の出来事を町長に伝えてなかったのか。だったら僕から伝えることもない。もう忘れたい出来事だし。
カイルはトーマスからそれ以上、情報は得られないと悟るとそのまま小屋から出ていった。
その玄関を見ながらトーマスは大きなため息をついた。
「お前さんももう帰った方がいいぞ。町の子ならここまで来るのも一苦労だったろう」
トーマスはカールじいさんの言葉に振り返った。
「好きで来てるから苦労じゃないです。それよりも手伝わなくて本当に大丈夫なんですか」
「素人が手伝ってくれてもたいした働きにゃなんねえよ」
そうまで言われたら引き下がるしかない。だけど、それは今日の話だ。
トーマスも小屋から出て
(明日もまた来よう。なにかきっとやれることがあると思うから)
そう思った。
「うわあ、寒いはずだよ。真っ白だ」
マシュリは家から出て一番に白い息を吐きながらそう言った。
冬の間は集落のほとんどの家は冬ごもりに入ってる。蓄えをほそぼそと使いながらこの冬を越すのだ。当然外は
マシュリはあの祭の日の出来事をあれから何度も思い返す。絶対バレてはならぬという緊張感。あの屈強な男を魔法を使ったとはいえ倒した時の昂揚感はどうしても忘れられない。クヌガを助けるという男としての義務感ではなく、戦って相手を倒す戦士としての残虐性が自分の中にあったという驚き。今までの自分の中にはなかった感覚がふつふつと湧いて出てきているそんな感じ。
うまくは説明できないから誰にも言ってはいない。
ガサッ。静寂の中で突然音がした。屋根の雪が重みで落ちたのか?そう思っているとさらに音が聞こえた。
ガサガサガサッ。これはもう何かいると思って間違いない。
「誰?誰かいるの」
声をかけてみる。返事はない。気のせいだとは思えない。いつでも攻撃できる態勢で雪の上を踏みしめて一歩いっぽ歩く。
「クシュンッ」
……くしゃみ?女の子の声のようだ。マシュリは臨戦態勢を解く。
「誰?クヌガ……じゃないよね」
マシュリの問いかけに出てきたのは果たしてアラルトだった。
「……アラルト?」
予想の外の出来事にマシュリは驚いた。アラルトといつも一緒にいるペイやルルンはいない。彼女は一人雪降る中をジッと隠れていたようだ。
「いったいどうしたの?……とにかくおいで」
マシュリはアラルトの手を引いて家の軒下まで連れてきた。アラルトの髪についた雪を払い落としながら
「ずっとあそこにいたの?」
と聞いた。アラルトは答えない。麻の服の上に毛皮を着ているがさすがに体が冷えきっている。マシュリはそっと彼女の肩から両手を伸ばして抱きしめた。アラルトの体がビクリとなる。
「ちょっと動かないで」
マシュリは魔法で自分の体温を上げて、さらに周囲の空間を乾燥させはじめた。足元に落ちた雪の塊が急速に溶けて蒸発していく。それに従って彼女の体も徐々に熱を取り戻していく。
「こんな感じかな」
マシュリは魔法を解いて体を離した。アラルトの体が暖まった反動で、マシュリの体から熱が逃げて急激に寒けが襲う。
「あんなところにずっといたら風邪をひいちゃうよ」
少し体を震わせながらマシュリが言う。その時、アラルトが
「……クヌガじゃなくてごめんね」
と言った。なにを謝っているのかわからない。でも、申し訳なさそうにしているわけではない。むしろ怒っているような口調だ。
「どういうこと?」
マシュリは尋ねる。
「どうして……クヌガのことが好きなの」
アラルトの問いかけに戸惑う。
「どうして……って言われても」
「あの……さ。マシュリがさ。あいつのことを好きでもいいんだよ。それはしょうがないからね」
(あいつってクヌガのことだよな)
「でもさ、あいつ以外にも目を向けた方がいいと思うんだよね」
垂れてもいない右耳の髪の毛を軽くかき上げる仕草をした。
