第1話 はじまりの出会い

「今日も……終わりだな」

いつも通りの毎日を送っていた。高校の授業が少し早く終わり、何も厄介ごとに巻き込まれることなく帰路につきながら、そう思い呟いた。

黒の学ランに身を包みながら最寄駅で下り、アスファルトで舗装された道を歩き家までの道を歩いていた。目の前にかかる深紅の橋を歩きながら、潮の匂いがする風が頬を撫で、そのまま吹き抜けていくのを感じる。

橋を渡り終え、見えてくるのは信号のついた横断歩道と、その脇にある塗装のはがれかけた歩道橋。その錆びて色あせた歩道橋の階段を上っていく。左手には最近完成したバベルの塔のごとく電波塔が聳え立っているのが見え、僕は首ごと顔を向け、その荘厳にまで思える高さに心酔する。距離にして一キロほどだろう。

心の中で毎日見るその景色を賞賛しつつ、優越感に浸り――。

「きゃっ――」

ドンッ、という衝撃と共に余所見をしていた僕の体に勢いよく誰かがぶつかる。

「す、すみません。余所見をしていて……」

あわてて僕は前を向き謝りながら、視界に入ってきたのは尻餅をついた少女だった。青いパーカーを着てフードをかぶり、その隙間から栗色の髪の毛がのぞいている。ヘッドフォンでも付けているのだろうか、かすかに音楽が漏れ出ているのも聞こえる。

少し不思議に思ったけれど「大丈夫ですか?」と声をかけながら、彼女に向かって手を差し伸べそして彼女が僕の手を取り――

「ッ!」

突如としてあふれんばかりの恐怖と焦りが心の中に生まれた。体が震えるくらいに、今まで体験したことのないくらいのそれに驚き思わず掴んでいた少女の手を離してしまい、再び目の前で尻餅をついてしまう。

「うぅ……」と声を漏らしながら女の子は顔をしかめる。

「ご、ごめんっ! 手が滑っちゃって……」

あわてるようにしてすぐに謝り、再び手を差し伸べる。気づけばさっきまであったはずの巨大な恐怖と焦りはどこかにいっていた。

「ううん……気にしてないから、大丈夫」

だけど当たり前といえば当たり前かもしれないが、彼女は僕の手を掴まずに立った。ヘッドフォンから音がもれ出ているのに会話が成立していることに少しの違和感を感じたが、それもすぐにどっかにいく。

「え、ええと……」

思わず僕はどうしていいのか分からずに、そんな戸惑いの言葉を浮かべる。というのも、立ち上がった彼女のフードの陰から覗く碧色の双眸が僕の両目をただじいっと捉えていたのだ。心なしかヘッドフォンから漏れ出る音量が小さくなっているような気もした。

怒っているのかな……。

やっぱ怒っているよね。どことなく、何かを訴えかける目にも見えるし、大事なカップを割ってしまった時の妹の反応に似てなくもない。

「あの……いきなりごめんね。何か、お詫びでもできればいいんだけど……」

とにかく何か償いをしなくちゃいけないと思って、咄嗟にそんな言葉が出た。

その時出た声はどぎまぎとした聞き取り辛い声だっただろう。その少しの理由は多分、目の前にいる少女が作り物みたいに目鼻立ちが驚くくらい整っていて、その濁りのない澄み切った声に緊張したからかもしれない。

