第7話 救出
クヌガは駆けた。今まで何度も西の土地の人間に会ったことはある。だが、それは父親治癒師ナボルの患者としてであってこんなふうに山の中で出会ったことなどなかった。ましてや話しかけられ、あまつさえ手を取られるなど。
それだけではない。もしあの子から感じ取ったイメージが夢でないのだとしたら、あの原っぱ一帯に花を咲かせたのは誰なのか?そして、また地面に返したのは?あたしじゃない。あたしであるはずがない!
そんなことが一瞬のうちに起こったから、その場から逃げ出す以外の選択肢を思いつかなかった。その場にいて彼らと話しをするなどと考えつかなかった。それを夢みていたはずなのに。
……どれくらい走っただろう。そして、どこを走ったのだろう。クヌガは山で十年間生きてきて今まで来たことのない場所に足を踏み入れたことに気がついた。
「ねえトーマス、やめましょうよ。これ以上奥に行ったら本当に迷子になっちゃうわ」
もしかしたらもう迷子になっているかもしれないとはさすがにドロシーも言いたくなかった。トーマスは魔法使いの女の子が忘れていった籠を彼女の家まで届けようと言い出したのだ。
「ドロシーはもうここまででいいよ。なんとか自分だけで探してみるから」
トーマスが笑顔でそういった時、見限られたとドロシーは思った。さすがに自分が道を知らないと気がついたらしい。恥ずかしいがその通りだ。
トーマスは籠を拾ってクヌガが駆け出した方に向かって歩き出した。
どうしよう。本当にこのまま帰ろうか。トーマスの背中が小さくなっていくのを見ながらドロシーは思った。振り返って今来た道を見て、つばを飲み込んだ。
そして、立ち上がり小走りにトーマスの後に着いていった。
「ここどこ?」
その森は見たことがなかった。見覚えのない木々、岩も沢もなにもかも知らない。
(もしかしたら集落の大人たちが危ないから近づいてはいけないと言っていた森かな?ヌナバが熊に出くわしたあの森)
だとしたら、クヌガの土地勘ならこの森が山のどの辺りにあってどこに行けば集落に帰れるか見当がつく。だがその為にはまず森を抜けなくてはいけない。
ナボルならこんな時、風のつぶやきや鳥の声を聞いて道を知ることができるだろう。
『耳で聞こうとしても風は何も教えてはくれない。風の声はとても小さなものだからとても聞き取れない』
まだクヌガが小さかった頃、ナボルはそう教えてくれたことがあった。耳で聞くものではなく、肌で感じ取るものだと言われたが、クヌガには理解できなかった。
歩き出した時、遠くの方から声が聞こえた。聞いたことのない言葉だ。あの男の子だ。着いてきたのか?たしかに彼はクヌガに興味を示した。でも、それは魔法使いに対してであってクヌガ自身ではない。あの咲き誇る花々をみて、あたしがやったことだと勘違いしているだけだ。なによりあの少年には会いたくない、恥ずかしい。
(……恥ずかしい?なんで?)
そう思った時、自分の足元の地面が無くなった。
迂闊だった。大人たちが危ないと言っていたのは熊が出るからだけではなく、崖から落ちるからでもあったのだ。ヌナバに仕留められた熊が落ちたように。
幸いにも一瞬で悟ったクヌガはとっさに左手を刃化して崖に突き刺した。あとは右手や爪先を刃化して一つずつ崖に刺したり抜いたりしながら少しずつ上っていけばいい。大丈夫、落ち着いてやれば難しいことじゃない。そう言い聞かせて右手を伸ばして崖に突き刺した。
次いで右足を上げて突き刺す。さらに左足も同じように固定させる。
左手を抜いて少し上に伸ばして刺す。息をつく。マシュリだったら『アーテュ』の魔法を素早く連続してかけることができる。そうやってこの崖に手足を同化させて登ることができるだろう。よくそんなことができるなとクヌガは思った。そこだけは感心する。
(どうして、こんな時に)
クヌガは憮然となってまた右手を上げて固定した。あとひと伸ばしだ。
その時、がらがらと何かが崩れる音がした。自分の体が軽くなる。
(しまった!崖の土自体が脆かったんだ)
クヌガが土ごと落ちていく。
「リ・シュア!」
とっさに大声で魔法を解除したが自分が落ちることに変わりはない。
(もうダメだ!)
クヌガは覚悟を決めた。
魔法使いの女の子が森の中にいるんじゃないか。トーマスがそう思い、声をかけながら入ったのは十分ほど前だった。そうすると遠くの方で悲鳴が聞こえた。
「あっちか!」
方角はわかってもどこにいるかはわからない。森の木が邪魔すぎる。
また声をかけようかとトーマスが思った時、パラパラという音が聞こえた。
耳を澄ませた。そのうち、パラパラがガラガラという大きな音に変わった。トーマスはその方角に走った。目の前の地面が途切れていた。
(崖?ここから落ちたのか?)
