第二十話 エニシの過去
――気が付くと、そこには不思議な光景が広がっていた。
「これは、夢……?」
思わず口をついて出たのは、そんな表現。だが、そうとしか言えなかった。
俺が立っていたのは、四方八方、どこをどのように見回してもセピア色の世界。頬をつねってみても痛みはなく、それどころか触覚も完全に遮断されている。そのため、俺だけはどうにも空間に馴染めず、宙に浮いて俯瞰しているような感覚だった。
『鵜坂さんには今から、とある映像を見ていただきます。それは、過去の記憶……』
「……イズモさん?」
立ち尽くしていると脳内に、先ほどのように声が響く。しかし今回はイズモさんの姿は見えず、それを受け取るだけ。要するに、こちらの声は届かないようだった。
ほんの少しだが、気味悪くも感じる。だが――
「過去の、記憶……?」
もしかすれば、現状について解決策を得ることが出来るかもしれなかった。だとしたら、ここは小さなことに構っている場合ではないだろう。そう考えて、俺は気持ちを切り替える。
そして――
『貴方には、エニシさんの身に何があったのか。どうして彼女が、あのように人との接触を避けるようになったのか――その、すべてをお見せいたします』
そんな、一方通行な声が途絶えた瞬間――風景が、その形が変わった。
「くっ! ――えっ? ここって……」
一時的な眩暈を耐えると、そこにあったのは綺麗な神社だ。鳥居から拝殿まで、そしてそれ以外の場所にも手入れが行き届き、雑草などはしっかりと刈り取られている。木々も、乱暴に手を伸ばすのではなく、それぞれが他に気を配っているように感じられた。
まったく知らない景色。だが俺には、確信に近い既視感があった。
そう。ここは……――
「新星の……アンジェリカの、おばあさんが神様と出会った場所」――だ、と。
言った瞬間――ぞくり。身の毛がよだつような思いがした。
まだ理解には至っていない。だが確信めいた予感が、俺の中で声を上げるのだ。――本当はもう、答えは分かっているのだろう? と。そう言って嘲笑っているのだ。
そうして、そんな風に俺が思考していると――
「女の子……あれは、もしかして――」
おかっぱ頭をした女の子が一人、オドオドとしながら入ってきた。
彼女はコソコソとした動きで拝殿まで向かうと、賽銭箱にお金を投げ入れる。――パンパンと、二回拍手をしてから深々と頭を下げていた。
真剣に願う姿には、少女の切実な思いが表れている。
『よく、見ていてくださいね。これが、神の誕生する瞬間ですわ……』
つい呼吸を忘れてしまっていた俺に、イズモさんがそう言った。
彼女が言うとすぐに、拝殿から光が漏れる。そして、その光りの中から現れたのは――
「――――――――――ぁ」
身の丈に合わない、大きな着物を身にまとった美少女。肩口までの黒髪をたなびかせ、幼さの残る太めの眉が愛らしい、小柄な女の子だった。
二人の少女は何かを語り合っている。おかっぱ頭の少女は驚き、対して着物の少女は相手の手を取り笑いかけていた。その内容は聞き取れないが、容易に想像できる。
間違いなく、それは『縁結び』についての話だった。そうとしか考えられない。
なぜなら、俺が見間違えるわけがない。
俺が――
「…………エニシ」
大切な女の子のことを見間違えるなんて、あり得るはずがないのだから。
――――
――
『エニシさんは、人の心に寄り添うべきだと考えていました。そのためには、直接に人と触れ合うことが必要であり、手を取り合う必要があると考えたのです。ですから――』
イズモさんの声に合わせて、場面が移り変わった。時間だけが前へと進み、先ほどまで少女二人だった神社には、さらにもう一人の人物が登場している。
その人物は、逞しい身体つきをした男性だった。
しかし威圧的な外見には似合わず、エニシ達と話す彼にはどこか柔らかさを感じる。気の優しい力持ちといった印象であり、思わず頼りにしたくなる人だった。
『彼女は二人の間に入って、その仲を取り持とうとしました。混じり気のない、無垢で純粋な信念のもとに、ただ一人の友人として二人の仲を応援していたのです』
「あぁ、本当に……」
俺は届かないと分かっていても、イズモさんにそう返答する。
だって、本当に幸せそうだったのだから。
二人の友人と会話をしているエニシの顔に浮かんでいたのは、迷いなどない、明るい未来を信じて疑わない――無邪気な慈愛に満ちた笑顔だった。
俺の部屋にやってきてからは、見せたことのない表情だ。そのことに少しだけ、嫉妬に似た羨望を二人の友人へと送ってしまう。だがそれよりも大きいのは、エニシが笑っていることで俺自身が満たされているということだった。
あぁ、よかった――と。
少女は生まれてからずっと、孤独だったわけではなかったのだと――安心したのだ。
それでも、まだ終わらない。終わるわけがなかった。
『しかし……それは、試験の期限が迫ったある日に起きました』
そう――俺は、知っている。
この先にあるだろう不幸の、その結末を俺はすでに知っていた。だからイズモさんの声を聞いてから一度、目を閉じてから形だけの深呼吸をする。気合を入れ直した。
そして、次に目を開けた時――
――――
――
――……神社に立っていたのは、エニシと男性だった。
名も知らぬ彼は、何かを必死に語っている。身振り手振りを加えながら、全身で感情を表現してエニシへと、己の中にある溢れんばかりの思いを伝えようとしていた。
その姿には、どこか――
『彼はある日、エニシさんに伝えたのです。――自分が本当に好きなのは、あの子ではないのだと。真に恋焦がれているのは、他でもないエニシさんなのだと……』