ピンと来た。でも、正直どう反応していいかわからない。なにしろ間違っている気もするし。
「あたしもね、あんたのことをずっとずっとずーっと前から見ていたから。だから……」
アラルトは目をつむって深呼吸を一つして
「あたしのことも見てほしい。ううん、お嫁さんにしてほしい!」
そう一息で言い切った。
「なにも一番じゃなくてもいいんだ。二番目だって、ううん三番目だって全然構わないよ。それだったらいいだろう」
アラルトは顔を真っ赤にしてそう続けた。
今の集落では一夫一妻が基本になってる。昔は男の数が狩りや戦いの犠牲になったせいで圧倒的に少なかったから一夫多妻が当たり前だった。しかし、山に逃げ込んでからは男の数が減少することが少なくなったので自然と一夫一妻に落ち着いている。なによりも妻が複数いると互いへの嫉妬などの面倒な問題になったりする。酷くなると他の妻の子どもを殺すなどということだって起こった。だから今は一夫多妻なのは族長のカナンのほか数人の男くらいしかいない。
アラルトはプライドが高い女の子だ。自分がお山の大将でなければ気が済まない。だから自分になびかないクヌガをいじめてなんとか軍門に下らせようと躍起にもなってる。そんな彼女がクヌガよりも下の地位の妾でもいいと言うのはかなり勇気がいったことだろう。
マシュリはアラルトのことが可愛いなと思った。好きな人に向かって好きだと伝えることへの恐怖はとてもよくわかる。だからその勇気を振り絞ってくれたことには感謝しかない。でも、
「ごめん。お嫁さんにはしてあげられない」
そう言うしかなかった。マシュリはアラルトの告白の間に考えていた言葉を告げた。
「結婚するかどうかは置いといて今はクヌガしか見えない。それなのに他の子と結婚の約束をかわすことはよくないことだと思うんだ」
「あたしがそれでいいって言ってるんだよ」
マシュリはコクンと頷いた。
「わかってる。だけどそれに甘えることはやっぱりできない。だって万が一クヌガが結婚してくれるって言ったら僕はアラルトを捨てなくちゃならなくなっちゃう。とても僕に奥さんを二人も養う甲斐性が持てるとは思えないもの」
「家族になったらさ、みんなで頑張ればいいんだよ。クヌガなら、きっと狩りも得意になるよ。あたしだって作物を育てるのは上手にできるよ。みんなで一緒に仲良くやっていけるよ」
アラルトが反論する。クヌガと仲良くするなんて言い切るのは、よくよく考えてのことだろう。健気だなと他人事のように思った。
「ありがとう。もう少し考えさせてほしい。こんなところにいつまでもいたら本当に風邪をひいちゃうよ。送ってくよ」
マシュリはアラルトの手を引いて歩き出した。
サラメはしびれを切らしていた。
「クヌガ!いつになったらあんたは水浴びをするの。いいかげん臭うでしょう!」
寝ころがっていたクヌガは上半身を起こして
「ええっ、どうしてこんな寒い時期に言うかな。川で水浴びなんかしたら凍え死んじゃうよ」
そう訴えた。
「あんたがあったかい季節にサボったのがいけないんだろう。桶に水を汲んでお湯にすればいいでしょう」
「川まで水を汲むの?」
「川まで行かなくても雪が積もってるだろ。それを溶かしてからお湯にしなさい」
「お湯にするのも大変なのに雪解け水まで作らないといけないの。イヤだよ」
「熱く焼けた石を屋根に放り投げるだけで雪が落ちてくるから取り放題だぞ」
ヌナバが横から茶々をいれる。クヌガはジロッと睨んで
「余計なこと言わないの!」
と言いながら桶を持って外に出る。
その後ろ姿を見ながらヌナバはクヌガがここのところ明るくなったなと思った。少し前まで外では一人で家の仕事をするか遊ぶかだったし、家の中でもケンカ腰の会話にしかならなかった。今でも言い争いになるが悪い意味ではなくずいぶんカラッと後腐れないケンカになってる気がする。