女の子の大きな声が崖から聞こえてきた。まだ生きてる。
走って向かうとまさに岩土と共に彼女が落ちていくのが見えた。目が合う。トーマスはとっさに左腕を伸ばし、崖に向かって飛び込んだ。
「無茶しないで、トーマス!落っこちたらどうするの!」
トーマスの服の裾を持ってドロシーは懸命に支えていた。よく追いついたものだと自分でも感心する。しかし、この手を離したり足を滑らせたりしたら、たちまち二人は崖下にまっさかさまだ。
「ドロシー!そのまま引っ張りあげられるかい」
トーマスは崖に半身を捧げ、クヌガの左腕を持った状態で聞いてきた。
「無茶言わないで!あたしごと落っこちないのが不思議なくらいよ!」
半分泣きながらドロシーは反論した。ドロシーの言うことはもっともだ。どうする?その時、頭の中から奇妙な声が聞こえた。
(あたしの合図と一緒に引き上げて)
……クヌガを見ると彼女もこちらを見ている。
(この子が喋ったの?)
そうトーマスが考えていたら
(そうだよ)
と反応があった。
(いまからあたしの体を羽のように軽くする。それに合わせて引っ張って)
彼女はそう続けた。
(羽のように……?)
「ドロシー!」
彼は叫んだ。
「僕の合図に合わせて引っ張ってくれ!」
「……?なにを言ってるのトーマス。それは無理だって言ってるじゃない」
「いいから!僕を信じて頑張って」
ドロシーは少し考えて、右足の位置を後ろにずらした。
「どうなっても知らないからね」
彼はドロシーをチラリと見た。そして
(いいよ)
と手を掴んでいる彼女に向かって念じた。彼女は
「フー・ラーム」
と呟いた。すると彼の掴んでいる腕がまるで実態を持たないくらいに軽く感じた。
(上げてっ!)
「上げてっ!」
彼の声と共にドロシーは足を踏ん張って引っ張った。
「てえぇいっ!」
トーマスの体がドロシーの掛け声と共にグッと後ろに引きずりあげられた。そして、トーマスの目の前をクヌガのシルエットがふわりと昇っていく。夕日を背にして。
ドロシーが地面に尻餅を突き背中から倒れる。その上をトーマスの体が乗っかる。
「いったあい」
上と下から痛みが襲い、思わずドロシーは叫んだ。そしてトーマスの頭越しに魔法使いが飛んでいるのが見えた。
クヌガはふわりとトーマスたちを飛び越えて着地した。
「リ・フー」
クヌガの体に重さが戻る。彼が持っている彼女の左手に重さがよみがえる。全身の細胞に力がみなぎり、内蔵が重力に従ってゆっくりと下がっていく。それに従って魔法がかかっていた間に感じていた吐き気も治まってきた。ふわりと上がっていた黒髪もストンと垂れ下がる。
(ありがとう)
彼女はそう念じて手を離そうとしたが、
「待って」
彼が呼び止めた。そして手を離して駆け出した。すぐに放り投げた籠を持って戻ってきた。
「忘れ物だよ」
トーマスはクヌガの手に籠を持たせた。クヌガは顔を赤らめてうつむいた。トーマスはニコニコと笑ってクヌガを見ている。
「……助けたの、あたしだよ」
きれいだった金髪やスカートが泥だらけになったドロシーは呆れたように、そう呟いた。
下山した後の二人は散々だった。さすがに山に行ったことは親には黙っておこうと同意したがドロシーは終始ふくれっ面だった。こんなに汚れた格好を親に見せたらなにを勘繰られるかわかったものじゃない。
実際、家に帰ったドロシーはこんな遅くまでなにをやっていたのかと両親から問い詰められたが黙っていた。その努力は報われ、両親は最後には諦めた。水浴びをして頭と体を洗って来るように言われた。そして夕食抜きも命じられた。
「こんなことなら親切心なんか起こすんじゃなかった」
後悔を口にしてドロシーは眠りに就いた。
トーマスの方はもっとシンプルだった。なにも聞かれずに尻のムチ打ちを終えた後、部屋で三日間の謹慎を命じられた。もちろん今晩のご飯も食べられない。しかし、トーマスはベッドでうつ伏せになって今日の冒険を反芻していた。
「魔法使いなんて……まるで夢を見てるみたいだ」
後悔などしていない。むしろ明日もなんとかここを抜け出して山に行きたいと思った。なにしろ三日間は学校に行かなくていいのだから。
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