第9話 踊る夕凪
夕夜が入院してから三日目の午前中に、その退院は決まっていた。
骨折箇所は治るまで完全固定と以後の経過観察を続け、栄養不足面は悩みの一つ二つが一気に解決した事で食欲も旺盛となり、今後もバランス良く食事を取ることを条件付きにした退院であった。
午後になって夕夜が病院を後にする。
心は澄んで晴れ渡っているのに、肝心の空模様はどんより気味である。
灰色の雲が空一面びっしりと覆っているものを見上げても、長らく静電気の悩みから解放された夕夜の顔色は晴れ渡っている。
もう何をするにも静電気を気にせず、物にも触れられ、食べ物も好きなだけ食べられる。痛み止めの薬も別なものに変えて貰ったところ、幾分ましになって楽になった。世の中が全て薔薇色に思えてならない。
退院話を聞きつけた宗谷やアンディたちが駐留先から祝いにも来てくれた。
随分と急ぎ足だったけれど、アンディはあれからすぐに、二つ目のバングルを作ってくれたのだと言った。あまりに夕夜が喜んでいたのを見ていて、予備も作ってやらねばと思ったらしく。今度は夕夜の肌色に合わせたバングルを授けていた。その方が、目立たなくて良いだろうとする心意気であったものを。夕夜は、それはお守りにすると告げ。一つ目で過ごす旨を伝えて別れた。
夕夜は今、次なる転校先の神奈川方面へ向けての電車に乗っている。先日まで住まいにしていた寮の荷物は、既に教員たちがダンボールに詰めて転校先へ送ってくれている。
元々、接触静電気を極力嫌った為に、衣類や生活用品なども最低限にしていたその量は、極端に少なかった。先生たちが断捨離のし過ぎだと笑い、夕夜の怪我を考慮して荷物詰めをしてくれた箱は、たったの三箱だったそうだ。
そして今日から心機一転、新天地で新たなる学校生活が始まる。静電気に怯えることもない。歩く発電機と呼ばれることもない。その期待で、走行する電車の揺れと一緒に胸も踊る。
その車両の窓に、ぽつぽつと雨水が当たり始めた。そう言えば、朝の天気予報でも午後の降水確率は百パーセントだと言っていた。
「あ、傘……」
降りた駅のコンビニで買えばよいとした頭上にも、遠くの雷雲が近づいていた。
そこから二千キロも離れた海洋上で、フィーガが交戦しているとは夢にも思っていなかった。
「ヘイヨー、ナンシー!」
グレヴリーは大型の愛銃を掲げ、発射トリガーを引いた。例え高い波で荒れる悪条件の洋上で、駆逐艦が大きく揺さぶられようとも。その体を叩き付ける波しぶきが押し寄せ、射撃体勢が崩れようとも。外さないのが本物の狙撃手である自負も発射した弾に込めた。
ダズンと高鳴った空圧の硝煙は、発射残渣も渦巻く雲の尾を引き。空となった薬莢だけが、カキンコロリと甲板に当たって転がってゆく。
この年、十四番目に飛来した外来種ナンシー目掛けて、先端の鋭い鉛の弾がかっ飛び着弾。
「ヒュロロロロン!」
甲高く喉を転がして啼いたナンシーは、溶岩流に似た熱く滾り流れる体液と、海水に触れてどす黒く変色して硬化させた溶岩石の体をよじらせた。
雨水と海水を滴らせ、熱気に当てられた蒸気がシュウシュウと沸き立つこめかみに打ち込まれた衝撃も気に入らなかったのか、グレヴリーが乗艦している駆逐艦目掛けて鉄槌の拳を振り下ろす。
それを良しとしなかったのは、駆逐艦と対角線上にいたもう一隻の、駆逐艦甲板からの発砲である。
「ジル! 目だ、目を狙え!」
海水でずぶ濡れのグレヴリーからアドバイスを受けたジルは、迷わず狙いをその目に定めた。こちらも高波を受けて大きく艦体が揺れ、視界に海水が混じろうとも狙いだけは外さない。
「ピュロロロロン!」
ごつい風体に似合わず、可愛らしい高音をころころと鳴らして大きく身をよじったナンシーは一度、深い海底にその巨体を沈ませた。
「くっそ! 潜った!」
この辺りの海底は入り組んでいて、しかも深い。
「ファーボスロット、追跡できてるか?」
グレヴリーの問いかけに対してフィーニーは驚き、おどけた。
『――誰に言ってんの?」
「お前だよお前。ナンシーの飛来に、つい数時間前までシグナルロックできなかった、寝坊助フォックストゥーのスロットさんだよ!」
『――何それ。言っとくけどね、こいつが飛んで来た到来形跡、全くないんだからね? 硬化前の飛行跡も残らないもの、どうやって捉えろっていうのさ。全く! 西に向かって進行中!』
「西だと?」
護衛艦上に移動指揮所を構えていた碎王が鋭く反応していた。行く先には日本がある。――こいつもまた、あすこが狙いか?
