第十八話 残されたのは……

 次第に暴力的になる風の中を急ぎ、帰宅した頃にはもう、太陽はすっかり顔を隠していた。星も見えず、月明かりもない。数少ない街灯を頼りにしながらも、煽られ、揺れ動く電線はまるで生物のようで気色が悪かった。恐怖心を喚起させられた俺は、我が家が見えるといっそうに速度を上げ、助けを求めるように玄関へと飛び込んだ。


 だが息を整える間もなく、靴を脱ぐと次の行動に移る。誰にも帰宅の挨拶をせず、はやる気持ちを抑えられず、一段、二段と飛ばしながら階段を駆け上がっていった。

 そうして衰えることない勢いで、自室のドアを押し開け、


「……あぁ。帰ったのか、ユウ。ご苦労だったな」


 しかし、エニシの姿を視界に捉えた瞬間――俺の思考は凍りついた。


 なにもエニシが特別なことをしているわけではない。赤ジャージの少女はペタンと、床に座って、いつものようにレトロな格闘ゲームに興じているだけだった。僅かに動かした視線も、こちらに向けられた声にも、いつも通りの彼女がそこにいる。


 そのせい――いや。だからこそ、と言った方が正しいだろうと思う。


「ただいま……エニシ」


 俺は、その温度差から――何をすればいいのか分からず、立ち尽くすだけになっていた。


 古い箱型のテレビからするゲームの安っぽい打撃音。そして、少女が操作するコントローラーの音。この二つが部屋の中に、淡々と、時間を食い潰すように響き渡っていた。


「む? どうしたのだ、ユウ。何故そこに突っ立っている」


 そうやって無為な時を過ごしていると、不審に思われてしまったらしい。エニシは一度コントローラーを置き、こちらを向いて言った。小首を傾げて、太めの眉を微かにひそめている。


「え……あ、あぁ。それじゃあ……」


 彼女の指摘を受けて、ようやく俺は身体を動かせた。

 しかし、どうすればいいのか分からないのは同じ。なので、ひとまずエニシの右隣に腰を下ろしてテレビの画面へと目を向けた。――すると、


「――ユウ? どうだ。たまには一つ、勝負してみるというのは」


 最初からそうしようと、決めていたように。少女は俺へ、もう一つのコントローラーを差し出した。覗き込んでくる大きく綺麗な瞳はまっすぐ、そして鮮明に、俺の顔を映している。

 一瞬見えたその表情は――酷く不安げで、自信のない。情けないものだった。


「――――――――っ!」


 直視できずに、無言で。奪い取るようにして、俺はコントローラーを受け取った。


「――うむ! それでは、始めるとするか!」


 だがそれでも、エニシは動揺することなく笑って、宣言をする。


 前を向き直った彼女の横顔には、どこか穏やかな雰囲気が宿っていた。そこにはもう、すべてを理解しているような、イズモさんにも勝るとも劣らない包容力が秘められている。もしかすると、すでに俺の迷いは見透かされているのかもしれない――そう、思わされた。


