第二十二話 想い
「……分かったデス。少し、考えさせてください」
そう答えてボク――アンジェリカは電話を切った。そして、そのまま立ち尽くす。
正直なところ、頭の中は滅茶苦茶。さっきまで空っぽだったはずなのに、胸の奥から色々な気持ちが溢れて、混ぜこぜになって、それで――
「ボクは、どうしたらいいデスか……?」
人気の少ない空港。
台風のせいですでにボクの乗る予定だった便は欠航が決まっていた。それでも、それなのにどうしてだろうか――何をすればいいのか分からない。身体が動かない。
だって、信じられないことを言われたのだから。エニシちゃんが、ボクの探していた神様で、今日中には消えてしまうかもしれなくって、だからユイちゃんは――
「…………っ」
そこまで考えると息が詰まった。何かが爆発しそうになる。
遅すぎた。何もかもが遅すぎた。今となっては遊んでいた、楽しかった時間でさえ恨めしい。いいや、そもそもボクは、ボク自身の心を大きく。
「間違え、ちゃったデスね……」
最初は見られたくないところを見られ、焦っていた。でも、彼と話しているうちに、これは最後のチャンスなのかもしれない、そんなことを考えるようになってしまっていた。
だけど、あの時ようやく気が付いた。ボクはその時すでに彼に惹かれていた。その、まっすぐな優しさに。見返りを求めない、その純粋な温かさに。
だけれども、ボクはそれに蓋をして、打算的に利用しようとした。
そう。だからもう、全部手遅れに――
「間違えてなんか、いねぇんじゃないかな?」
「……え?」
その時だった。見送りの友達はみんな帰ったはずなのに、ただもう一人だけ、学校の制服を身に着け、眼鏡をかけた男の子がいた。えっと、たしかこの人の名前は――
「雄山だよ。ヒドイなぁ……遊びも行ったし、オフ会でも一緒だったのに。まぁ、とても話しかけられるような表情じゃあ、なかったけどね」
「え? あ、そ、そうだったデス、か? すみません、あまり……」
記憶になかった。そうか、あの無理に参加することになったオフ会にも、いたんだ。
ボクとエニシちゃん――二人の約束を反故してしまう一因にもなったオフ会。よくよく考えると、やっぱりあの時から――
「――だーかーらっ! 間違ってなんかいねぇっての!」
ドキリとした。考えの先回りをされたのだから。
うつむき気味だった視線を持ち上げると、そこには面倒くさそうに頭を掻く雄山くんの姿があった。「ったく、どいつもこいつも」とか、何かを呟きながら。
しばらくそうしてから、彼はボクに向かってこう訊いてきた。
「さっきの電話、アレって鵜坂からだろ? それで、予想するにエニシちゃん関係の話」
「……どうして、そう思うデスか?」
見事に言い当てられたボクは言い淀み、それが答えになってしまった。雄山くんはそれに目ざとく気が付いて、こちらの質問には答えずに話を続ける。
「三人の間で何があったかは知らねぇけど、さ。少なくともキミがやってきたことは間違いなんかじゃない。失敗をしただけだって、思うんだよ。俺はね」
「――っ! ボク達のなにを知って――」
「好きなんだろ? 鵜坂のこと」
「――……えっ?」
思わず食ってかかろうとしたら、その一言で怯んでしまった。そして――
「それで、親友のエニシちゃんとの三角関係――+αってところか」
そこからは、雄山くんの独壇場だった。
「エニシちゃんのことも好きだし、鵜坂のことも好きだし、この間遊びにいった時楽しかったのも当然、嘘じゃない。――ほら、どれも間違ってなんかないだろ?」
それに、と。付け加えるように、彼は言った。
「鵜坂は、嘘をつくような奴――そもそも、つけるような奴なんかじゃない」
自信満々に。それこそ、間違いなんかじゃないと、言わんばかりに。
そして、それを聞いた瞬間ボクの胸の奥がまた、騒ぎ始める。押し留めようと、忘れようとしたはずの気持ちに、再び火が灯っていくのを感じた。
――もう。分かっていた。
