第7話 僕の知らない大切な人

「はぁ…………」

ついにここまで来てしまったか。

口からは無意識のうちにため息がもれてしまう。

目の前の場所と地図上の赤印との場所を見比べて、この建物が正真正銘、僕の家だということを確認する。

鍵は持っている。

だから、この家が留守であればいいなとも思った。

玄関の前に立って、数回ノックをしてみる。

……反応はない。

ちなみにドアを引いてみてもきちんと鍵がかかっているのが確認できる。

そこで少しほっとすることができた。

正直なところ、まだ心の準備ができていない。

だから、それならばさっさと家の中に入ってしまおうと、ポケットの中から鍵を出した時だった。

背後で何かを落とすような音がした。

おそらくそれは袋かなにかで、重みのあるものだと思う。

振り返ると、そこには今にも涙を流してしまいそうな少し幼いようにも見える、美しい女性が立っていた。

水面に太陽が反射したときのようなきれいな青みがかった銀青色の髪の毛を肩の少し下あたりまでのばしていて、その藍色の目はうるむようにしてきれいな色をだし、桜色の唇は何か言葉を紡ごうとして、だけどできず、そんな女性が目の前にいた。

「……ひか、る…………?」

やっと彼女から出た言葉は僕の名前で、次の瞬間には僕は彼女の細い腕で力強く抱きしめられていた。

「ひかるっ、ひかるだよね? ……うぅ、よかったぁ。本当によかった」

彼女の言葉は明らかに僕に向けられたもので、僕の服は彼女の涙で段々と濡れていくのが分かった。

「私……、ひかる……ことがっ、心配で、心配で、本当に心配で眠れなかった夜だって……あったんだよ?」

あまりのことに僕は、気が動転してしまいそうになる。

本来ならば彼女をなだめて家の中にでも入れて、二人きりで話さなければならないことを話すことがよかったのだろう。

だけれども、

「ごめん……心配かけた」と言いながら、彼女の体に腕を回し自分の体を彼女の方に寄せてしまったのだ。

本来ならば、そうするのが正しいというかのように。

彼女もそれを抗うことなく、快く受け入れていた。

「うん……心配した。でも、私との約束守ってくれて……うれしい」

多分、彼女は笑っている。

愛する者が約束を守って無事に自分の所に帰ってきてくれて、うれしく思って、笑って、きっとこれからのことを考えているに違いない。

さっきまでなら、まだ取り返しがついたかもしれない。

だけどここまで来てしまったら、もう僕にはどうすることもできなかった。

この状態から彼女を引き離して、僕は記憶喪失だと言えば間違いなく彼女は悲しむだろう。だから、そのあとは二人とも何も言うことなしに五分間その状態を保って、それで僕が彼女の顔を覗きこんだら彼女の瞳はまだ濡れていて、静かにその唇が何かを求めるような動きをして、段々と彼女の顔が近づいてきたと思ったら、首に手を回され情熱的なキスをされた。

その驚くほどまでの柔らかな感触に自分自身の体がとろけてしまったのではないかと錯覚して、それで自分の中にそこで境界線を引いた。

後で怒られることだけれど、多分このまま進んでしまったら本当に取りかえしのつかないことになる。

そう本能が告げた。

だから、そこであくまで自然に僕は彼女の唇から離れた。

彼女は『なんで?』とでも言いたそうな上目遣いをしていて、そこで僕の自制心がゆらいだけど、必死に抑えた。

「君に……話したいことがあるんだ」

それは今までの話とは、なんの脈絡もなくて彼女自身も混乱したことだろうけど、とりあえず僕たちはそうして僕たちの家の中に入った。

「で……話ってなによ?」

目の前のテーブルを挟んで座っている彼女がそう少し不機嫌そうに言葉を発した。

それは僕がこれから彼女に結婚の申し出をしようとしているのを彼女自身が予期しての裏返しの感情であったり、それとも本当にさっきのいい感じの雰囲気を見事に壊してしまった僕に怒り心頭なのかもしれないけれど、多分彼女にとっては予想だにしないことを目の前にいる僕の口から言われることになる。