 ――瞬間。抑え付けていた弱々しい心が、顔を覗かせる。

 だから思わず――


「よし! では、儂は一番自信のあるダル――」

「――アンジェリカとは、上手くいかなかったよ…………ごめん。エニシ」


 気合を入れるため、小さくガッツポーズをしたエニシ。そんな彼女の言葉を遮って、俺は自らの不安を吐露していた。言ってから、しまったと思うが――もう遅い。

 ピタリ――と、少女の時が止まった。そして、


「そう、か……」


 にこやかだった表情をほんの少し曇らせて、そう呟いた。

 それ以降は黙ってしまう。そして互いに何も言わないまま、対戦は開始されてしまった。


「………………」

「………………」


 ――カチカチ、と。ボタンを叩く音が、嫌と言うほどに聞こえてくる。


「…………あぁ」


 そうしていると、思い出すことがあった。

 それは、まだエニシがここに来る前――少女が家出をしてくる前のこと。

 ネット上で偶然に知り合った俺とエニシは、たまに時間を見つけては一緒に遊んでいた。同じゲームを、同じ時間に、同じ目的で。しかし、違う場所から。


 それに比べて今は、どうだろうか。


 以前よりも距離は近くなった。手を伸ばせば触れることが出来るほどに、俺とエニシの距離は近くなったのである。だけども、どこか切なく、空しく感じられてしまった。


 そう。あの頃よりも――心の距離が開いているように思えてしまって。


「すまないな。ユウ……儂のせいで、辛い思いをさせてしまった」


 そう考えていたら不意に、隣の少女が謝罪を口にした。


「エニシ……?」


 予想もしない言葉に、俺は小さく名を呼ぶだけにとどまる。画面からは目を離さずに、エニシを待つ。すると少女は手の動きを緩めて――こう、告白した。


「あの時の写真の中には……お主と『恋愛の縁』がある者はいなかったのだ」――と。


 俺は、息を呑んだ。手が止まる。……それは、つまり――


「お主とレディの間にあったのは、『友情の縁』だった。……それも、長い時間を経れば『恋愛の縁』に転ずることもあるから、一概に違うとは言えないのだが、な」


 そういう、ことだった。――エニシの言葉が、俺の予測を裏付ける。

 たしかにエニシの言う通り、俺とアンジェリカの関係は恋愛のそれではなかった。だけど今は、その事実よりも重要なことがある。それは――


「どうして、言ってくれなかったんだよ……」


 気付いていたのに、どうして相談してくれなかったのか、ということ。

 正直に伝えてくれてさえいれば、翌日にでも写真を撮り直してきていた。それでも駄目だったら、また別の案を練る時間だって十分にあったはずなのだ。


「それなのに、どうしてエニシは……――」


 もはや我慢できず、俺はコントローラーを投げ出して立ち上がった。

 そして、エニシを見下ろすと――


「――ユウ……やはり、お主は優しいな。それならもう、儂は必要ない……」


 ――……そこにあったのは、穏やかな微笑み。


 彼女もまたコントローラーから手を離して、こちらを見上げていた。そして、その口から出たのは――見当違いの言葉。全部が全部、俺の思いとは真逆の言葉だった。

 俺は優しくもなければ、エニシにも、ずっと傍にいてほしいのに。


 エニシの気持ち、考えていることが――分からない。


「完全に消滅してしまえば、儂の記憶はお主たちの中からも自然に消える。だから、これ以上ユウが……悲しむ必要はないのだ。それに、な……――」


 唇を噛む。皮が破れる。その痛みを感じつつ、俺はその言葉を聞くしかなかった。

 エニシの、すべてを悟ったような――


「――儂は、な。本当はもう、消えてしまうつもりだったのだ。ずっと、前から……」


「――――――――――――――」


 満足げなその言葉を……。

 少女は胸に手を当てて、愛らしい花を咲かせた。


最期・・に、ユウと出会えてよかった。たくさんの思い出を、もらった……」


 そんな、しなくてもいいはずの覚悟を決めたエニシを目の当たりにして、俺は目を見開く。


 消えてしまうつもりだったと、彼女は言った。その理由は分からないが、絶対に間違っているのだということは分かる。――だとしたら、俺はどうすればいい?

 エニシを救うために。そして――


「だから、ユウ――」

「――エニシ……一つだけ、聞いてもいいか?」


 ――アンジェリカも含めて、三人で笑って終われるようにするためには……?