「どうして、そう言い切れるデスか……?」
それでもボクは最後に、彼へ一つ問いかける。そして、その答えを聞いた瞬間――
「――だって、キミは鵜坂が嘘をつくと思うか?」
気付けばボクは、あの場所へと向かって駆け出していた……。
◆◇◆
「その辛そうな顔から察するに、イズモからすべてを聞いたようだな。……あの日、この場所で、いったい何が起こったのかを」
「…………あぁ」
よほど酷い表情をしていたのだろう。エニシは俺の顔をまじまじと見つめた後、笑みに僅かに曇らせながらそう言った。俺は緊張に喉を振るわせつつも、少女にそれを悟られぬように短く返答する。――が、そこはさすがに、倍以上の時間を生きてきた神様と言ったところか。
「ふふっ……まぁ、そんなに緊張するな。そのことでユウを責めたりはしないし、それに儂もイズモから、レディの素性や、お主が彼女と話した内容について聞いたからな。お互い様だ」
あっさりと若輩者の強がりを看破し、小さく笑った。
そしてエニシもまた心を静めるように、息をつきながら目を閉じる。うつむいて胸に手を当て、しかし次に面を上げた時、彼女の円らな瞳に宿っていたのは覚悟だった。
否が応にも鼓動が速くなる。
「ここは、儂の空間――心象世界だ。だから、儂が会いたいと思っている者しか入ってこられない。すなわち、ここには……最期の時まで儂とユウの二人だけ、ということだ」
左右の手を目一杯に広げて、エニシは言った。そして、
「ユウ? お主だけには、聞いておいてほしいのだ。――儂の、拙い一人語りを……」
少女は、切ない表情で語り始める。
――……心の、すべての膿を吐き出すようにして。
「儂は、初めての『縁結び』で失敗した後、神の世界――神界に引きこもった。……簡単に言ってしまえば、逃げたのだ。己の身に迫りくる消滅の危機と、彼が死んでしまった現実と、そして何よりも――千枝子の追及から、な。ここで儂は、神としては死んでしまった……」
エニシは向かって左側へと歩いていく。
その先には件の樹があり、悠然と俺達のことを見下ろしていた。
「千枝子さん――って、アンジェリカの?」
「ふふっ……やはり縁というものは、難解なものだな。まさかこれだけの時間を経て、その孫と知り合うのだから。……それに――」
俺が尋ねると、彼女は同意しながら大樹の無骨な肌を撫でる。次いで、半身の体勢となってこちらを見た。――じわり、瞳を潤ませ。ゆらり、瞳を揺らして。
「……皮肉な話だと思わないか? 気まぐれで相談に乗ったら、それが儂自身の捜索だったのだぞっ!? これほどよく出来た喜劇は、滅多にお目にかかれないだろうなっ!」
自虐的にエニシは笑ってみせるが、俺はくすりとも出来ない。
なぜなら、彼女の選んだ言葉の中には承服できないモノが一つ、紛れていたから。
「……そんなわけ、ないだろ」
――……アンジェリカの相談に乗ったのが、気まぐれ? そんなわけない。
今ならば、よりしっかりと理解できる。――エニシは純粋な優しさと、同時に、その相談に自らを投影していた。無意識下で、誰かに見つけ出してもらいたかったのだ、と。
その証拠に――
「ネトゲならば、他者と直接的に関わることがないからと油断していた。その者の人生に影響を与えることは、少ないから――しかし、見通しが甘かったようだな」
――彼女は、根柢の部分で人との関わりを求めていた。
寂しかったのだ。人と関わることに恐怖を抱きながらも、どこかで人の温もりを忘れられない。そのためエニシは、ネトゲという限られた空間に繋がりを求めたのだ。
少なくとも、俺の目にはそのように見えていた。だから――
「だったら、どうして――」
俺は、少女に質問をぶつける。
「――俺の部屋に来たんだ? どうして、外に出ようと思ったんだ。もしそうなら、わざわざ出てくる必要はなかったんじゃないのか?」
「…………………」
それを耳にするとエニシの動きが――ピタリ。止まった。
こちらから目を逸らして、唇を噛む。樹に触れている手をグッと握りしめた。