彼女は僕の言葉を聞いてから目をぱちぱちさせ、ちょっと驚いた様子を見せ、

「ううん、気にしなくていいよ。多分、わたしのせいだから」

と、そんな風に言葉にした。

「そう……なのかな。だとしても……」

いくらなんでも申し訳ないよ。本当にごめんなさい。

そんな文言を続けようとした。けれどその一瞬あと、雰囲気は突如として急変する。

周りの空気が一気に重くなった。何か見られて追われている、そんな感じだ。

あたりを見渡すと、そこにはさっきまでとは全く違う雰囲気が広がっていた。

何十人もの屈強な黒服サングラスの大男たちが歩道橋の周りを包囲していたのだ。

「もう……ここまで。しょうがない……」

なんて言っているのか分からないが目の前にいた彼女は僕と同じくその光景を目にして何かを口にする。そして、その少女はその場所から飛び降りた。僕のいる歩道橋の上から。

「えっ、ちょっ!」

驚愕の声が不意に僕の口から出た。

咄嗟に僕は下を見るけれど、そこには彼女の姿はない。高さにすればビル三階くらいで死ぬような高さではないけれど、それでもそこに彼女の姿がないというのはおか

しな話だ。まるで途中で消えてしまったかのような、そんな感じだ。そして黒服たちも僕同様に彼女が落ちていった場所を見るけれど、その顔は困惑に包まれている。

そうして本当に何が起こったか分からずに、ぼうっとしているといつの間にか黒服たちはいなくなっていて、歩道橋の上に一人僕は何かにおいて行かれたような、狐に包まれたような気分になる。

「帰るか」

何が起こったのかわからないけれど、しばらくの時間を経てやっと僕の両の足が僕の家へと向かい始めた。

歩道橋から降りて、なんだかおかしな体験をしたなぁとか、でもきっとそんなこともすぐに忘れてしまうんだろうな、とかそんなことを思いながら、僕の住むマンションのエントランスまで来た。

はぁ、こうして今日も無事おわる。そう思った時だった。

「また、会ったね」

エントランスに足を踏み入れた瞬間、地面しか見ていなかった僕の耳にそんな聞き馴れてはないけど、聞いたことのある声が響いた。

さすがに、それが僕に向けての言葉だと言うことは分かった。

だから一体誰が僕に向けて話しかけてきているのかということを確認した。

「なんで……?」

そこで驚愕の声が再び僕の口から出た。

青いパーカーを着てフードをかぶり、ヘッドフォンを耳につけている、栗色の髪を持った儚げな少女が、僕がつい今しがた会ったばかりの少女がそこにいた。

「なんでだろうね」

そして今度は少女がそうして首を傾げて笑い、その時醸し出された表情は彼女自身を幼く映し出し、純粋に可愛いかった。それに思わずどきっとしてしまい、言葉が続かなくなってしまう。

「えっと……」

何が起きているのかがわからなかった。

「どうして……ここに?」

「君に聞きたいことがあるの。教えてほしいことが……」

「教えてほしい……こと?」

「うん。でもなるべくなら外にいたくなくて、できればお邪魔していいかな」

初対面にしては図々しすぎだし、深く考えれば少女が僕の家を知っている意味もわからない。普通だったら怪しすぎて断るような話だろう。でも、その時の僕は、

「…………わかった。いいよ」

なぜだか分からないけれど、そんな答えをしたのだ。

その後、マンションの二階にある僕の部屋に少女を案内する。

「一人に住んでるから、遠慮しないで大丈夫だよ」

そう言いながら、リビングに行きカーテンを開ける。外には目の前の道路が見え、そこで走っている車の音が微かに聞こえてくる。

「わかった」

少女はソファに腰掛け、僕もその向かいに同じように座る。

「…………」

「…………」

しばらくの間、沈黙がその場を貫いていた。彼女の方からここに来たいと言ってきていたし、僕も何を口にすればいいのかわからなかった。

「えっと、そういえば自己紹介がまだだったね。僕は木漏光流(こもれ・ひかる)」

「こもれ……? うん、ひかるはあってる。そっか……」

「……?」

「うん、私は雪原このみ(そそぎはら・このみ)。ひかる、連れていってほしい場所がある……んだけど」

「……え?」

「ごめんね、急な話だよね。でもね……たぶん、そこはひかるしか知らない場所なんだと思う。だから……ひかるしか」

「え、ちょっと待って。なんでそんな……?」

どこをどう取ったらそういう話になるんだ。心の中は困惑一色だ。

「そうだよね、困っちゃうよね。でもね……信じられないかもしれないけれど、私、人の心を読むことができるんだ」

このみは少し迷った素振りを見せながらも、僕にそう伝えた。

「……人の心が、読める?」

もちろん僕はそう返す。それは現実とはあまりにも離れている言葉で、そう聞き返すしかなかった。

「そう。それで、私にはどうしても行かなくちゃいけない場所があるの……命に変えても。あの時、ひかるにぶつかったとき、ひかるの手をとったとき、その片鱗を私は見たような気がした。ひかるはその場所を知っているような気がした」

