第9話 婚約の儀式
「じゃ……はじめるよ」
「うん……」
ふゆかが初めにそう言って、僕はそれに了解してうなずいた。
窓の外ではもうとっくに陽が沈んでいて、天には蒼白いこの世界の月がきれいな満月を成している。
今、僕たちは少し緊張した面持ちで、隣り合って立っている。
隣に確かの彼女の拍動を感じながら、僕は目の前に置いてあるそれを見る。
《誓いのブレスレッド》と呼ばれる、いわゆる僕の世界で言うエンゲージリングのようなものだ。この世界では主に離婚とかそういう考えは存在しないらしく、男女の愛は永遠に、となるらしい。
むしろそのことはこれらの結婚の儀だとか婚約の儀式だとかいうものに関わっていて、それによるものが大きいのだろう。
そうして、彼女は深紅のルビーのような宝石が埋め込まれたブレスレッドを手に取り、それを左手首にはめる。
僕も彼女を倣って、もう片方のブレスレッド――ただそこに埋め込まれているのは、彼女の深紅とは反対の南国の海を映したような空色の宝石なのだが――を右手にはめる。
彼女は僕の右隣にいて、そこで僕は彼女の手をそっとつかむ。
ついこないだまでこんなことをすることになるなんて思ってもみなかった。
部屋の灯りは消されたことが幸いして、僕の赤く染まった顔はおそらくふゆかに見られることはないから、大丈夫なはずだ。
ちらりと横を見ると、月の明りに照らされてその頬にわずかに朱が混じっているようにみえる。
彼女も僕同様、きっと少しは緊張しているのだろう。
こうして、二人の間に何の言葉もなくなってしまった。
本当なら、ここで僕とふゆかは誓いの言葉を交わす。
だけど、どうしてか僕が彼女の手を握った瞬間から、いや本当はもっと前からそうだったのかもしれないけれど、こうして静かに言葉を発さずにいる方が心やすらぐ。
そして言葉が出なかったのはもしかすると僕の中に潜んでいる恋への緊張と恥ずかしさだったかもしれなくて、もしくは結婚というもの自体への戸惑い。
このまま、本当に僕がふゆかと婚約の儀をしていいのかという迷い、戸惑いだ。それは実際同じ状況に立てば誰もが感じることなんだろう。
それを誤魔化し、ここまで来てしまった。
「……月って、こんなにもきれいなんだね……」
だから僕はそんなろくでない、こんな雰囲気には全然似合わない言葉を吐いたのだ。
「ふふっ……よりによって、この時にそんなこと言うの?」
だから、彼女にそんなことを言われるのは当たり前だ。
「しょうがないよ……僕だって緊張しているんだ。なんて言えばいいのか分からないよ」
嘘だ、緊張なんて。自分の中にある考えを上手く行動に移せないだけだ。それがただ、目の前に広がる景色をついて口に出てしまっただけのこと。
「ちゃんと読んだでしょ、私が渡した本……。それとも、読んだ上で私から言わせようとしてるの? そうだとしたら、今のひかるはいじわるだよ」
彼女は照れている。うれしく、そして幸せなんだろう。顔を綻ばせ、少しすねたように僕に言ってくる。その時、心臓がドクンと跳ねたのは僕の意思とは全く関係ない。
僕との関係は彼女の方が経験しているし、結婚する前から同棲しているくらいだから、それなりのことはしてきてるはずだ。心温まる男女関係を送ってきたのだ。
それだけで僕よりは身長が低くても、その時点で僕からしてみれば彼女は大人の女性で、魅力的だった。僕はふとしてしまえば彼女を抱きしめたくなる衝動に襲われ、けれどもそれを必死に抑える。それはおそらく許されることではない。
今、僕が抱えているこの気持ちが僕本来のものなのか、僕がこの世界の僕自身に感化されてしまって現れたものなのか分からない。だけど、この気持ちが僕の中にあることだけは確かだ。
そこまで考えれば、記憶あるなしに拘わらず彼女はこの世界で今のところ僕が唯一頼ることのできる人。本当なら、彼女だけには話しておくべきなのだろう。
