第十六話 嘘

「ここって、たしか……」


 思い悩みながら歩き、たどり着いた目的地。そこは、欠片ほども予想していなかった意外な場所だった。――俺は、唖然としながらも周囲を見渡して確認する。


 まず視界に飛び込んでくるのは、手入れなどされず、苔の生えてしまった鳥居だ。神域と人間の住む世界を区画するためのその入口は大きく、偉大でありながら、しかし俗世にまみれたような人間臭さを漂わせていた。


 そこを通過すると、拝殿へと繋がる石畳の道が続いている。その周囲は雑草が生い茂り、また背の高い樹木も枝葉を好き勝手に伸ばしているためにほの暗く不気味だった。だがその反面、隙間からこぼれ落ちてくる木漏れ日は神秘的とも思える。そんな、不思議な空間だった。


 小さく、柱の所々が腐食してしまった拝殿へと歩を進めながら、俺は記憶を探る。

 俺は、この廃れてしまった神社のことを知っていた。


 あぁ、そうだ。ここは――


「新星の……首吊り、神社」


 ――以前に、雄山と話していた時に出てきた……新星の廃神社。


 かつて一組の男女、その一方が痴情のもつれから自殺をしたと噂される場所。アンジェリカが、何の目的を持って訪れたのかは不明だ。はなはだ疑問であると言わざるを得なかった。

 だけど今、俺の胸の中にはそれよりも大きな、一つの違和感がある。


 いや――


「……知っている? 俺は、この場所を……」


 ――……既視感が、あった。


 もちろん、俺だってここに来るのは初めてだ。だけどこの寂しくて、孤独で、それでいてどこか温かみのあるような感覚を、俺はすでに知っていた。そう感じるのだ。

 例えるなら、俺の部屋にいるあの少女のような――


「……? そう言えば、アンジェリカは……」


 と、そこまで考えて、ここに連れてきた張本人のことを思い出した。アンジェリカは駅を出た後は終始無言で、ここに到着してからも黙したまま突き進んでいったのだ。

 俺の抱いた疑問はひとまず置いておくとして。そもそも、どうしてこの神社に行きたいのだと彼女が考えたのか。俺は、それが知りたいと思った。


「……あ、いたいた。おーいっ! アンジェリカーっ!」


 そして、少し周囲を見回せば見つかった。彼女は鳥居を潜ってから向かって左手――大きな切り株がある広場のようになった場所。そこで、大切そうに花束を抱えて立ち尽くしていた。


 俺は返事もせず、ただ天を見上げているだけの少女のもとへと向かう。足に執拗に絡みついてくる背の高い雑草に四苦八苦しながらも、どうにかたどり着いた。


「なぁ、アンジェリカ。どうしてこんな所に……? ――アンジェリカ?」


 そこで、改めて声をかけようとして――止まる。


 少女の耳には、俺の言葉は届いていなかったのだ。――いや。正確に言えば届いていたのかもしれないが、今の彼女には答える力、そのものがなかったのだろう。そのように思わせるほどに、アンジェリカの美しい青の瞳は激しく波を打っていた。


 それは、何もかもを失いかけていた一昨日の昼休み。あの時と同じように――


「ユイちゃん。一つだけ、質問をしてもいいデスか……?」


 今になってようやく。彼女は静かに、ゆっくりと俺の方を見た。


「――――――」


 瞬間――俺は息を呑んだ。

 胸が締め付けられるような感覚に襲われた。なぜなら、微かな日差しの欠片を浴びながら、遠慮がちに問いを口にするアンジェリカの顔に浮かんでいたのは――


「……ユイちゃんは、『神様』っていると思いマスか?」


 ――諦念に満ちた微笑み。


 何もかもを諦め、抜け殻となったような微笑みだったから……。


◆◇◆


 神社への短い滞在を終えて、俺とアンジェリカはまた電車に揺られていた。

 太陽も頂点から大きく逸れて、傾き始めてきた時間帯。だが相も変わらず、このローカル線の利用者は少ない。この車両の乗客に限っては俺と彼女の二人だけだった。


 だけども、悪い方向にならば変わったことがある。それは――


「……ってことが、あったんだよ。笑えるだろ? あはは、はは……」

「………………」


 ――……アンジェリカの眼差しから力強さが消失し、完全に口を閉ざしてしまったこと。


 あの質問をして以降、アンジェリカはずっとこの調子だった。

 最後に聞いた彼女の声――言葉は、いつかの俺が問うていた『神』の存在について。アンジェリカの言うそれが、何かの比喩なのか、それともそのままの意味なのかは分からない。