「見たって、そんな……?」

そんなことが可能なのか。大体、人の心が読めるって言うのもあまり信じられる話ではない。

「ごめんなさい。悪気があったわけじゃないの。本当にたまたま……だったから。でも、本当に私はその場所に行かなくちゃいけないの。私は……ひかるが本当に私の行きたい場所を知っているかどうか確かめるために、ひかるの体験してきたいろいろなことを覗き見た。だから本当にごめんなさい……」

このみはそう言って、頭を下げる。その様子を見ながら、僕はこのみの話はただのいたずらかもしれないと思った。

そうこれはさっき僕がこのみにしたことの意趣返しで、突拍子もない話を信じる僕を密かに笑っているのかもしれない。きっとどんな人もまずそう思うだろう。

だけどただのいたずらで、こんな真剣な表情で話をし、真摯な態度で謝罪をするだろうか。未だ彼女の耳にはヘッドフォンがつけられている。僕の家の場所も知っていた。

もし彼女が人の心を読むことができるなら、こういった話は上手い具合に辻褄が合う。

だが本当だとして、いや本当じゃないにしても、少なくとも彼女が求めているのはただの道案内だ。そこらへんで聞かれているのと何ら変わらない。

この話の真偽はともかくとして、もし彼女が行きたい場所を僕が知っているなら、それくらいのことならしてもいいかなと思う。

「顔をあげてよ。別に……僕も道案内くらいだったら、してもいいと思ってるから。別に忙しいわけじゃないし」

「……信じてない?」

僕が何の脈絡もなくいきなり彼女の目的にのると言ったからか、ジト目で僕を見つめるとただ一言そういった。

「いや……信じるとか信じないとかそういう問題じゃなくて、ただ――」

その瞬間、僕の言葉は無理やりに途切れた。どちらかというとそうせざるを得ない状況になったと言ったほうが適切なのだろう。僕の心がもともと動揺していた上に、さらにそこにものすごい圧力の空気が送り込まれて、その中にある物が粉々に砕かれて、つながって、全く別のものになってしまったかのように、まさに僕は今までに体験したことのない状況に身を置いていた。

「な……!」

ちょっと間をおいて僕の口から出た言葉はそんな情けない言葉で、それもそのはずで、ついさっきまでは確かに離れていたであろう僕とこのみの隔たりは今やつながった男女の右手と左手のようにほとんどないに等しかった。

つまり簡単に言えば、このみが身を乗り出し、その額と僕の額とがぴったりくっついていたのだ。と同時に、一枚のひとつながりの映像が僕の頭の中に流れ込んできた。青い空、噴水、さえずる小鳥……読み取れた情報はだけどそんなに多くない。

その映像が途切れ、そしてこのみは僕の額から熱だけを残して離れた。

「つたわった?」

彼女は意地悪そうな笑みを浮かべて言った。その裏にある感情は、ただ単純に僕に何かが伝わったかということを確かめたかっただけなのかもしれない。だけど、そのことを通じてこのみがただの少女ではなく、何か不思議な力を持った人だと僕に確信させた。

「伝わったよ」

どこか懐かしいような、だけどとても恐ろしいような、忘れたいようなそんな気持ちを呼び起こさせられた。きっとその場所を僕は知っている。けれどそこがどこなのか思い出すことはできなかった。

「よかった、うまくいって」

このみはそう言って、無邪気に笑った。

その表情を見て自分の顔に熱が帯びていくのが分かり、何か言葉を言おうとするけれど、口にはできなかった。

「それで……その場所を案内してほしいんだけど。場所を教えてくれるだけでいいの。それからは私一人で行くことができるから」

正直、確かにこのみが行きたがっている場所を僕は知っているんだろう。だけどその場所を今思い出すことはできない。今、案内することもできない。

だから今日のところはとりあえず考えさせてほしい。また今度、その場所を思い出したら、その場所がどこなのか教えるから。もしくは今度思いつく場所の候補を教えるよ、とかそんな言葉を出そうとした。