思案する隣で宗谷も答えを導き出すかの、指揮台パネルの上に予想進路を描いて見せる。
「このまま行けば、首都圏北部というよりも、南部房総半島付近ですね」
「どの道、近づけさせる訳にはいかない」
顔を上げて作戦参謀を見やる。
「宗。念のために注意報を発令しろ。各本面への喚起もな。陸地までの距離、千五百を切ったら該当沿岸地域に警報を」
碎王は告げながら自身も荒れる外へと赴き、泣きっぱなしの空を見上げた。
「アロウズ。ナンシーの侵攻を何としてでも止めろ」
『――オゥケィ、シーラワン。弾幕発破で進路を逸らそう』
七両編成の空飛ぶ列車、ピックスが高い上空より滑空してきて、海中を潜行しているナンシーを追い越した。
そして車体下より海面に向けて投下された爆薬が順次、海面下へと潜ってゆけば。一定の深度で連鎖的に爆発した衝撃ボムの圧は巨大な水壁ともなり、真っ直ぐに進んでいたナンシーは巨体を曲げて進路を南下させた。
『――ゴッズワントゥー。そっちへ行ったぞ?』
半円を描いたその先で、回頭していた二隻の駆逐艦が正面から迎え撃つ陣営となる。とは言え、相手は深海を潜水中だ。海面際を叩いても、何らダメージを与えられるとは思えない。
「どうする大将?」
戦況をその目で確かめるべく、護衛艦の発着甲板に姿を現した碎王が。その淵へと歩みながらグレヴリーの問いに答えた。
『――外すなよ?』
偉大なるシューターたちはその一言で愛銃を構え、グリップを握り直す。ただでさえ波は荒く足場も悪いのに、駆逐艦とはいえ転覆しないかの心配も募る。けれど、スコープを除く目には真摯が宿る。
「いつでもいいぜ?」
碎王は甲板の先端で、肉付きのよい体格にて足場を固めた。静かに、沸々と燃える闘志を開いては握った拳に込めて。ゆっくりと腰も落として構える。
――そこだ!
気合も充分。碎王、渾身のパンチが振り切られた。
大きな高波と高波を含めて叩いた透明な圧壁の影響は、海中を進んでいたナンシーにも及んだ。
突然、目には見えない重たい圧が真横から襲いかかり、どてっ腹がくの字に押されてそのまま。大量の海水ごと海面上へ押し上げられる大きな流れに身を任せるしか術はなく。あっという間に海面どころか、溶岩石に似た巨体は、浮上した大量の水柱共々、宙を舞っていた。
そこで待っていたのは散弾の嵐でもあった。叩き付ける雨粒に混じり、外来種の息の根を止めるべく撃ち鳴らされる発砲の快音。
駆逐艦からも、護衛艦の脇を固めているイージス艦からも援護射撃が放たれて。号砲の集中砲火を浴びたナンシーは、ヒュロンヒュロンと泣き喚きながら海面へと落下した。
巨体の落下を受けとめた海面が、再び大きく水柱としぶきを上げては撒き散らし。もともと時化ていたところに発生した大波も加勢して、近くの駆逐艦もその余波を受けて大きく傾く。
三十度近くにまで艦体が傾き、手近な手摺りに必死と掴まるグレヴリーが吠え上げた。
「これでどうだ!」
ナンシーが一直線に海底へ向けて沈んでゆくものを、宗谷はレーダー監視で見つめている。
「深度百……、二百……。このまま海溝に落ちて、朽ちるのなら構いませんが。そこから汚染が広がったり、万が一にでも、深海で復活繁殖でもされたら後あとやっかいですよ?」
碎王は甲板から、中の様子は窺えない移動指揮用コンテナを顧みて両手を広げた。
「どうしろって?」
やってしまったものは仕方がない。宗谷も判断にあぐねた。要はこのまま、ナンシーが完全に沈黙してくれば人類的には問題ではない。しかし、その後の処置を軽んじ、ないがしろにした所為で、地球にも黒点が生まれてしまった事実も拭えない。