「昨年の夏に、千枝子が亡くなったのが分かった。……そして、儂の存在を維持していた彼女の願いも力を弱くしているのも感じ取った。肩の荷が下りたのだ。だから――」
外へと目を向けられるようになったのだ、とエニシは言った。
ふっと息を吐き出す。――おもむろに上げた視線は、穏やかに、あの場所を捉える。
「……だが、な。儂はまだどこかで、あの日のことを恐怖していたのだろう。ここへ直接に足を運ぶ勇気が、そのあと一歩が、どうしても踏み出せなかった。しかし――」
そこでようやく、彼女は俺へと目を向けた。
表情は明るく前向きに、満面の笑みを浮かべて。だが――
「一昨日のユウの言葉で、お主の肯定の言葉で……儂は前に進むことが出来た。決心がついたのだ。偶然から始まったことだが、ユウと出会えて、儂は本当によかったと思っているぞ」
「――――――――――」
――飛び出したのは、まったく嬉しくない言葉だった。
違う。そうじゃない。俺が言いたかったのは、そういうことじゃないっ!
俺は決して、こんな過去に囚われるために言ったのではない。もっとエニシが前向きに、未来へと歩むことが出来るよう祈りを込めて伝えた――つもりだった。
悔しさに、唇を噛む。口内に血の味が広がっていく。
「――……違う」
それに、そもそも――
「おかしいじゃないかっ! なんでお前が消える必要があるんだよ! 今から、これから新しく始めていくってことじゃ、駄目なのかよっ!?」
どうして、これほどまでに苦しんだ少女が報われないのか。――なぜ無実の少女が、これほどまでに孤独にならなければならないのか。俺にはその理由が、皆目見当もつかなかった。
「どうして、もっと怒らないんだよ……理不尽じゃないか! こんな――」
思わず声を荒らげ、憤りを吐き捨てるように叫ぶ。すると――
「――そうではない。そうではないのだ……ユウよ」
小さくとも、よく通る声で遮って首を左右に振った。そして――
「そうではない。それでは、駄目なのだ。これは……儂の罪滅ぼし、なのだから」
「罪、滅ぼし……?」
エニシのその言葉を聞いた瞬間、俺はようやく理解する。
「あぁ……――」
どうして彼女が、すべてを受け入れようとしているのか、を。
俺は、エニシはもっと怒っていいはずだと、被害者である少女には怒ってしかるべきだと思っていた。それなのになぜ、エニシは怒りを見せないのかと不思議に思っていた。
だが、それは大きな間違いだったのだ。
エニシが怒らない理由。それは、彼女自身が――
「儂のせいで、二人が不幸になってしまったのだから、な……」
――……あまりに優しく、そして甘かったから。
エニシ自身が、あの一件をすべて自分の罪だと思い込んでいるためだった。彼が暴走したからではない。――すべては、自分が断ったせいだと。彼女はそう思っていたのだ。
「だから、俺の告白も……?」
「あぁ……聞いてしまえば、あの時と同じになってしまう。愚かなことを繰り返さないためにも、答えを出さないまま消えてしまうのが一番いい方法だった」
そのために、少女は罰を受ける。
「ユウよ……儂はお主にまで、不幸になってほしくはないのだ」
――……慈悲深い、微笑みを浮かべたまま。
「馬鹿、やろう……っ!」
俺は強く、拳を握りしめた。
手のひらに爪が食い込み、肉を抉っていく。
しかしその痛みでも、震えは止まらなかった――俺は、苛立っていたから。
「そうだな。儂は大馬鹿者だ。どうして、この話をお主にしようと思ったのか――」
「――違うんだよ。エニシ……お前は、大きな勘違いをしているんだ」
腹が立っていたのだ。この少女に。
全部を小さな背に背負い込んで、一人で苦しんでいる優しい女の子に。
「えっ……? な、にを……」
こちらの言葉が想定外だったのか、エニシは当惑の表情を浮かべた。
その揺れる瞳をまっすぐに、一直線に見つめ返す。そして、俺はたしかな自信を胸に言い放った。――エニシは、大きな見落としをしているのだ、と。