 結論に至った時。俺は会話の流れをぶった切って、そう切り出した。

 その内容は――


「エニシは、自分自身の『縁』を見ることは出来るのか……?」


 ――確信を得るための、質問だった。


 アンジェリカは、『エニシは俺のことが好きだ』と言っていた。だけどそれは、彼女の主観にすぎない。それならば、他に何か、俺の背中を押す材料が欲しかった。


 だから、聞いたのだ――エニシは、自分の『縁』を見ることは出来るのか、と。

 見習いの神様である彼女は、もしかしたら、『自らの縁』が見えないのではないか、と。


 そして、その予測は――


「――――――――」


 当たった――エニシは質問の意図に気付き、ハッと息を呑んでうつむいた。

 否定の言葉はない。それはすなわち、俺の考えは正しかったということ。それだとしたら、もう迷う必要はない。やるべきことは――一つだ。


「エニシ。俺は……――」


 ――俺は、エニシに告白する。


 告白して、説得して、みんなで笑って……それでいい。それで、間違いないはずだ。


「お前のことが、好――」

「――やめてくれ。それ以上は、口にするな」


 間違っていない、はずだったのに――


「エニ、シ……?」


 エニシの無感情な声に、背筋が凍った。――あの表情・・・・を思い出す。


 ようやく、うつむいた少女に変化が起きていたことに気付いた。自身の両肩を抱き、過度な酸素を求めるように呼吸は乱れて――嗚咽が漏れる。

 そして、途切れ途切れの息の隙間から。エニシの訴えが――


「どう、してなのだ? どうして? これでは、あの時・・・と同じではないか……」


 悲哀と後悔に満ちた声に。

 長い髪を振り乱し、掻きむしって暴れる。


 呟きに近かった声は、次第に力と甲高さを増し、絶叫と表現すべき音へと変わっていた。俺はついに耐え切れなくなり、取り乱す少女へと手を伸ばす。――が、


「落ち着け! どうしたんだ――」

「――ひっ……やめろっ! 触れるなァッ!」


 ……駄目、だった。


 怯えきったエニシは俺の手を振り払い、背を向けて部屋の隅へ。そして腕を組み、肩を抱きしめ、まるで寒さを堪える人のように身を震わせていた。

 叩かれた手には鈍い痛みが走っている。だが、今はそのようなことに構っている場合ではない――そう思うのだが、次に飛び出した少女の台詞が、


「ずっと、隠れていればよかった……っ! 孤独なまま、誰にも関わらずに消えてしまえばよかった……ッ! 同じことを、繰り返すだけなのならっ……――」


 俺の足に、進もうとする意思に杭を打った。



「――やっぱり、友達なんてっ……思い出なんて、いらなかった……っ!」



 それは他でもない、出会ってから今日まで。――その日々、すべての否定だった。


 一緒にプリクラを撮って笑い、アンジェリカと駆け回って笑っていた昨日の思い出も。あるいは喧嘩をした悲しみや、仲直りの喜び――そんな自分の心さえも、エニシは拒絶したのだ。


「なんだよ、それ……」


 なぜ彼女がここまで荒れているのか、その理由は分からない。

 ただ、それでも確かなのは――


「そんなの絶対、間違ってる! 昨日の笑顔も、昨日話したことも、その何もかもが無駄なことなんてないッ! 思い出が無駄だったなんて、言わせないッ!」


 エニシは今、大切なものを自ら捨てようとしている――ということ。


 築き上げてきたモノが、思いが、失われていってしまうこと。その苦しみは今日、俺も痛いほど体験した。目の当たりにした。それは、涙するほどに心を傷つける。


 だから、見過ごせなかった。

 大切な少女が、ずっと苦しんできたエニシが――その過ちを犯そうとしていることを。


「エニシっ! ちゃんと、話を――」


 もう一度、必死に手を伸ばす。――届け! と、神様に願う。

 だが、しかし。現実は非情で――


「いやっ……こないでぇ――――――――――――――――ッ!」


 ――……最後に見えたのは、ぐしゃぐしゃに泣き崩したエニシの顔。


 一心不乱に伸ばした手は、何も掴むことはなく。

 世界はただ、目の眩む一面の白き光に包まれて。


「――――――――」


 そして、次に目を開けた時……俺は、すべてを失っていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。俺だけになった部屋に――いや、あるいは最初から俺だけだったこの場所に、音が戻ってくる。中でも最も大きな音は、窓の外から。


 誘われるように、呆然自失となって窓へと目を向ける。すると、


「……あぁ」


 特別に意識したわけでもないが、自然と喉が震えた。


 音の正体は、刺さるような激しさを持った雨音。吹き止まぬ風に煽られた雨粒は、無数の鋭い矢となって窓を執拗に叩き続けていた。

 そして、その時になってようやく自覚する。


「なに、やってんだろ。俺……」


 自分のやっていたことは、エニシのためではないのだ、と。

 俺は『誰かのため』という隠れ蓑を使って、問題から目を逸らしていただけ。いい人に見られたかっただけ。だから結局、誰の心も理解していなかった。出来なかったのだ。


 エニシの心も、アンジェリカの心も、そして他でもない自分の心でさえ。


「ごめん、エニシ……」


 今さらすぎる。もう、届くことはない謝罪の言葉を口にした。


「ごめん……」


 それでも、休むことなく雨は降り続ける。




 それはまるで、馬鹿な俺を責めるようにして……――

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