だけど、できなかった。

僕の喉から口の中にかけて、一単語、一音が通ろうとしたまさにその時。それらを僕の腹の中にまで押し込むような車のブレーキ音が聞こえた。部屋の窓から、マンションの入り口に黒塗りの車が止まるのが見え、中から黒服の男たちが出てこっちに向かってくる。家の中にどこからわき出てきたのかもわからないような、黒光りしたゴキブリのような不快感を、その共通点である黒光りした車体に感じた。

瞬間、このみの表情が一変した。さっきまでのほんわりとした雰囲気はどこか飛んでいって、思い切り立ち上がった。

何かから逃げるようにして駆け出そうとしていて、だけどどこにも行けない、そんなこのみの心情を察すことができるような行動だった。

「どう……したの?」

「逃げないと……。でも、どこに? またアレを……ううん、そうしたら私が!」

見るからに焦っていた。そして、どこか僕の広い心の中のどこかでそんなこのみを助けたいって思ったんだろう。目の前で何かにおびえる少女がいて、幸いにも僕には彼女を助けることができるかもしれない。そう、思ったのだ。

気づけばこのみの手をつかんで、走り出していた。玄関で靴を履いて、廊下に出て、

「ひかる……?」

「なんか、あの車を見て困っているようだったから。僕は君をあの黒い車のある場所から、人目につかないように離す。もし迷惑だったら言って。別に、どこかに連れ込もうとは思ってないよ」

この建物にあるほとんどの人が使わない扉。そこに手をかざしロックを解除する。その先は地下にまで続く階段が続いている。

「ひかるがそんなことする人だとは思ってないよ。それに迷惑だなんて……そんなことないけど。けど、どうして?」

「どうしてかな? 分からない、だけどもし君が心を読むことができるんだったら、それもわかるんじゃない?」

「うん…………そうだね。ありがとう」

このみは何かを察したように目を瞑り、そっと小さく僕に礼を言った。

階段を下ると、ちょっとの小部屋が現れて、そこにも頑丈な鉄製の扉が設置されている。扉になされている鍵を解き、開く。傍らにある懐中電灯をとり、スイッチを

入れる。光が映し出すは無機質なコンクリートでできた通路。

「ここは……?」

その先にある空間を見て、このみは疑問の声を漏らす。

「東京の地下に複雑に広がる地下道って言えばいいのかな? まぁ、下水道、雨水管なんかとも繋がってるんだけどね」

「どうして、そんな場所……?」

「家柄っていえばいいのかな。建築家が家の建て方を知り、運転手が裏道をしっているのと同じだよ。とにかく、この道を進んであの場所から離れよう」

「うん……」

それからおよそ三十分、闇の中に光る懐中電灯の明かりだけを頼りに早足で歩き続けた。

およそ六、七キロあの場所から離れたことになるのだろう。追手が来れば足音がこの空間で反響し、すぐに分かる。

なんとか逃げ切れたようだ。

「ふぅ……ここまで来れば大丈夫かな。疲れた? ちょっと、休もうか?」

隣にいるこのみを様子を伺いながら、そう伝える。

「うん……」

このみが答え、僕達はその場で腰を下ろしちょっと体を休める。

しばらく沈黙が続き、それを僕が破る。

「それにしても……さっきの奴らって何だったの?」

僕とこのみが歩道橋にいるときも黒服が現れた。単純に考えれば、あいつらはこのみを追っていて、このみはそれから逃げているということになるんだろう。

「なんて……言えばいいのかな。私を追ってる人って言えばいいのかな」

まぁ、概ね予想通りの答えだった。でも、どうしてなんだろう。別に何か悪さをするような人にも見えないけれど。その時ふっと頭をよぎったのは、彼女の『人の心を読める』という言葉だった。その力のせいで追われているのかな、となんとなく納得できるような理由を考える。そして、特にこのみの事情に深入りするつもりはなかったけれど、結果的にはそういう言葉を口にしていた。