ここが別の世界で――それが夢の世界だか、想像の世界だか、それともパラレルワールドなのかはこの際問題ないとして――僕は記憶喪失なんかじゃなくて……って。
「僕は…………」
そうやって僕はその言葉を言い出そうとした。
「……ん?」
だけど、できなかった。彼女は僕から今、この言葉を期待していない。
それが明確に分かってしまった。言った後の彼女の悲しむ顔が、心が傷つく様子が、そして僕への非難の言葉が鮮やかに映し出される。
それだけはやってはいけない。僕がこの世界の僕でない限り、彼の知らないところで彼女を傷つけることはできない。
「僕は、君と永遠を誓うよ、ふゆか」
だからそこで自然とするりと僕の口からは彼女への誓いが出た。彼女が待っていた言葉だ。その時、僕の心の中は荒れ狂う海のように混乱していた。
今いる自分の場所と本来の自分の場所が混ざり合って、自分を見失ってしまいそうになる。だけど今は少なくともふゆかを傷つけないような生き方をしよう。そう思うと、波は静まり、そして耳にはすんなりとふゆかの言葉は入ってきた。
「うん、私も君と永遠を誓うよ、ひかる」
そうして、僕と彼女とはつながった。
物理的にも、心理的にも。雰囲気のある言葉を選べば僕と彼女との間にはもう何の壁もなくて、多分お互いがお互いのことを分かっていて、そして手から始まって心まできちんとふゆかとつながって、一体となっていた。
そして、それが儀式で、不意に僕の右手の手首から甲にかけてほのかな痛みが広がった。
「……んっ!」
ふゆかも同じように、僕と同じ痛みを感じているんだろう。僕の胸をドキッとさせる、鼻から抜けるような声を上げた。
しばらくして痛みは引いて、無事に僕たちの儀式は終わった。
「一般にね、この儀式の成功率は半分、って言われているんだ。だから、いくらひかるが記憶喪失だと言っても、私のこと本当に思ってくれているのには変わりないの。だから、安心して……」
「ありがとう、そう言ってくれて」
僕は彼女が僕に向けてくれた心配の念がこもった言葉に対して、そうして感謝の気持ちを記した。
僕はベッドに腰掛け、隣にはふゆかがいる。手は繋がれていないけれど、その代わりに僕と彼女との手の甲には薄く二つで一対となる、紋様が描かれている。
これが儀式の成果、と言ったらおかしいけれど、そのようなものだ。
「ううん、そんなことないよ。逆に、いつもひかるは私を励ましてくれたからさ、そのお返しだよ、って言っても分からないだろうけど」
「その……さ、やっぱり、僕たちは夫婦……なんだよね」
「なに当たり前なこと言ってるの? もう、ひかるが記憶喪失だろうと関係なしに、私たちはちゃんとした夫と妻よ。寝る時も、起きてる時も、近くにいる時も、遠く離れているときも、私たちは一緒にいる。これは私たちをつなぐ証だから」
そう言ってくれるふゆかの存在が愛おしかった。
と同時に、僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。
「できればさ、ここでのふゆかと僕との話を聞かせて……くれるかな。それでさ……もしかしたら、なにか思い出すかもしれない」
紛れもない嘘だ。だけど、本心でもある。
「……うん、いいよ。ちょっと、長くなるけど、それでもいい?」
最初は少し驚いていたみたいだったけど、すぐに彼女の舌はめまぐるしく動いて、そのカナリアの鳴き声みたいな声は、少しの距離を秒速三四〇m という速さで僕の耳に届いた。
「うん、いいよ……」
そう、頷かく。
「うんとね、はじめはさ、私は…………――」
そんな彼女の声を聞きながら、僕たちの夜は更けていった。
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