「………………」
そうか、と。それを聞いて納得した。
どこかで知ったと思っていたら、彼は――俺だったのだ。
昨日の俺と同じ、はやる気持ちを抑えきれずに、ただ一方的に自分の思いを伝えようとしている。だから、そこに相手を見るような余裕はなく、当然、相手の気持ちを量るなんて考えは微塵もなかった。
だから、この結果は――
『……ですが、エニシさんは頑なに拒みました。彼女には使命感があり、かつ彼に対しては友情の念は感じても、恋慕の類は抱いていなかったのです』
――明らかなものだ、と。そうとしか言えなかった。
彼に迫られたエニシは苦虫を噛み潰したような、渋い表情を浮かべている。眉をひそめ、唇を噛み、身体の前で重ねた手は、皺がつくほどに強く着物を握り締めていた。
エニシの気持ちは、ここまできたら考えるまでもなく分かる。恋愛対象として見ていない人から告白されたのだ。しかもその人は、友人が好意を寄せている相手。――彼女の中に生まれているのは困惑と、あらゆる思いがぶつかり合った葛藤だった。
だが、その複雑な気持ちは――
『しかし彼は焦りからか、エニシさんの気持ちを無視して――』
――理解されるはずなど、ない。
「――――――――――」
俺は呼吸の仕方を忘れた。
男性は酷く錯乱した様子で、鼻息荒く力任せに、エニシの小さな肩を掴む。彼女は痛みに顔をしかめる。だが、彼はそれに構うことなく、覆いかぶさるようにして少女を押し倒した。
「やめ、てくれ……」
暴れて抵抗するエニシの腕を拘束して、男性は粗暴な手つきで着物へと手を掛ける。声を上げて訴える少女の衣服を剥ぎ、屈服させようとする姿は、もはや獣そのものだった。
「やめ、て……くれ……」
やがて、少女は大粒の涙を流し始める。
頬を伝っていくそれらは、彼女の周囲に小さな水溜りを作り出す。そして――
「やめてくれって、言ってるじゃないかッ! もう、たくさんだっ……!」
――……限界だった。
俺は喉が裂けんばかりの大声で叫ぶ。
これ以上、エニシが傷付けられるのを見たくはなかった。彼女の綺麗な心が踏みにじられ、へし折られていくのを見たくはない。とても、平静を保てるような光景ではなかった。
だから、絞り出すような声でイズモさんに訴えるのだ。聞こえていなくても。
もう、たくさんなのだ。もうこれ以上、エニシの涙は――
「えっ――!?」
そして、その時だった――視界いっぱいに、光が広がったのは。
瞬間的な盲目に、眉をしかめる。そうして少しの時が流れてから、おもむろに目を開けた。
「エニシ……? どこ、いったんだ?」
すると少女の姿はどこにもなく、呆けた顔の男が一人。
俺にはエニシが逃げたのだと、すぐに分かった。同時に胸を撫で下ろす。
だがしかし、取り残された男性は何が起こったのかと、周囲を見回していた。次第にその顔には焦りの色が浮かぶ。そして、最後には大粒の涙を流していた。
泣き崩れ、彼はその場から動かなくなる。
そして――
――――
――
「――――――――――――」
――次の場面に移り変わった時、俺は声を失った。
目の前にあったのは、大きな樹。おそらくは神社の左手にあった切り株、その生前の姿だった。天まで突き抜けるほどに高く伸び、隆起した表面は雄々しさを感じさせる。同時に、ここへと訪れるすべての人を見守るような、温かさも秘めていた。
「こんなの、って……」
ようやく、そんな声が漏れ出した。
でも俺が戦慄しているのは、大樹に対しての畏敬の念からではない。
その原因は――太い枝にぶら下がり、時折、思い出したように揺れていたモノにあった。
「馬鹿、野郎……っ! なんで、だよ! ――……なんで、そうなるんだよッ!」
腸が煮えくり返る思いから、俺は激しく怒りをぶつける。
枝にぶら下がっていたモノ――それは、エニシを押し倒した男性の遺体だった。
だらりと、引力に任せて下がった手足。瞳孔を開いたまま硬直した顔。口の端からは涎ともつかない液体が伝っていた。風にたなびくその寂しげなてるてる坊主には、ただただ後悔、そして自責の念が醸し出されている。
『彼が何を思って、このようなことをしたのか……――』
久しぶりに聞こえてきたイズモさんの声。
それにはどこか、心痛とした色が浮かんでいるようにも思えた。
『――……それはもう、残された方々には知る由もありませんでした』
彼女が言うと、背後から――がさりと。何者かが地を踏みしめるような音がして、俺はゆっくりとした動きで振り返った。そして、そこにいる――
「…………エニ、シ」
少女の表情を見た時、全身には緊張が走っていく。
あの表情だ。彼女の表情は、あの日――アンジェリカと初めて会った時のそれだった。
ぼんやりと、宙をさまよう男性を見上げる瞳は虚のよう。生気の消え去った眼差しには光が宿らず、ただ目の前の事物を映像として記録していた。吐き出す息は一定のリズムを保ち、途切れることなく、延々と続いていくように思われた。――が、
「エニシ……? ――ぁ」
不意にそれが乱れる。理由は、すぐに分かった。
エニシの視線の先には、涙を湛えたおかっぱ頭の女の子――アンジェリカの祖母がいた。彼女は震える声で、エニシへと何かを訴える。だが次第に、それすら出来なくなって、その場に崩れ落ちてしまった。――細かく肩を弾ませ、泣きじゃくる。
そして、それを見たエニシは一言――
「ごめ、ん……?」
そう、口を動かして――消えた。大切な友人を一人残して。
頬を伝っていた一筋の涙は、悲しみの空気の中に溶けていった……――
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