「あのさ……実は、僕……記憶喪失、なんだ」

「……、えっ、ひかるが?」

いたって普通の反応だった。いや、そう返すしかなくなるよな。

「そうなんだけど……」

「ふーん、それで……」

「それで、ってなにが?」

「いーや、いつものひかるくんと比べて、いやに積極的だったなぁって思って……。私と人前で……その、キスまでしちゃうし……」

「え、なに、その反応……。まるで、僕は普段、君とキスをしないような、そんな風に言うなんて……」

「そうだよ、今までそんなにしてきたわけじゃなかったからさ……。それも、かなり控えめな感じだし……。まっ、なんにしても、無事に帰ってくれて、ほんとうによかった」

彼女は胸に両手を胸の前で合わせて、神様に感謝するみたいな格好をとった。

僕が記憶喪失だったことは、なんだか脇に置かれたような感じで、僕はとにかく僕自身をすごく心配されていたみたいだ。

ここで僕にこの世界での記憶があったならば、彼女に優しく支えてあげられるような言葉をかけることができたんだろうけど、今の僕がそんなことをしたところでさっきと同じようにただ薄っぺらな思いにしかならない。

「ごめん……、今の僕には、君にかける言葉が見つからないよ」

「謝らないで……、あなたが無事でいてくれた。私にはそれで十分。で、これからはどうなの? いくら、記憶喪失といっても私たちの婚約をなしにするわけにはいかないし、あなたにもまだ予定はあるんでしょ?」

「うん、そうだね。……って、僕たちの結婚の話は、そのまま成立するの?」

「当たり前だよ。私はあなたを愛しているもの」

そこでいともたやすく彼女はその愛の言葉を口に出した。

僕にとっては、気恥ずかしくて、おそらく十年かかってやっと、真面目にその言葉を口に出せるぐらいの。

「私の歳が二十を過ぎたときから、私はあなたから待っていた言葉があった。少なくとも私たちはただの友達というほど軽い関係でもなかったし、親友というほど恋愛感情を無視することもできなかった。だから、そこであなたが出した『結婚しよう』の一言は私にとってすごく重くて、大切なものだった」

彼女の思いはそこで言葉になった。

今の僕にとって、はっきりいってしまうとあまり関係ない話で、記憶喪失になってまでその話を持ち出すことはなかったと考えていた。

だから、もしこの世界にずっといることになったとしても、その話を持ち出すのはもっとずっと先の話であったはずだ。

彼女の言葉を聞くまでは。

「だけど、その反面あなたはそこまで簡単にその言葉を言い出しはしないの。だからわかってた。あなたが、無事終えてきた今回の任務はそれほど厳しくて、難しくて、危険なんだって。心配してた。ずっと……。きっと、あなたには分からないでしょうけど」

そうだ、きっと僕には分からない。

彼女が言う『あなた』が記憶を失う前の僕であろうと、今の僕であろうと変わらなく僕には分からなかっただろうと思う。

「そりゃ、僕には分からないけど、それでも僕は君のことなんてあまり知らないし、いきなりそんな風になってもどう接すればいいのか……」

「いいのよ、そこは普通に接してくれれば。私のことを少しずつ知っていってもらえれば、あなたもきっと記憶がすぐに戻ると思うし……。それに、一度祈祷でもしてもらえば少しはよくなるはずよ。だから、これは決定事項、分かった?」

「え……、あ、うん……」

なんだか勝手に励まされて、無理やり了解させられたような気が……。

まぁ、でもいいか。

僕には全く経験のないことだけれど、この人は本当に僕のことを思ってくれている。

僕のことを記憶喪失だと思って、そんな記憶喪失の僕を心配しして、なんとか元の記憶を思い出そうとして、それでいて僕のことを愛してくれている。

もちろん彼女が愛しているのは、この世界の僕であって、今の僕ではないのだけれども、そうだと錯覚してしまうぐらいに。

「じゃっ……お願い……」

「えっ、なに?」

何が、お願い?