「えーと、さ……。これは、聞いていいことかどうか分からないんだけど」

「私が何をして、何で追われているかってこと?」

「え、あ、うん……よく分かったね」

「安心して、別にひかるの心を読んだわけじゃないから。ちゃんと、これで聞こえないようにしてるから」

そう、手を耳にあてているヘッドフォンに持っていきながら話す。

「え、てか……耳、聞こえていないよね?」

このみの耳には音楽を流し続けているヘッドフォンがあって、普通なら僕が何を言っても聞こえないはず。

「聞こえてないよ。ひかるの声が直接わたしの耳に届いているわけじゃない。ただ……口の動きと、体のいろんな筋肉の動きとか、そういったいろんな情報からひかるが言っていることを推測しているだけ」

「へぇ……」

とんでもないことをさらっと言ったこのみに対して、僕はただ感嘆の声しか漏らすことができなかった。つまり、それが無ければ生きていけないという状況に追い込まれ、そのことをすごいと思う間もなく身に付けなければいけなかった。

少し、このみの生きてきた世界というものを垣間見た気分がしてあまりいい気分はしなかった。

「このヘッドフォンは私がこの世界で生きていくためにはどうしても必要で、大切なものなの。これがあるから私は今まで生きてくることができた。何かで耳を塞いでいないと、どんどん耳に入ってきちゃうから」

耳につけているヘッドフォンに手を添えながら、思い出に寄り添うようにやさしく言葉を吐き、その内容に僕はそれ以上何も言うことができなかった。

僕が思っていたより、彼女の境遇はひどいものだった。こんなこと、当事者じゃない僕が言うのもおかしい話かもしれないけど。

「ごめんね。迷惑だよね、こんなおかしな人につきまとわれてさ」

「いや、全然そんなこと……」

「私ね、すごく感謝してるよ。これ以上、ひかるに迷惑をかけるつもりもないし」

迷惑、とか僕はそんなこと全然思っていない。それでも、果たしてこれ以上このみの事情に踏み込んでいいものか迷う。

何か、そこはこのみ自身が僕に踏み込んでほしくないように思えた。でも、そんなこのみの力になれたなら、なんて柄にもなく思ってしまう。

「何か、してほしいことがあったら言ってね。助けるからさ」

「……ふふ、ひかるは優しいんだね。そんなことを言ってくれるなんて」

「優しい……かな? 別に普通だと思うけど」

「ううん、優しいよ。今まで私はたくさんの人に私の力を狙われたり、裏切られたり、襲われそうになったりしていたから。人に嫌われてるんだ……いやなことに神様には好かれてるんだけどね」

「そう……なんだ。このみを助けてくれる人はいなかったの?」

心の中には重い気持ちが根付いた。見るからに小さく華奢な体の中に一体どれだけのものを抱えているのだろうか、そう思って。僕ならきっと逃げ出してしまうだろう。だから、せめてその中にも救いがあればいいなと思ってそう聞いた。

「いたよ……一人、私を本当の意味で助けてくれた人がいた。こんな状況の中にいる私に生きることの意味を教えてくれた人が」

このみの言葉を聞いてよかった、と心の中で安心する。そしてその感情を心の中だけに留めておいた自分にすぐ感謝することになる。

「でも、その人は死んでしまった」

「……」

「私を庇って、死んでしまったの。私が巻き込んでしまったから」

「あ……その」と声を出すも、僕はなんて言葉をかければわからなかった。

「だからね、ひかるのさっきの言葉はとても嬉しい。だけど、これ以上私といたら、私を助けるなんてことしたら、きっとひかるも……」

そんなことない、胸を張って今のこのみにそういえたらどんなによかったことだろうか。

僕は自信を持ってそう言い張ることができてなくて、そんな自分をひどく嫌悪した。

「だから、さっき伝えた場所を知っていたら教えてくれることが一番の私のたすけになることなの」

「あの場所……」

確実に知っているけれど、どこにあるかは分からない場所。知らないといえば、もう僕とこのみは会うことはないだろう。

彼女はどこか僕の知らないところへ行き、僕は踵を返し、家へと帰るだろう。そしていつも通りの毎日を過ごすことになる。

だけど僕の知っているこのみは、僕の知らないところで逃げて、怯えて、隠れ続けるだろう。それを知っていながら、僕は何もせずにただ安穏とした日常を送るのだろうか。

このみについていけば僕は危険に晒され、死ぬことになるかもしれない。きっとそうなることをこのみは臨んでいない。

だけど、その状況を僕はどうにかできるかもしれない。自分が危険な状況に足を踏み入れようとしているのが分かる。僕が普通の高校生なら、このみとわかれて少しの後悔をして、という風に話は早かったのかもしれない。ま、東京の地下道を把握している時点で普通なわけじゃないんだけど。だから僕なら、いいや僕の家ならこのみの状況をなんとかできるかもしれないと思ったのだ。

