第17話 遠い昔のこと
「ひかるっ!」
これで何度目だろう、彼の名を呼ぶのは。
「ひかるっ!!」
これで何度目だろう、堅く閉ざされた扉を痺れた拳で叩くのは。
「ひかる……」
これで何度目だろう、必死に涙をこらえて心の底から彼を思うのは。
私の声はきっと彼には聞こえていない。
私の拳の音はきっと彼には響いていない。
私の心からの思いはきっと彼には届いていない。
神隠し……、例えるならそんな言葉なのだろう。
突然として現れた少女に彼は取り込まれてしまった。
「うっ……、なんで……?」
だめ……、もうどうやっても我慢できない。
「――なんで……私にはただ彼を思う時間もないって言うの?」
血生臭い獣の匂いが鼻につく。草を雑に踏み分ける音が耳に届く。荒い毛並が手に取るように分かる。
ゆっくり足に力を入れ、小さいころから慣れ親しんだ短刀を腰のホルスターから抜く。
柄のざらざらとした感触が手になじむ。
顔をあげ、目の前にある状況を受け入れる。
モンスターが醜くみっともなくぎらりと光る牙から涎を垂らし、濃灰色の毛を歓喜の色に染めて、鋭く朱い眼光が私を捕えて離さない。
「ごめんね……うまく刃を振るえることができないみたい。もしかしたら、ううん、きっと楽には死なせてあげなさそう……。本当、ごめんなさい」
我慢が効かなくなったみたいに、モンスターがその大きな足を踏み出す。
私もそれに応えるように、前に進む。
モンスターが吠え、身を振るい、私は刃を振るった。
私の刃がモンスターの皮を裂き、肉を斬り、骨を断ち、血しぶきが辺りにまき散らされる。鈍い叫びが耳の奥のそのまた奥まで届いてきて、不快なにおいが辺りを包み込む。
これは私の八つ当たり。
悲しみの底に沈む怒りのあらわれ。
こんな私を見て、ひかるはそれでもまだ私の傍にいてくれるだろうか。
生きるために、人を欺き、斬って、襲った、どうしようもなく底辺まで落ちぶれた私を救い出してくれたあの時と同じように、今のひかるはまた私を正面から見てくれるだろうか。気づけば、ばらばらになったモンスターの死体が私を取り囲むように散乱していた。
「ううっ……、私はっ……!」
どうしようもなくやるせない気持ちがあふれ出してくる。手に持っていた短刀をひかるがいるはずの家の扉に投げつける。だけど、虚しく空っぽな金属音を響かせ、扉にすら刺さらず、光の粒となって消える。
腰に力が入らなくて、地面にしゃがみ込む。手で目を塞いでも、口を唇で固く閉ざしても、嗚咽の声が口から漏れ出る。汚い声だ。こんな声、聞いてほしくないのに、どうやっても止めることができない。
低く、鬱で、じっとりの体の周りにまとわりつく気持ちの悪い空気が辺りを漂っている。
『――哀れで、憐れな姿だな、小娘』
そんな汚らしく、みっともない空気がすべてどこかに消え去ってしまったような気がした。森がざわめき、風が囁きはじめ、草が、木が、花が、空気が動いている。
獣の匂いはしない。どこまでも神聖で、人なんかより高貴な雰囲気が鼻をつく。
塞いでいた目を開き、眼に視界を映し出す。
「……っ!」
そこに映ったのは、さっきまで生きていたモンスターなんかより数倍も巨大な体を持ち、鋭く大きな琥珀色の牙を二本もち、どこまでも穢れのない白色と、どこまでも混じりけのない黒色とが綺麗に混じりあった体毛に、鮮やかな色の羽のようにも思える空気を纏う生き物だった。
ゆっくりとその生き物が息を吐き出し、あたりに散らばっていたモンスターの死骸が、私のかぶっていた獣臭い血液が、一瞬のうちに風になって去っていった。
さっきまでとは比べ物にならないほどの威圧感が身にひしひしと降り注ぐ。
『血生臭い気配がした故に現れたものの、逆だったかの』
口は開いていない。言葉を発しているけど、これは私の頭に響いている。
「あ、あなたは……?」
『そう怯えたような顔をするな……と言っても無理なことかの。ふむ――』
光の奔流が、目の前にいる生き物の体の周りを渦巻き、姿を変えていった。
「これで大丈夫じゃの」
幾重にも様々な色の布を巻きつけたような少し変わった服装に、きれいな銀色の髪に、翡翠色の瞳を持つ少女がそこに現れた。
「……っ!」
「そんなに驚くな」
「驚くなって……そんな……大体あなたはっ……?」