「もうっ、それまで忘れちゃったの。婚約の儀式のことよ……」

婚約の……儀式?

こっちの世界で言うと、結婚式みたいな感じのものかな。

それだったら、そのやり方を僕が知らないのも当然だ。

「はぁ、それだったら、婚約の儀式の雰囲気が台無しじゃない……」

「ごめん、僕はこの世界のことを何も知らないから……」

でも、僕だって僕の世界での婚約の方法を知らないわけじゃない。

指輪がなくても、僕は僕なりに彼女に結婚を申し込める。

「それだからと言って、さすがに君に教えてもらいながら、婚約の儀式をしてもらうというのも、格好悪いよね。だから僕は僕なりに、君に婚約を申し込むよ」

「……うん、ありがと。私は、それで十分だよ。でも一つだけ言わせて……」

「なに……?」

「多分私の名前も忘れちゃったと思うから……。ふゆか……、私の名前はふゆかよ。……分かった?」

「分かったよ……ふゆか」

そこで僕は立ち上がって、ふゆかのすぐ目の前まで行った。

ふゆかの瞳を正面からとらえて、彼女の手を優しく握って、座っている彼女を僕自身の方に引き寄せる。

手は握ったまま、彼女の瞳を見つめたまま、僕はそこで深呼吸をする。

気の利いた言葉を言うことはできないかもしれないけれど、それでも世界は違っても僕のことを愛してくれたんだ。

だったら、少なくとも僕もこの世界にいる間は彼女のことを大切に思おう。

「君に出会えてよかったって思ってる。ふゆかは僕のことを大事に思って、愛してくれている。だから僕も君を愛し大事に思うよ、これからずっと……。だから僕と結婚してくれ」

僕の思いを言葉に乗せて彼女に届けた。それはこの世界の僕の言葉でもあり、僕が彼女のための、そして本来いるべきこの世界の僕のための婚約を行う上での、嘘偽りのない気持ちだ。

「……うん、私も愛してる。だから、こちらこそお願いします」

その言葉を聞いて僕は少しほっとして、静かに壊れ物にでも触るかのようにぎこちない動きで彼女をそっと抱きしめた。

「ひかるの気持ちはありがたいよ。でもさすがに、きちんとした儀式をしないまま結婚ていうのはいけないと思うよ」

あの後、ふゆかはそう言った。

たしかにそれはその通りだし、僕の気持ちを正直に話したわけだから、この後は彼女にその方法を教えてもらいながらでもいいのだろう。

「で、具体的に何をすればいいのかな……?」

「これ……読んで。さすがに、私から言うのは嫌だよ」

そう言って渡されたのは一冊の本。

タイトルは“婚約の儀”……、なんとも直線的だけど、確かにそれを知るのには一番い

いものなのかもしれない。

にしても、やっぱりこの世界にも本があるんだな。まぁ、本自体は古くからあるみたいだし、この本もかなり古そうだ。いや、新しくはあるけれど、装丁は僕から見れば古臭い。

それをぱらぱらとめくると確かに、この世界での婚約の儀についての方法が書かれていた。僕は椅子に腰かけながら、その本を読み進めていく。

「これを……夕方までにねぇ」

ふゆかから言われたのは、この本を夕方までに読んでおけということ。それまでの間に彼女は、婚約の儀についての準備をするのだという。

まっ、別に本を読むのが嫌だというわけじゃないし……。

なにしろふゆかのためだから……。

そう思った瞬間、ちらっとこのみの顔が横切って、ふと違うことを考えた。

このみは今、何をしているのかな。

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