「ごめん。何か知っている場所だと思うんだけど、思い出せなくて。どこだか教えることはできないんだ」

「そう……ありがとうね。じゃ……ここからの出口を教えてくれないかな。これ以上、ひかるを」

渇いた笑みを浮かべながら至って予想通りの言葉を全部このみが吐き出す前に、僕はその言葉をさえぎる。

「このみ……僕に付いてくれないかな?」

「ひかるに……? できないよ、迷惑をかけちゃう」

僕の言葉に驚きながらも、僕の申し出を断る。

「ううん……迷惑にはならないよ。僕の家は普通とはちょっと違っていて、多分このみのことも何とかなるかもしれない」

本心だ。一目ぼれか、同情か、どんな感情が元になって引き起こされた気持ちか分からないけれど、今まで抱えることのなかったものを今僕は持っている。

「でも……」

だが僕の言葉を聞いても、このみの表情は暗いままだ。だから僕は言い放った。僕の心の中にあるこのみへの言葉を。

「このまま僕が何もしなくて僕の知っている君がどこか遠くへ行って、そこで何かに苦しんでいることになるかもしれないのに、それを見逃すことなんてできない。どうしても君が嫌というなら、せめて僕は君と一緒に行くよ」

君の近くで少しでも君の力になれたならって思う。それにここからの出口は僕しか知らなくて、どっちみちこのみは僕の言うことを聞かなければならないのだから。

「…………本当にひかるは優しいんだね。嬉しい……」

そして、ちょっとの沈黙をおいて、ぽつりとこのみは僕と距離をとって一言口にした。その時、このみの心の中でどんな感情がうまれていたのか、何を考えていたのか、僕には分からなかった。

「でも、だからこそ私は一人でいなくちゃいけないの。私を助けてくれるような人を、また失うわけにはいかないから。……今まで私から聞いたことは忘れて」

感情を殺した声が、無機質なこの空間に冷たく響いた。

「ちょっと待って、このみ、一体何を……?」

「ごめんね、でもこれで最後だから、ひかるの心を読むのは……」

僕の心を読む。まさか、僕が知っているこの地下道からの出口を知ろうとして。でもそうしたら彼女は一人で行ってしまう。複雑に入り組んだこの場所で逃げようと思えばできてしまう。いくら精通していても、それを追いかけるのは至難の業だ。

「このみっ!」

「さよなら、ひかる。そして、ありがとうね……私を助けてくれて」

目の前で優しく微笑むこのみの顔が見えて脇の通路へと足を踏み入れようとする。

そして、

「残念ながら、このみちゃん。君の望まぬことはどうやら現実になってしまったらしい。……ひかる君は、もう、立派な当事者だ」

背後から誰とも分からない声がした。

「ッ! どうして、あなたが!」

目の前では、先ほどと同じようにこのみの動揺した表情が目に取れる。

「どうしてって、ひどいじゃないか」

コツコツという足音と共に、僕の懐中電灯の明かりのもとへと闇の中から声の主が現れた。癖のある銀髪が鈍く光り、その赤眼の中に潜む鋭い視線が僕の心を射止めるような、感じをふとさせられる。黒いコートを羽織り、右腕のところに赤いバンダナが巻かれるような姿格好をしている。

そして、その手には黒く鈍く光る拳銃が握られ、その銃口はきっちり僕たちの方へと向けられていた。

「僕は君たちを保護しにきたんだ」

妖艶な笑みといえばいいのか、含み笑いをしながら行動と合っていない言葉を僕たちに向け、そして僕たちは何もすることができなかった。

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