(マシュリを信頼して正解だったか)
西の土地の祭りの日、二人は夜もとっぷりとくれた頃に戻ってきた。マシュリの両親もヌナバたちも花火そっちのけで山の中を探し回っていた。戻ってきた二人は
「原っぱの林の木の上で二人で花火を見ていた」
と言った。もちろん原っぱも探したし、林や立入禁止にしている森の中も探したが二人はいなかった。そのことを言うと
「たぶん二人して眠ってしまった時にきたんじゃないかな」
そうマシュリは答えて、クヌガはうんうんと頷いていた。
とにかく無事だったのだから良しとしよう。マシュリの両親とナボルとサラメの間ではそう話がまとまった。
あの日からクヌガが明るくなったと感じていた。なにがあったのかよくはわからないが悪いことではないだろう。そうヌナバは納得していた。
「この桶に雪を入れてお湯にしてもすぐに使い切っちゃうよね」
クヌガは桶を眺めながらそう呟いた。お湯を浴びてまた雪をお湯にするまでに時間と労力がかかる。その時には体が凍えてしまう。これは無意味だ。
「やめよう」
クヌガは結論を出した。なにも水浴びをしなくても死ぬわけじゃない。それどころかこの寒空で浴びたら凍え死んでしまうかもしれない。むしろ、これは親孝行だ。そう言い訳を考えた。
その時、遠くから声が聞こえた気がした。いつもの“風の声”ではないようだ。ただ、雪に声が吸収されてしまっているので近くても小さな声で聞こえてしまってる。意外と近そうだ。
クヌガは周囲を見まわすとマシュリの家の軒下に誰かいるのが見えた。一人はマシュリみたいだ。もう一人は、
「……アラルト?」
意外な人物にビックリした。クヌガは桶をそこに残し近づいてみることにした。
二人に気づかれないように小屋を迂回するように近づいていった。やっと声がはっきりと聞こえる位置までたどり着いた。
「お嫁さんにしてほしい!」
いきなりの言葉に二度目の驚きを見せた。危うく音をたててしまうところだった。幸いにして気づかれてはいないようだ。
「……二番目だって、ううん三番目だって全然構わないよ」
そんな声まで聞こえた。明らかにアラルトの声だ。どう聞いても妻か妾にしてほしいと懇願している風にしか聞こえない。
(あの、アラルトが?信じられない。相手はマシュリなんだよね。あたしたちの仲をからかってたのに、なんで?)
疑問は消えない。まさか……。
クヌガのいる場所では二人の声ははっきりとは聞こえなかった。だから、少し小声になるともう聞こえはしなかった。だから、二人の言動をきちんと理解することができなかった。
(二人してあたしをからかったんだ)
顔から火が出るほど恥ずかしかった。
(マシュリがあたしのことを好きだっていうのも嘘だったんだ。家の前の木の上でマシュリの心をうっかり覗いた時に本当にあたしのことを好きなんだとわかったのに。そうか!マシュリほどの魔法使いだものきっとあたしを騙すことくらいたやすいはず。ひどい)
クヌガは思わず立ち上がってしまった。
「……クヌガ」
アラルトの家に送り届けようと手を引いた時、音が聞こえた。振り返るとそこにクヌガが立ちすくんでいた。
クヌガの表情からは何も読み取ることができなかった。怒っているのか泣き出しそうなのか、無表情という感じもする。
アラルトが手を離した。
「クヌガ、違うの」
アラルトはそう声をかけた。クヌガがマシュリとアラルトの仲を疑っている。そのことをアラルトは気がついていた。
「違うって何のこと?ごめんね、今まで気がつかなくて。ほら、あたしってこういうことに疎いから」
クヌガは強がった。そうしないと気持ちごと倒れそうになることを食い止められないと思ったからだ。