なぜならば――
「俺は別に……お前にフラれたからって、いなくなったりしないぞ? それに、好きでもない相手から告白されたら、断るのが当たり前だろ」
――と。そう、笑ってやったのだ。
お前が誰との交際を断ったところで、何の罪にもならないのだ――と。
「なっ……!?」
俺の言葉に、エニシが声を震わせる。明らかな動揺を見せた。
「な、何故そのようなことが言える!? どうして、いなくならないなどと、断言できるのだっ! ……どうしてっ!」
肩で呼吸をし始めた少女の黒き瞳には、驚愕の色と――そして、微かな期待か。信じられないという感情と同時に、眼差しには、救われたいという願望が潜んでいる。
そう、俺には思われた。だから――
「そうだな……――」
顎に手を当てつつ、素直な気持ちを述べることにする。
エニシがいなくなってから、地獄のように長かった時の中で感じた思い。そして――
「少なくとも、俺にとっては――自分がフラれて辛い思いをするよりも、自分の大好きな女の子が、不幸になってしまうことの方が何倍も、何十倍も、辛いからな」
――それはきっと、あの男性も同じ気持ちだった。
彼の取った行動は褒められたものではない。それでも、その行動にあった気持ちは――エニシに消えてほしくない、エニシを救いたいというものだった。そう俺は思っている。
でも、彼の強引なやり方は――悲劇を生んだ。
彼はきっと、エニシが消えてしまったと勘違いしたのだろう。自らの行いで、大切な人が傷つき、いなくなってしまった。その自責の念が、彼を追い詰める。
そして、それが――
「――――――――――」
――……今ここで口を噤み、うつむいた少女へと繋がったのだ。
過去の記憶の中での仲睦まじい三人の笑顔からは、互いを陥れようなどという黒い感情は見て取れなかった。つまり、どれもこれも間が悪かっただけの結果。悲しいすれ違いが重なってしまった――言ってしまえば、ただそれだけの話だった。
「エニシ。お前は、そんなに肩肘を張る必要はなかったんだよ。……お前は、何も悪いことはしていない。一人で抱え込む必要なんて、なかったんだ」
だから、もう彼女を解放してあげたかった。この呪縛から。
そう思いながら、話しかけると――
「――エニシっ!?」
突然に――少女は、その場に膝から崩れ落ちた。
俺は慌てて駆け寄ろうとする。――が、
「――だ、大丈夫だっ! す、少しだけ足に力が入らなく……なっただけ。大丈、夫……」
エニシはうつむいたままで声を張り上げ、こちらに手を突き出した。
するとすぐに、俺はあることに気付く。それは――
「エ、ニシ……っ!? ――お前、手が……っ!」
――エニシという神様見習いの消滅……その、始まりだった。
こちらへと向けた小さな手からは、淡く、白い光が漏れ出している。見ればその手先や足先は、空気に溶けるように輪郭――色を失い始めていた。
そのことに、彼女も今になって気付いたのだろう。じっと手を見つめて、苦笑する。
「ふ、ふふっ……そうか。これが――消滅、か」
「っ! ――エニシッ! 早く、答えを聞かせてくれっ! そうすれば……」
恐怖に怯えた表情を浮かべながらも、どこかのんびりしている少女を急がせた。
せめてでも、答えを聞かなければ終われない。それに、返答次第ではこの消滅だって止まるかもしれない。――だから俺は、何度も繰り返し、エニシに呼びかけた。
すると彼女は、数秒の後にようやくこちらを見て――
「……すまないな、ユウ。ありがたいのだが、やはり答えることは出来ぬのだ」
――……そう言った。
信じられず、一瞬――思考停止。
「えっ……? どう、し……て……?」
そんな俺に、エニシは遠くを眺めながら話し始めた。
「二人を不幸にしたことへの罪滅ぼし――と、言っただろう? さぁ、ここで問題だ。儂は本来、もっと早くに消滅するはずだった。それなのに何故、今まで残っていたと思う――?」
「――――――――ぇ、それって……」