 俺には、どのように答えればよかったのか、その正解が見つからなかった。――いいや。もしかしたら、どう答えたとしても彼女を満足はさせられなかったのかもしれない。


 なぜなら、俺の目に映った彼女は、すでに自分自身の中で答えを得ていたから。


 ――『神様』なんて、実在しないのだと。空想なのだ、と。

 だとしたら、俺にはもう出来ることはない。彼女の問題だ。が、しかし――


「そ、それでっ! あぁ、これは先週の話なんだけどさ――」


 そうだとしても今、俺の目の前でアンジェリカという女の子が、大切な友達が悲しんでいることは別問題。その理由がどうであれ、見過ごすわけにはいかなかった。

 だから、俺は吊り革にぶら下がる状態になって彼女の前に立つ。そして、何でもいい。とにかく自分と彼女との共通の話題を、彼女が興味を持ってくれそうな話をし続けていた。


 最大限の元気で、明るさで、そして笑顔で。喉が枯れそうになるほどに、ずっと。


「それで、エニシのやつ。なんて言ったと思う? それがさ――」


 それでも少女の心は、深い霧のかかった海の底に沈み切ったまま。


「………………」


 アンジェリカは静かにうつむいて、淡い桃色の花束をそっと抱きしめていた。その肩は微かに震えており、それはまるで、母親とはぐれた幼い子供が怯えているようでもある。そして呼吸のリズムは不規則で、少しの余裕も感じられなかった。


 あまりに痛々しい。そんな少女の姿を見て――


「えっと、それで…………」


 ――……もう、どうしようもないのではないか。


 そう思った俺は、とうとう話すことをやめてしまった。

 すると、俺達の間に舞い降りてくるのは沈黙。それと同時になって、今まではそこまで気にならなかった電車の騒音が、突き上げるような振動が、逃げ出した俺を責め立てるように襲いかかってきた。――お前は無力なのだと、何も出来ないのだと。


 俺はそれからすら逃げるようにして、視線をすぐ目の前の窓の外に投げた。だが、そうしたところで何の解決にもならない。むしろ視界に飛び込んできた雲の、異様に速い流れが落ち着かない心をさらに急かしてきた。――早くしないと間に合わなくなるぞ、と。


 鉛を呑み込んだかのように、心が重くなってくる。

 それだと言うのに心臓は恐ろしいほど速く脈打って、次の選択を迫ってきていた。


「はぁ……あっ――」


 考えれば考えるほどに泥沼。気が付けば俺は、ため息をついてしまっていた。


 しまったと思う。そして、それと同時に――情けない、と。

 悲しんでいる女の子の心一つさえも、晴らしてあげられない自分が情けなくて仕方がなかった。


 次いで思い出されるのは、昨日のエニシの泣き出しそうな笑顔。きっと彼女があんな表情を浮かべたのも、俺のせい。俺が、何かを間違えたからなのだろう――そう、思われた。


 情けないという気持ちが、だんだんと、申し訳ないという気持ちに変わっていく。

 それはエニシに対してか、あるいはアンジェリカに対してか。どちらかは判然としないが、吊り革を握っている手にこもる力は一際に、痛みがにじむほどに強くなっていた。


 ついに、自責の念に耐えかねた俺は、謝罪の言葉を――


「ご、ごめ――」

「――ごめんなさいデス。ユイちゃん……」


 ――が、しかし。

 それに被せるように口を開いたのは、アンジェリカだった。


「ボクがユイちゃんを連れてきたのに……勝手に落ち込んで、喋らなくなっちゃって。せっかくのデートだったのに、ユイちゃんに気を遣わせてばかりだったデスね。えへへ……」