「マシュリは関係ないの。あたしが一方的に好きになっただけだから、マシュリが好きなのはあんただけだよ。今、あたしはそう聞いたんだから。あんた以外お嫁さんにする気はないんだから」
アラルトの必死の訴えにやっとマシュリも事の重大さを理解できた。二人で仲良くクヌガを騙してからかっていたと勘違いしている。
そして、今までアラルトがクヌガをいじめていた理由もわかった気がする。クヌガの前では強がらないと自我が保てないと思ったからだ。
「まだあたしのことをからかうつもりなの。お生憎さま、もう騙されないよ。ごめんね。この間はマシュリを連れ出しちゃって。二人で花火を見たかったでしょうに」
アラルトはクヌガの言葉に腹を立てた。せっかく下手に出てまで二人の仲を取り持とうとしてるのに水をさすようなことばかり言って。
「ふざけんな!なんであんたなんかをからかわなくちゃいけないの。あたしの方がずっとずっとずっと前からマシュリのことが好きだったんだから。あんたなんかに負けないくらい好きなんだから!」
「あたしはマシュリなんか好きじゃない。前ほど嫌いじゃなくなったけど別に好きになったわけじゃない。だから安心して二人で付き合えばいいよ。あたしは関係ないから」
二人の女の子の言い争いにマシュリは戸惑うだけだった。
「とにかく二人ともケンカしないで穏やかに話し合おうよ」
だが、そんな言葉も二人には聞こえなかった。
「それができたら一番良い。でも、マシュリが好きなのはあんたなんだ!なんでかわかんないけど、あんたみたいなのがいいんだ。あたしじゃダメなんだ」
アラルトは涙声で叫び出した。その声が聞こえたのか周囲の家からちらちらと人の姿が見えてきた。
「なに言ってんの。さっき『お嫁さんにして』って言ってたじゃない。結婚の約束までしてるのにどうしてそんなことが言えるの」
クヌガの見当違いの解釈にアラルトはなおいっそう声を荒らげた。
「人の話を聞けよ!あたしは……あたしは『お嫁さんにはしてあげられない』って言われたんだ。『二番目でもいい』って言ったのに……。あんた、なんでも持っていってズルい!」
アラルトは足元の雪をすくい取ってクヌガに向かって投げつけた。だが雪の玉にもなっていないそれはクヌガのところまでは届かなかった。
(ズルい?あたしがなにを持ってるっていうのよ。あんた知らないの?あんたがあたしのファーにどれだけ気に入られてるか。あんたたちにからかわれてるあたしが一体なにを持ってるのよ)
クヌガの思い込みはどんどん強くなる一方だ。実際、二人はクヌガをからかってなどいないし、父親であるナボルはアラルトを気に入っているなどと一度も言ったことがない。
「おい、なにをやってるんだ」
クヌガの家からヌナバの声が聞こえた。さすがに妹が争いの当事者になっているのだから見過ごすわけにはいかなかったのだろう。家から出て雪の中をこちらに向かって歩き出した。そして、その後をナボルもついてきた。
クヌガはヌナバの方をちらりと見た時、アラルトが言った。
「あんたなんか大ッ嫌い。あんたもあんたの家族も。みんな死んじゃえばいいんだ」
キレた!あたしのことならまだしも家族に対して『死ね』というなんて許せない。
クヌガの反応は素早かった。右腕を刃化して一直線にアラルトに向かって飛び掛かった。足元の悪さなど関係がなかった。
右腕を左から右にかけてすばやく袈裟斬りで手刀打ちする。ヌナバもナボルもその異変に気がついたが雪に足を取られ間に合いそうになかった。
しかし、マシュリだけは違った。
アラルトをかばうように正面から抱き抱え背中をクヌガに向けた。クヌガの刃はマシュリの背中をかすめるように切りつけた。
マシュリが視界に映ったために殺意が一瞬鈍った。それで腰が引けたのとマシュリがアラルトを押したせいで間合いがずれたのが幸いした。だが、クヌガの右腕にはマシュリの肉が裂ける感覚が残った。