消えかけの五本指で制限時間を計るエニシ。しかし何も考えられず、答えられずに俺は時間を無駄にした。そして最後の一本が折られた時、
「ブッブー……時間切れ、だな。それでは、時間もないから正解発表に移ろうか」
まるで遊んでいるかのように、手でバツを作って彼女はそう告げ――
「正解は――千枝子が、儂のことをずっと恨んでいたから、だ」
間髪を入れず、さらっと当然のことのように話す。
さらに、そこから彼女は言葉の速度を上げて、こう続けた。
「神が存在を維持するためには、信仰心――すなわち、人の思いが必要になるのは知っているだろう? ……だがな、これは別に純粋な願いに限った話ではないのだ。千枝子が儂のことを恨み続けていたから存在出来ていたと――そう考えても、何ら不思議なことではない」
「そんな……っ! それは――」
そこでやっと物を考えられるようになった俺は、すぐさま否定の言葉を紡ごうとする。しかし途中で言い淀み、唇を噛むことになってしまった。
なぜなら、これは俺が否定したところで、意味がない。
適任者――千枝子さん本人の言葉でないと、届くことはないのだ。
「ユウよ……だから、儂には『幸せになる権利』がないのだ。――……すまない」
そしてまた、少女は謝罪の言葉を口にした。――もう、聞きたくないのに。
だったら、どうすればいい? どうすれば、エニシの心を解放できるのか。そのためには、千枝子さんの言葉が必要だ。だけど、そんな都合のいい物を――
「あっ……! ――そうだ。アンジェリカの、手紙に……っ!」
――俺は、知っていた。
それは千枝子さんから、孫娘のアンジェリカへと送られた手紙。その中にはもう一通、別に友人――エニシへの手紙も同封されていた。それにならば、彼女のエニシへの思いが込められているに違いない。そう、確信した。
「……レディの、手紙?」
こちらの声に、少女はピクリと肩を弾ませる。――ほんの少し、瞳が輝いた。
「あぁ、そうだ。アンジェリカが、千枝子さんから受け取った――エニシへの手紙だ」
「千枝子から、儂への……? ――っ!」
次いで、そう伝えた瞬間――少女は、腕を組むようにして身体を抱きしめた。
息を呑み込み、今までになく身体を震わせる。そして――
「いやだ……そんなの、読みたくない。レディにも、会いたくない……」
絞り出すようにして、そう言った。
その姿はまるで、鬼を恐れるような子供――いや。それは比喩ではなく、その通りだった。
自身に向けられているであろう敵意を恐れるのは、至極当然だ。そしてエニシはまだ、まっすぐ過ぎたために、それといかにして向き合うべきかを知らない。――未熟だった。
まぁ。未熟な点は、俺も人のことを言えた義理ではないけど……。
「怖い……怖いのだ。ユウよ、やめてくれっ……」
だけど、そんな未熟な俺でも分かるのだ――エニシは、嘘をついている、と。
アンジェリカの名前を聞いた時、目に光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。そして天邪鬼な彼女は、千枝子さんの手紙も、本心では読みたがっているのだ。
その確信を胸に、俺は――
「――――――――――――」
最初に、大きく下手を打っていたことに気が付いた。
俺には、アンジェリカへの連絡手段がない。一縷の望みをかけていたスマホも、この空間へ入る瞬間に落としてきていたのだ。なんと、間抜けなことだろうか。
それではもう、あとは祈るしかない。――神様に。
アンジェリカが、あんな嘘みたいな話を信じてくれること。
エニシが、アンジェリカがこの空間へと足を踏み入れることを許すこと。
そして、千枝子さんの手紙の内容が、俺の望んでいる通りのものであるということ、を。
俺だけの力では、どうしようも出来ないことばかり。冷静に考えてみれば絶望的で、上手くいこうものなら『御都合主義乙www』などと、笑われてしまうかもしれない。
でも――
「それでも、いいじゃないか」