お願い。どうかこのまま永遠に眠っていて――。宗谷が願いを胸中に抱いた時に、淡くも打ち砕く通信が割り込んだ。
『――ナンシー、深海を進行中。進路、再び北上、北北西』
やはり。そうは簡単に相手も種の保存を諦めないかとする困惑も交差した。
「くそったれ!」
何せ遥か彼方の膨大な宇宙を横断してまで、繁殖に相応しき星であると選び、この地球目指して飛来して来ているのだから。飛来外来種の退治が、如何に困難を極めるものであるのかを示す戦いでもあった。
これから世話になる寮へと赴いた夕夜は、寮長への簡単な挨拶や学校関係者らと手続きを済ませたその足で、近くの人工島を訪れていた。
こうして気ままに、どこかへふらりと出かける感覚を取り戻せたのも嬉しくて、空模様が多少荒れていようと関係なかった。
寮長に言われた夕食までにはまだ時間がある。陸から人工島へと渡る唯一の橋を徒歩で渡りながら、ふらふらと公園を散策しようと試みる足取りも軽い。
途中、早々に店仕舞いをしかけていた売店で、小腹を満たすおやつを購入してみたり。傘をくるくる回し、わざと大きな水たまりを踏んで遊んでみたりする、これまで躊躇していた何気ない動作や日常を送れることが、とてつもなく嬉しかった。
すれ違う人もなく、島の最端部までやって来た夕夜は少々荒れている海洋を見渡した。波浪警報も出されている天候の所為か、休日なら沢山の人出で混雑しているそこも、今日に限っては貸し切り状態だ。
霧がかり、荒れている水面を一人眺めた夕夜は、己の心もあの荒波のように荒れていたのだろうと思いを寄せる。
けれどもう、何も悩む必要はなくなった。何も気にしなくて良いのだと思うと、ふいに笑いもこみ上げる。
「あ……」
そこで空がピカリと光り、ゴロゴロと鳴ったことに気が付いた。――しまった。浮かれすぎて、雷雲が近づいて来ていることに気づくのが遅れてしまった。
その沿岸地域に外来種飛来注意報が出されていることも、スマホなどの情報端末を何一つ持たない彼には、外出を控える注意喚起も伝わっていなかった。
夕夜は急ぎ足で寮まで戻ることだけを考えた。けれど橋へと戻る途中で雨脚が一気に強まり、また強く光った稲光に目元と口元もきゅっと結んで足が竦んだ。小さい頃から、雷が大嫌いだった。腹をくすぐる大きな音も、大の苦手だ。
ひとまず、急激に強まった雨風と落雷を凌げそうな公園トイレの軒下に避難して。強い風に煽られて飛んでゆきそうな傘を畳む。既に足元はおろか服もびしょ濡れとなり、急激に体温が下がってゆくのを感じても。轟く雷鳴が近すぎて、そこを一歩と動けなくなってしまう。
だのに、そんな時に限って急を知らせるサイレンが鳴った。
「え?」
こんな所で。こんな時に。それを認識する間もなく、時化る向こうからやって来るものが、びりびりと伝わっても来た。
――こっちへ来る。逃げないと。そうは思っても竦む足は動かない。
そうした時に、ふと。吹き付けていた風がやんだ。
「……?」
上空の寒気と暖気がぶつかり合って急激なダウンバーストを引き起こしていた気圧の颪が、ぴたりとやんだ。
頬にかかっていた海風のしぶきさえ無風となって。雨がやんだ。
雨雲はどこへ行ったと考えた、その時に。暗雲であったその空より、真っ赤なマグマの塊が降って来る光景と目が合うのだった。
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