ヌナバとナボルがクヌガの元にたどり着いた時にはマシュリはアラルトと共に雪の上に倒れ込んでいた。ナボルはクヌガの頬を叩き雪の上に倒した。そして、マシュリを抱きかかえて家に取って返した。ヌナバはアラルトを起こして同じく家に連れていった。
雪の上に倒れ込んだクヌガはマシュリの血がついた右腕を見ながら思った。
(やっぱりあんたの方が全部持っていってズルいじゃない)
クヌガがマシュリの両親に連れられて家に戻って来た時、ナボルはマシュリの傷を懸命に治癒していた。アラルトはその側でただ泣きじゃくっていた。サラメとヌナバはやってきたマシュリの両親に向かって謝ってた。クヌガはそれらの光景をぼんやりと眺めるしかなかった。
やがて、マシュリの治療が終わった。服は裂けたままだが、中の皮も肉もほぼ塞がった。少し赤い筋になっているがこれも数日のうちに消えるだろう。
大粒の汗をかきながらナボルはクヌガに向かって言った。
「マシュリに謝りなさい、クヌガ」
クヌガは黙っていた。どうせなにを言ってもわかってもらえない。
「私が見ていた限りではお前が襲ったのはアラルトだった。マシュリは彼女を庇おうとしてケガをした。もし、彼がアラルトを助けようとしなかったらお前は彼女を殺していたかもしれない。どんな理由があるにせよ、それは許されないことだ。お前はマシュリに詫びて感謝しなくてはいけない」
ナボルは続けるがクヌガはなおいっそう頑なになっていた。
(あたし一人が悪者だ)
そう思うとバカバカしくなる。きっとアラルトが言ったひどいことをここで言っても状況は変わらないだろう。二人があたしにしたことを告げてもキレて殺しかけた事実は消せない。
(黙っていたほうがマシだ)
大人たちはなんとか事情を知りたいと思うが、当事者であるクヌガはだんまりを決め込んでいるし、アラルトは泣いたままで要領を得ない。マシュリは治療が終わった疲れで昏睡している。起きられるようになるにはもう少しかかりそうだ。
その時、マシュリの母親がクヌガのそばにきてしゃがみ込んだ。
「ねえ、クヌガ。いつもマシュリが迷惑をかけ続けていてごめんね。あの子はあんたのことが好きだったからついあんたの気持ちを考えずにいたところがあったよね。それでも最近はあんたもあの子と仲良くしてくれていたから、あたしたちもホッとしてたんだよ。あの子もそれが嬉しかったのか毎日にやにやと笑っていたからね。だけど、またうちの子がなにかやらかしたんなら、もうあの子をあんたに近づけないようにするよ。それで許しちゃもらえないかね」
マシュリの母の言葉にクヌガは顔をあげた。
「セネガ、マシュリを悪くいうのはよくない。少なくとも今回のことに関してはクヌガの方が間違っているんだ」
ナボルがそう言うとマシュリの母親のセネガは
「でもね、ナボル。クヌガだって考えなしに切りつけたわけじゃないでしょう。一方的に悪くいうのはよくないわ」
と言ってクヌガを庇った。
結局、埒があかないままマシュリの両親は目が覚めないマシュリを運んで家に戻った。アラルトはヌナバが送り届けた。
「アラルトの親がなにか言ってくるな。正直、気が重い」
ナボルはアラルトの母親のキンキン声を想像すると気が滅入ってついサラメに愚痴を言った。
「だからヌナバに送らせたんですか。かわいそうに」
サラメは矢面に立たされた息子に同情した。
「いや、そういうわけではないが……」
痛いところをつかれたので語尾が鈍くなる。
ヌナバの帰りが遅い。かれこれ一時間はかかっている。行って帰って来るだけなら十分とかからないはずだ。これはよほど文句を言われているのか。そうだとしたら自分もいかなくてはいけないかとナボルが考えていたところにヌナバが帰ってきた。
「ファー、ちょっと話がややこしくなってきたんですが」