不思議と、心は落ち着いていた。
信じていたのだ。すべてが上手くいくだろう、と。
過去の悲しい記憶も、すれ違った思いも、辛くて流した涙も――それらすべてが、きっと明るい未来へと繋がっていくのだと、俺は信じていたのだ。
その理由は、とても単純なもの。
だって、これは――
「――――……エニシちゃんっ!」
――……そういう『縁』、なのだから。
声のした方へと振り返ると、そこにはアンジェリカが立っていた。
「えへへっ! ちょっとだけ、遅くなっちゃったデスね……」
膝に手をついて息を乱している。紺色のセーラー服や綺麗な金髪も、すべてがぐしゃぐしゃになっていた。きっと、彼女もここまで一生懸命に走ってきたのだろう。
だから、そんな友人に向かって――
「いいや、大丈夫! むしろ、ベストタイミング!」
俺は、感謝の意を込めて親指を立ててみせた。
それを見たアンジェリカは笑って、俺の隣へとやってくる。そして、
「……これ。ユイちゃんの、デスよね?」
「あ、拾ってくれたのか。ありがとう……アンジェリカ」
液晶にヒビの入ったスマホを差し出す。それは間違いなく、俺が鳥居の前で落とした物であり、どうやらそのことが逆に功を奏したらしかった。
――今。風は確実に、俺達の方へと吹いてきている。そう直感した。
「――――……どうし、て?」
俺とアンジェリカのやり取りを眺めていたエニシが、唐突にそう呟く。
ついに全身から淡い光を放ち始めた少女の顔には、名状しがたい感情の色が浮かんでいた。それは不安であり、困惑であり、恐怖であり――しかし一番大きいのは、喜び。それなのに、エニシはぐっと、それを抑え込むようにして唇を噛みしめていた。
「エニシちゃん? ボク……オーマから、手紙を預かってきたデス」
少女の問いかけに答えたのは、アンジェリカ。
彼女は懐から一枚の紙を取り出して、エニシに見せた。その淡々とした、起伏のない口調には、俺までもが思わず緊張してしまう。――が、しかし。今は無為に口を挟むべきではない。
そう考え、二人の少女を見守ることに決めた。
「千枝子……の、手紙――っ!」
アンジェリカの言葉の意を察したのか、エニシの表情が曇っていく。
嫌々と、首を左右に振って拒絶しながら、少しずつ後方へ。そして背中を樹に預ける形となってからは、頭を抱えて、小さく声を漏らし始めた。
だが、その異様な怯え方を目の当たりにしても、アンジェリカは驚くことはない。むしろより機械的に、無表情に、読み上げる準備を整えていった。すると――
「――――――――」
ぞくり――と。
それを見た俺の背中に、冷たいものが流れ落ちていく感覚があった。
もしかしたら、書かれている内容は――エニシの言うように、恨み辛みの類なのかもしれない。そんな悪い予測が、弱気が、頭の中を支配していったのだ。
本当にそうだったら――と。後ろ向きな考えばかりが、生まれては消えていく。
だが、しかし――
「……読み、マスね?」
もう、後戻りはできない。俺は血のにじんだ手を今一度強く握りしめ、息を止めた。
それに対してアンジェリカは一度、大きく深呼吸をする。
「い、や……やめ、て……っ!」
耳を塞ごうとするエニシ。
だけれども、その訴えを無視して、最初の一文は読み上げられる。
そして、その瞬間に――
「――……『親愛なるわたしの神様へ』」
「ぇ……?」
緊張の糸は――プツリと、切れた。
完全に力の抜けたエニシは、口を開けたまま、手紙を読み上げるアンジェリカを見つめている。――信じられない、といった表情で。ただただ呆然と。
エニシの心であるこの空間に響くのは、アンジェリカの声だけとなった……。
『一緒に過ごし、遊んだ日々からもう何十年もの月日が経ちました。
信じてもらえないかもしれませんが、わたしは今、日本から遠く離れた国で生活をしています。そこで結婚して、子供を授かって、そしてもう皆からオーマと、呼ばれる歳になりました。
昔の、泣き虫だったわたしからは、想像もできないでしょう?