「それはそんなに気にすることではないのう。ただ儂はお主の味方であることは確かじゃよ。もっとも儂は人というものが大嫌い故にお主だけ……じゃがの」
「私……、なんで?」
「約束じゃよ、遠い昔のな。ま、それは今関係ないじゃろ。まったく、ひどい顔をしおって……」
「…………」
「ほれ……何か言ったらどうかの?」
「…………」
「見てられないのう、そんな顔。まるで思い人に振られたようじゃ」
「……あはは、お見通しだね」
私にはそう言って無理にでも笑って、言葉を返すしかなかった。自然と、前までのこの得体のしれない生き物に対しての恐怖も畏怖もなくなっていた。それはもしかしたら、彼女の、今誰として私を支えてくれる人のいない私の味方だと言った、彼女のおかげなのかもしれない。
「……空っぽじゃの」
「え……?」
「そんな笑みを振りまくな。こっちまで哀しい気持ちになるからのう」
「……心配してくれているの?」
「さあの。だが言ったじゃろ? 遠い昔の約束じゃよ、それの延長線上のようなものじゃ。それに、いつまでもお主たちがうじうじしているのは、この世界から見ても望ましい事じゃないからの」
「どういうこと……?」
「この世界が確実に傾きつつある、ということじゃ。分かったら、さっさと連れを連れて、自分たちのいるべき場所で、するべきことをするのじゃな」
「……できたら…………やってるよ。いや……できなくてもやり続けてた。でも……でも、分かるから。きっと、ひかるは帰ってこないって!」
「ほう、儂はそんな風には思えないがのう」
「勝手なこと言わないで! やったの。呼びかけることが、少しでも揺さぶりをかけることが、何が起きているのか分からなかったけど、それでも叫んで叩いて思って、少しでも届けばいいと思った! でも今のひかるは、きっと私の知っているひかるじゃない。記憶喪失って言ってたけど、違う。さっき、あの家の中から現れた、彼女の顔を見て、格好を見て、言葉を聞いて、分かった!」
「だが、それでも取り戻すための努力はしたのじゃろう?」
「だって! 記憶喪失だと言って、私のわがままを前のひかると同じように受け入れてくれて、私の言葉を、私を受け入れてくれて、私を愛してると言ってくれた! 確かに全く違う人かもしれない、けれど私はそれでもどちらのひかるも大事だから、だからっ!」
心の中から、彼を引き離して、捨てて、知らんぷりをして、ここを離れるほど、私は軽い女じゃない。それほど私がひかるから受けた恩は軽いものじゃない。
「それだけ思っていれば大丈夫じゃよ。お主は少なくとも、お主の求めている奴と同じ時を過ごしているのじゃろう?」
ゆっくりと今は人となった彼女が近づいてくる。
「大丈夫じゃよ、お主は……。成したいことを考え、ただ行動すればよい」
ふわっと、心の中に温かなものが広がった。心だけじゃない、体にもゆっくりと、私のいろいろな感情をゆっくりと鎮めていくように、広がっていった。
――すまぬな
そして、わずかな音と熱だけを残して、
「あ、れ……? いない……」
周りには、数十分前の景色と変わらず、本当に何も変わらない景色が広がっていた。
「なんだったんだろう。でも、なんだか……」
あの温かさを、あの熱の広がり方を、あの感触を私は知っている。心が、もう忘れてしまった遠い昔のことを必死に思い出そうとしているのが、とても懐かしがっているのがしっかりと分かる。
もう心が自然と落ち着いていた。
あれだけたくさんのことを誰かにぶつけただろうか。それとも、大丈夫と言われ、暖かさに包まれたからだろうか。それだけじゃないような気がする。
それでも、今私がすべきことはそれを考えることではない。
ゆっくりと、ひかるが、ひかるの閉じこもってしまった、閉じ込められてしまった場所への扉に静かに手をかける。
「ねえ、ひかる。私の声、聞こえてる? 戻ろう、私たちの世界へ……」
ゆっくりと、本当にゆっくり、少しずつ扉の向こうへ証のついた手を伸ばし、体を沈み込ませる。私の中の、閉ざされていた部分の中に大事にしまってあるものを少しずつすり減らしていきながら……。
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