ヌナバは戻ってきて開口一番そう言った。
ヌナバの言うにはアラルトの家について、さっそく泣いていたアラルトをみた親が、なんだなんだどうした、お前うちの子になにをした。と騒ぎだした。
ヌナバもわかっている限りで事情を説明すると今度は、お前じゃ話にならん、親を連れてこい、クヌガに謝らせろ。と言い出してきた。
「それで『わかりました、ファーを連れてきます』と言ったんです」
「それで呼びに来たのか。それにしてはずいぶんかかったじゃないか」
ヌナバの説明にナボルは疑問を呈した。
「それで家に戻ろうとしたらマシュリの弟がやってきたんです。その子が『
そこにサラメが口をはさんだ。
「誰が連れて行ったの?」
「……僕が」
ヌナバが言った。それではアラルトの親もさらに怒ったはずだ。
「……それでどうした」
ナボルが頭を抱えて聞いた。
「アラルトを抱えてマシュリの家に行きました。マシュリは横になっていて『アラルトと二人きりにしてほしい』と言いました。それで僕とマシュリの家族は外に出てきたんです」
きっとアラルトの親はマシュリの家には行かなかったはずだ。さきほどの騒動も知っているはずなのに、自分たちからナボルの家に乗り込んではこなかった。文句は言うがそのために自分たちが労力をかけるのはイヤなのだ。
「それでしばらく待っているとアラルトが呼びに出てきたので中に入りました。そうしたらマシュリが『アラルトがクヌガに謝りたいと言ってます。僕も謝りたいのでクヌガを連れてきてもらえますか』と言ってきました」
アラルトとマシュリが謝る?いったいどうしたらそんな話になるのか。たしかによくわからない。
「それでファーではなくて、クヌガをマシュリとアラルトのところに連れて行こうということになって呼びに来たんです」
クヌガは奥の部屋に入れてある。あれからひと言も話していない。サラメがクヌガに事情を伝えると
「行きたくない」
と言った。なかば予期していた答えだったのでヌナバが強引にクヌガを小脇に抱えて連れ出した。ナボルもサラメもついてきた。
マシュリの家に行くとさっそくアラルトとマシュリが謝ってきた。クヌガは何も言わず俯いたままだった。
「なあ、いったいなにがあったのか教えてくれないか」
クヌガが来るまではなにも言わなかったらしく、マシュリの家族も聞きたがった。マシュリは
「君の口から言わないと」
とアラルトに促した。アラルトは
「あたしがクヌガに『あんたもあんたの家族も、みんな死んじゃえ』って言ったの」
と言った。
「クヌガは僕とアラルトの仲を疑ったんです。こんな雪の中で二人きりで会っていたんだからそう勘違いされても仕方ないんです。それで僕が今までアラルトと一緒になってからかってきたんだと思い込んでしまったみたいで」
そうマシュリが言うとクヌガだけでなくアラルトも黙り込んだ。二人にしてみたらこれは誰にも聞かれたくなかったところだろう。
だいたい事情は飲み込めた。
外で二人きりで会っていたマシュリとアラルトの話を立ち聞きしたクヌガが二人の仲を勘違いした。これは今までマシュリがやってきたクヌガへの好意はアラルトにからかう材料を与えるためにやってきたことだったのではと邪推した。それでお互い言い合いになったなかでついアラルトが心ないことを言ってしまったためにクヌガがキレて攻撃してきた。
アラルトが謝り、マシュリもクヌガに謝った。ナボルもクヌガになにか言うように促した。
とりあえず、こちらが誤解させるようなことをしたのが悪いようだとマシュリの両親は言ってくれた。アラルトの親にもそれとなく伝えようということで手打ちとなった。
その間、クヌガはひと言も話さないままだった。
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