ですが、そんな今でもあの日々のことは、昨日のことのように思い出せます――』
……その手紙には旧友への、親愛の情が詰まっていた。
『――だからこそわたしは、貴方に謝らなければなりません。
あの日のわたしは、あの人を失った悲しみから、貴方を責めてしまった。貴方には何の責任もないのに、悪くないのに、誰かに気持ちをぶつけたくて仕方がなかったのです。
そして、あの人の遺書に、貴方を傷つけたことへの後悔が書かれていたのを見た時に、自分のしたことの愚かさを知りました。わたしは、自分のことしか考えていなかったのです。
今さら遅いのかもしれませんが、本当に、ごめんなさい――』
……その手紙には旧友への、謝罪の思いが詰まっていた。そして――
『――わたしは、貴方のことが心配でなりません。
貴方は誰よりも優しくて、まっすぐで、責任感が強かったから、一人で抱え込んでしまっていないか心配なのです。そのせいで貴方は、自分が幸せになる資格はないと、そう考えていないかが気がかりでならないのです。
先に述べた通り、わたしは今、幸せです。
誰よりも幸せになったと、自信をもって言えます。
ですから……――』
「デスからっ……――」
――そこで、気付いた。
隣で手紙を読み上げていたアンジェリカの瞳に、大粒の涙が浮かんでいることに。
それはもう、千枝子さんだけの言葉ではなくなっている証拠だった。アンジェリカは、千枝子さんに頼まれたから、それだけでここにいるのではない。
彼女は、彼女自身の友人のために言葉を贈っていた。
「アナタっ……エニシちゃんは、エニシちゃんの幸せを……掴んでください――」
そして、最後の言葉を口にした時――
「――……決してっ! 自分を嫌いにならないでくださいっ!」
――……一気に、涙が頬を伝っていった。
友達のことはどうでもいい――なんて、悲しい嘘はどこにもない。
世界を包み込み始めた白い光も、今になったら、アンジェリカの運んできた真心なのではないかとも思える。――それほどまでに、彼女の言葉は温かかった。
「千枝子……レディっ……――」
そして、それは――
「アンジェリ、カ……あ、ああぁっ――――――――――ッ!」
――しっかりと、届いた。間に合ったのだ。
エニシはこれまで我慢してきた感情を吐き出すように、泣きじゃくっていた。まるで赤ん坊のように。そして、二人の友人の名をしきりに、愛おしむように繰り返していた。
その姿を見て、俺はただただ――あぁ。よかった、と。心から思った。
手遅れにならなくて、よかったと。
「……ユイ、ちゃん。はやく、行ってあげて」
――だけど、まだ終わりじゃない。
それを思い出させるように、アンジェリカが俺の背中を押した。何かを堪えるような声で、思わず振り返りそうになってしまう。それでも――
「……振り返ったら、駄目デス。エニシちゃん、だけ見て」
「あぁ、分かってる。……大丈夫だよ」
俺は前を向いた。
大樹の足元で泣いている少女だけ――エニシだけを見ると、そう決めたから。だから振り返ることはしない。アンジェリカのためにも、そうするべきなのだと思った。
だけど、最後に一言だけ――
「ありがとうな。……アンジェリカ」
それだけを伝えて、俺は歩き出す。背中に――
「…………バカ」
という、拗ねたような彼女の声を聞きながら……。
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