第16話 この壊れた世界で
「おかしい……」
空白地帯に存在する人の丈の三倍ほどある防護壁の外の深い森―どこか底の見えない薄気味悪さを持つ―の中で周りを見つめて疑問を抱く。
「なにが?」
「いや、聞いていた場所よりずっと静かだなって思って。もしかしたら、本能に植え付けられた感覚のようなものかもしれないけど」
「ふーん、でもこんな感じじゃないの、領外って。そんないつもモンスターが襲ってくるってわけでもないでしょ」
「それは、そうなんだけど、……まあそれも領外に行けば分かることか」
あれから二日ぐらいかけて、この空白地帯と領外の境界線に僕たちは来ていた。巫女について調べるうちに、彼女の食べ物、主に野菜や果物は彼女自身が近くの村に赴いて仕入れているらしいことが分かった。道中、その村の長に巫女の事を聞き―おそらく一般人には極秘事項なのだろうけど、僕が大騎士であることを明かしたら簡単に話してくれた―彼女の住居のおおよその位置は把握することができた。この世界の地図は僕にとって不得手なので、そこはふゆかに任せて僕はモンスターとの遭遇に備える。そんな役割分担だ。
森の中に入ってから、一時間ほどが経った。太陽がほとんど見えないこの森では体感的にもっと長く感じたが、時を正確に刻み続ける機械がそう言っているのだ。
その一時間、驚くことにかなり森の深いところに来たにも拘わらず、一体のモンスターにも遭遇しなかった。
領外というのはこんなにも獣の匂いがしなくて、こんなにも獣が存在しなくて、こんなにも静かで平和的な場所だったのか。この世界の僕がこの前の任務を行ったことでこうなったのか、それとも何か他の理由があるのか、それは分からなかった。
だから、その問題が僕の中の疑問が解消されるよりも、暗い森の中にひっそりと佇む小屋が僕たちの目の中に入ってきた。崖のふもとを切り取ってその隙間に家を作ったような、そんな印象を感じた。
「ここ……か……」
こんな森の中に一人で、そう思うと少しぞっとした。巫女の精神力と、そしてそうすることを選んだ王都の人々に。
「今いてくれると有難いのだけれど……」
その小屋の周りには結界のようなものを張っていたのか、不思議な形をした形象文字と思われる文字が彫られていた。だが、その結界も今は効力をなさないのか、特に何事もなく家の扉に手をかけ、開けることができた。鍵もかかっていなく、木製の物にしては案外すんなりと扉は開いた。
「――ずっとひかるに会いたかった」
同時に聞き覚えのある言葉が耳の中に響いた。
「ずっと待ってたよ、ひかるがここに来てくれることを……」
「このみ……?」
栗色の長い髪に、華奢な体、碧色の瞳、青いパーカーを着て、ヘッドフォンを耳につけている。目に映るこのみの姿全てが僕の記憶の中の雪原このみと寸分たがわなかった。
「でも……私はそんな女なんて知らない……」
手を引かれた、多分このみに。僕はそれを認識することなんてできなかったし、今どんな状況になっているのかを把握することはできなかった。
「消えて――」
分かったのはそんな醒めきったこのみの声と、
「ひかるっ!」
ふゆかの僕を呼ぶ声だけだった。
視界は暗く闇に染まり、体の平衡感覚さえ失い、意識すらも消えかけの蛍光灯のように点滅して、やがて静かに消えていった。
「――――ッ!」
はっと気づいて意識を取り戻した。夢から覚める、その感覚に似ている。目を開いて視界に映った光景はとても見慣れたもので驚くことにそこは僕の世界にある僕の部屋と全く同じ景色だった。紺色のカーテンも焦げ茶色の机もクリーム色のカーペットも、本棚もテレビも箪笥も、僕の部屋にあるものと同じで、全く同じ配置だった。
「夢だったのか……」
そう思うしかない。ここは僕の部屋で、僕のベッドの上で、
「――んぅ……」
「なっ!」
聞こえてきた声に心臓が飛び跳ね、その甘美な声が漏れてきた場所を見ると、そこはすぐ隣だった。このみが穏やかな表情をしながら寝ていた。
一緒に寝ていたのかと思い、心臓の鼓動が早くなる一方で、だがその顔と体を見て僕は大体の状況を理解した。自分の手で顔や体を触り、そのさきに傷跡のようなざらざらとした感覚を感じたことでその理解は更に早まった。
静かにベッドから抜け出し、洗面所に行き、鏡の前に立つ。
僕の顔、腕を始め体の至る所にまだ新しい火傷の痕があった。さっき見たこのみにしても同じだった。カーテンを開け、外の景色を確かめるためにベランダに出た。そこにあった景色は僕にとって衝撃的で、
「これは……ひどい…………。まるで廃墟だ」
そんな言葉が不意に口から出てしまった。
廃墟、もしくはいつか誰かが描いた世紀末のような世界がそこには広がっていて、まるで終末戦争あるいは未曾有の大災害の後のような光景だった。建物は崩れ灰色に染まり、道路はわれ、車は無残にも壊れ、ひっくり返っている。人なんかいなくて空は灰色に染まり、世界に彩りがなくなっている。
世界の果てまで行ってもずっとこれが続いているのだろうか。誰かがこの世界の隅から隅まで壊してしまっているようだった。
「――んー、ひかる……? ここにいたの?」
このみが起きてきたようで僕の思考はそこで途切れる。ゆっくりとこのみは僕の隣へと歩いてくる。
「うん、ここにいたよ……」
「…………ひかるは……どう思う?」
「どうって、この世界がってこと?」
「そう……、多分この世界には私とひかる、二人ぼっちだと思う。ひかるの声以外、何も聞こえない」
ああそうか。このみは心の声を……と思い出し、そして改めてここは元の世界なんだと実感した。同時に絶望的だ、とも思った。けれど、すべてを投げ出すような気持ちにはなれなかった。だから、答えた。
「でも、一人じゃない。それは、そんなに悪いことじゃないんじゃないのかな?」
「うん、そうだね……」
このみはそう僕の言葉に頷く。壊れた世界で、二人ぼっちの世界で、途切れ途切れの記憶を持ったまま、いろいろと不明瞭なことを喉の奥に押し込んで、だけど今この瞬間、このみの隣にいられる、ゆっくりと流れていく時間はただただ僕にとって心地よいものでしかなかった。
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