 言って、彼女は顔を上げる。そこには何かを悟ったような、柔和な笑みが浮かんでいた。

 寂しがっているようにも、悲しんでいるようにも、さらには無理をしているようにも見えない。――すでに、彼女自身の中では整理がついた。そういうことなのだろうか。


 俺はその心変わりについて考えて――


「あっ……い、いや。俺の方こそ、ため息ついたりして……ごめん」


 ふと、途切れてしまった謝罪の言葉を思い出した。慌てて頭を下げると、


「あ、いえ……全然だいじょうぶデスよ? ボクもちょっと、落ち込み過ぎたと言うか……」


 アンジェリカは、優しい声色でそう答えてくれる。

 見れば彼女は苦笑いを浮かべ、気恥ずかしそうに頬を掻いていた。そして――


「あの、ユイちゃん。……少しお話したいコトあるので、お隣に座ってもらえませんか?」


 しばしの間があってから、アンジェリカがそう提案してくる。ポンポンと、左隣のスペースを示して、俺の着席を促してきた。小首を傾げて、ほんの僅かではあるが不安げな表情。

 だが、これといって断る理由もない。なので、俺はゆっくりと移動して――


「……うん。それじゃあ、失礼致します」


 ――……なぜか無駄に緊張してしまい、不必要にかしこまった口振りに。


 それを聞いたアンジェリカは一瞬きょとんとして、しかしすぐに――くすくす、と。相好を崩して声を漏らしていた。口元を隠して笑う姿は、大和撫子のそれだ。


「えへへっ。こうするとあの日、ユイちゃんが来てくれた時と同じみたいデスね?」


 今度はこちらが気恥しくなり頭を掻いていると、懐かしむように少女がそう言う。


「ん? それって、もしかして一昨日の昼休みのこと……かな?」


 確認のために尋ねると、アンジェリカは緩やかに頷いた。そして、ふっと息を吐き出してから窓の外を眺め、思い返すようにして目を瞑る。上唇を舐めてから、口を開いた。


「――あの時のユイちゃん、とてもカッコよかったデス。ボクにとっては、白馬の王子様に見えたデスよ? ……あ、でもユイちゃんは王子様って言うより、お姫様――デスね!」

「なぁ、アンジェリカ。……だんだん、エニシに似てきてないか? なんとなく」


 そして自信満々に言ってのけた彼女に、つい反射的に、俺はそうツッコみを入れてしまう。

 よもやこれが、エニシと仲直りしたことによって生まれた弊害だとは思いたくなかった。だがこの言い方、発言の背後には、あの少女の悪戯っぽい笑みが見え隠れしている。


 ……と、思った。しかし――


「えっ? それって、どういう? すみませんデス。よく分からないデス……」


 影響を受けている自覚がないのか、アンジェリカは目を丸くして首を傾げていた。どうやらよどみなく言ってのけたあたり、彼女はこれを本気で褒め言葉だと受け取っているらしい。

 そういえば階段で話した時も最初に、楽しげに言っていた気が……。


「あー……うん。だったら、別にいいけど。……はぁ」


 だとしたら、もはや更生するには手遅れと考えた方がいいだろう。

 俺は一つため息をついて、気持ちを切り替えることにした。続いて大げさに咳払いをして、仕切り直す。よくよく考えなくても、今はこんな話をしている場合ではなかった。


 アンジェリカを見ると、彼女も気持ちを引き締めたのか神妙な表情に。

 そしてまた、記憶を探りながら話し始める……。


「じつは……あの時のボクは、エニシちゃんのコト以外にも悩んでいたことがあったデス。でもそっちはボクの、というよりもオーマの――おばあちゃんのコトだったデスけど……」


 そこまで言って、彼女は胸元の花束に視線を落とした。その横顔には、微かな笑み。

 話を聞いて、俺もその時の会話を思い出す。たしか、それは――


「それって、おばあさんとの約束……の、ことかな」


 アンジェリカは、おばあさんとの約束で何かを探していた。それが何なのかは、詳しく聞いていない。だが、少女はそれが日本に来た理由の一つだと、そう語っていた。


 俺が聞くと、彼女はサラサラとした金の髪を揺らす。そして――ちらりと、


「ハイ。そうです……」


 こちらを覗いて短く肯定した。


「……ボクはオーマと約束をして、オーマの大切なお友達を探していたデス。でも見つからなくて、だからずっと不安だったデス。励ましてくれたエニシちゃんを怒らせてしまった時に、どうしたらいいのか分からなくなって、泣いてしまうくらいに……――」


 情けないデスよね……と、苦笑するアンジェリカ。

 だけど俺はそれを聞いても、彼女のことを情けないだなんて微塵も思わなかった。思えるはずもなかった。俺はただ純粋に、優しいと、そしてこの少女は――


「そっか……アンジェリカは本当に、おばあさんのことが大好きなんだね」


 ――おばあさんのことを心から、愛しているのだなと。そう思った。


 そうでなければ、あそこまで悩み、悔やんで涙することなど出来ないだろう。一途に約束を果たそうと、異国の地に足を運ぼうなどと思うはずがないだろう。

 そして、その予想は当たっていたらしく、アンジェリカは明るい笑顔を浮かべた。


「ハイっ! とっても優しいオーマのコト、ボクは大好きデシた!」


 きゅっと、桃色の花を抱き寄せる。――それは祖母の手を握るように、そっと……。


「……って、あれ? そう言えば、前は『人じゃない』って言ってなかった?」


 だがそこで、俺の頭の中では一つの疑問にぶつかった。


 それは今ほどのアンジェリカの言葉と、以前に聞いた話の内容に齟齬があるということ。彼女は、一昨日の昼には『探しているのは人ではない』と話していた。しかし寸前の会話の中では『おばあさんのお友達を探している』と、はっきり言ったのだ。


「あ、えっと……その、それは――」


 俺の指摘に、少女は目に見えて狼狽える。――どうやら、今は詮索しない方がいいらしい。

 なので、ここはひとまず、話を先に進めることにした。


「あぁ、話したくなかったら、話さなくてもいいよ。……続きを聞かせてくれるかな?」

「す、すみませんデス……」


 そう促すと、アンジェリカはホッとしたような顔をして頭を下げた。

 その後一つ深呼吸をして、彼女は――


「日本にきてから、オーマとの約束を守ろうとして、でも全然見つけられなかったデス。その原因もぜんぶ分かってたデスけど、ボクにはどうしようも出来ませんデシた……」


 なぜか――ふっと、寂しげな表情に。

 俺はそれに気付きはしたが、しかしそれより先にアンジェリカが言葉を紡ぐ。


「だけど、ユイちゃんに会って、もしかしたらって思ったデス。だからこうやってデートに誘って、一緒にあそこに行けば会えるような気がして、だから……――」


 ――……空気が、変わった。


 プツリと、糸が切れたマリオネットのように。アンジェリカは花束を強く、下手をすれば手折れてしまうほど強く抱きしめて、身を縮めてしまった。肩を弾ませて、しかし泣くことは堪えるようにして、彼女は絞り出すようにして――


「――……ごめんなさい。ボクは、エニシちゃんにウソをついてしまいマシた……」


 後悔に苛まれ、許しを請う。

 少女が漏らす言葉、それは――懺悔だった。


「ごめんなさいっ……ボクは、エニシちゃんの気持ちも分かってた。ユイちゃんの気持ちも分かってたはずなのに、自分のコトしか考えてなかった。せっかく仲直り出来たのに、これでまたボクは失ってしまった。もう、ボクには何もっ……――」


 ――……残っていない、と。少女は声を震わせる。


 そこに至ってようやく俺は、彼女の苦しみが理解できたような気がした。

 アンジェリカは大切な約束を守るために、エニシを欺いた。だが彼女が勇気を振り絞って踏み出した一歩も、徒労に終わり、残されたのは大切なすべてをなくした虚無感。そして、親友を騙したことによる罪悪感だったのだろう。


「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……――」


 そのため少女は、うわ言のように謝罪の言葉を並べ続ける。


 見ているだけで胸を締め付けられる思いだった。しかし俺の胸中にはそれ以外に、どうして彼女が苦しむ必要があるのか、と。そのことに対する疑問が根を張っていた。

 なぜかと言うと、俺は――


「――……心配いらないよ。アンジェリカは、悪くない」


 でも、その理由を考えるよりも早く。そんな言葉が口をついて飛び出して行った。


「えっ……? ユイ、ちゃん?」


 ハッとして、面を上げるアンジェリカ。

 驚きに見開いて、俺の姿を映すその青く美しい瞳は海のよう。拭うことすら忘れた涙がにじんで――ゆらり、激しくも静かな波を打っていた。


 唖然とした彼女を見つめながら、俺は口を開く。そして――


「どうしても、そうしなきゃいけない事情があったんだろ? そうしないと守れない、大事な約束があったんだろ? ――だったら、嘘の一つや二つ。悪くないと、俺は思うよ」


 頭の上にポンと手を置いてやって、思ったことを真っすぐに伝えた。


 ――……嘘は、必ずしも悪いものではないのだ、と。

 大切な何かを守ろうとする時の嘘は、必要なものなのだ、と……――


「で、でもっ! エニシちゃんは、きっと……――」


 だが、それでもアンジェリカは納得しようとしなかった。胸元に咲く花が悲鳴を上げる――それはそのまま、彼女の心の声。エニシに対する後ろめたさだった。

 だとすれば、俺が送ることの出来る言葉は決まっている。それは――


「それじゃあ、ちゃんと謝らないといけないな。――心配しなくても、理由を説明すればエニシは許してくれる。天邪鬼なやつだけど、そこまで心は狭くないさ」


 不安に怯える少女を安心させる、背中を押す言葉だった。


 俺は、アンジェリカがエニシに、どんな嘘をついたのかは知らない。それでも、こんなに必死になって、苦しんで、傷付けた相手のことを思える彼女が、許してもらえないなんてことがあり得るだろうか。――二人を知る俺には、想像も出来なかった。


 だがそれでも、もしエニシが受け付けようとしなかったら、その時は――


「それに、もし駄目だったら……俺が一緒になって謝ってやるよ。あの時、一昨日の放課後みたいに、絶対にまた二人を仲直りさせてやる。――約束するよ」


 ――どんな手を使ってでも、二人をまた笑わせてやる。そのために、全力を尽くす。


 そう誓いを立てるようにして、俺はアンジェリカの手を取った。まっすぐに瞳を見つめ返して頷く。そして、不器用ながらも笑ってみせた。

 すると口を開けたまま瞬きを繰り返し、黙していた彼女は――


「――――――あぁ」


 腑に落ちたといったような音を漏らす。そして、すっと息を呑み込んで――ぽつり。


「そっか。ボクは、気付くのが遅すぎた……それだけ、だったみたいデスね」


 馬鹿だなぁ――と呟いて、頬を赤らめた。柔らかい所作で俺の手を外し、それを隠すようにして手で覆って背を向ける。どうしたのかと、今度はこっちが不安になった。

 小刻みに震わせる肩には、先ほどまでの暗い雰囲気は感じられない。それでも、俺にとっては気が気でなく、ついには我慢できずに声をかけようとした。……のだが、


「ユイちゃん……」


 不意に、アンジェリカの小さな声が耳に届く。そして――


「ありがとうっ……」


 ――……あぁ、よかった。

 その一言を聞いた瞬間――俺の心は、一気に晴れ渡っていった。


「……うん。どういたしまして」


 短く、それだけを答えて息をつく。座席にどっかりと座り直して、窓の外を見た。


 ――……そして、静かにこう思う。




 俺とアンジェリカのデート。その終点はもう、すぐそこだ、と……――


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