第十五話 気になること
だが現実は、おおかた理想とかけ離れているモノである。だから、そんな簡単に事が運ぶはずもなく、俺はまたもや、一人でどうするべきなのかと頭を悩ませる羽目になっていた。――いや。正確には、どうするべきだったのか、とした方がよいだろうか。
「……くそ。エニシのやつ、どうしてあんな顔――」
理由は単純。俺が悶々としているのは事が、すでに昨日のことだからだ。
さてさて。それでは、どうして俺がこのような状態になっているのかを解説するとしよう。それはアンジェリカと別れ、急いで帰宅した直後まで遡る……――
◆◇◆
――……駅前でアンジェリカと別れた俺は、全速力で家まで帰ってきた。そして家族への挨拶もそこそこに、エニシへ結果報告をしようと二階まで駆け上がったのである。ほぼノンストップで部屋の前まで到着すると、ノックもなしにドアノブに手を掛けた。
――が、しかし。そこで俺はあることに気が付いたのである。それは、
「儂は、もしやユウのことが――――いいや、それは――何を考えているのだ儂はァっ!?」
部屋の中から、大きな独り言が聞こえてくる、ということであった。言うまでもないが、その声の主はエニシであり、彼女は何やらブツブツと言っては、直後には大きな声で盛大に騒ぎ立てていた。――キンっ! と耳をつんざくようなそれには、思わず身が強張る。
「いったい、どうしたんだ? ……まぁ。本人に直接聞けば分かるか」
ほんの少しだけ首を捻ったが、俺はすぐにそう結論付けて再度ドアノブに手を掛けた。そして中の少女のことなどお構いなしに、思いっきり――
「――……ドーンッ! 外まで聞こえてるぞ、エニシーっ?」
ドアを押し開ける。そうしたらエニシは――
「ふひゃぁっ!?!?」
――何とも女の子らしい悲鳴を上げてくれた。
ペタンと、部屋の中央にへたり込んだ彼女は、目を白黒させながらこちらを見上げている。普段着である赤のジャージを着用した少女は肩で息をしており、頬もほんのりと赤く、そして瞳には若干ではあるが潤いがあって――あれ?
「かっ、かかかか帰っているのなら、そう言え! び、ビックリしたではないかっ!」
と、ついエニシに見惚れて(?)いたら、怒られてしまった。
「あー、悪い悪い。つい、出来心で……」
「で、出来心とはなんだ、出来心とはっ! ――まったく。……むぅ」
ヘソを曲げられると困るので、素直に謝る。そうすると意外にも、あっさりとお許しをもらえたらしい。エニシは膝を抱えて小さくなるが、それ以上は何も言ってこなかった。
しかしまだ何かを警戒している様子で、上目づかいにジッと見つめてくる。
「お、お主よ。その……どこまで、聞いたのだ? き、聞こえていたのだろう?」
そして数秒の沈黙が続いた後、エニシはおずおずと、くぐもった声色でそう聞いてきた。きゅっと腕に力を込めて、より縮こまる。まるで赤いダンゴムシのようになっていた。
何をそんなに恐れているのか分からないが、今よりも防衛的になられても会話が成立しなくなってしまうかもしれない。――なので、ここは正直に答えるとしよう。
「ん。いや、ちゃんと聞こえたのは、最後の叫び声だけだけど?」
「そ、そうかっ! それなら、よかったぞ……」
エニシはほっとしたのか、入れていた力も解き、胸を撫で下ろしていた。彼女のその挙動を目の当たりにして、俺は思った――違う。何かが決定的に物足りないのだ、と。
具体的には、そうだ。恥じらいだ。今のエニシには――
「どうしたのだ、ユウよ。何か気になることでもあったのか?」
「あ、あぁ。別にたいしたことじゃない。ただ、新しい自分に気付けそうというか……」
こちらを怪訝そうに見つめるエニシに指摘されて、俺はやっと我に返った。返答しながら腰を下ろすのだが、こちらの意図が理解できないのだろう。少女の頭上にはいくつもの『?』が浮かんでいた。
「むぅ? ……まぁ、いい。それでは、戦果について聞くとしようか」
考えに考え抜いて諦めたのだろう。エニシは互いが落ち着くタイミングを見計らって、そう切り出してきた。居住まいを正して、軽く咳払いをした。
戦果とはアンジェリカとの一件について。俺は一つ頷いてから、報告を――
「実は、言いにくいんだけど……」
――始めたのだが、なぜだろう。
意識せずに沈んだ口調になってしまった。
額に手を当ててうつむき、わざとらしくため息をついてみせる。手の隙間から確認してみると、エニシは案の定――唇を噛んで、明らかに狼狽えていた。こちらに手を差し出そうとするが惑い、空気を甘く握りしめている。そして、
「あ、その……す、すまないな。わ、儂が……――」
申し訳なさそうに面を下げて、謝罪の言葉を口にしようとしていた。しょんぼり、と。
その姿を見て、俺は自分がエニシに抱いている感情の正体を理解した。つまり俺は、この愛らしい少女にちょっかいを出したくて仕方がない。ほんの少しだけ困らせて、俺しか知らない表情を見てみたいのだ。
でも、決して泣かせたいわけではない。だから――
「――……なーんてな! ちゃんと、アンジェリカと約束してきたよ。明日はデートだ」
彼女が落ち込みきってしまう前に、俺はあっけらかんとそう言った。
「ぁ――――――」
エニシはきょとんとして、微かな吐息を漏らす。開いた口が塞がらないといった風に、こちらを呆然と見て声を失っていた。だが次第に状況を理解し始めたらしい。
彼女自身が望んでいたことだ。きっと心からの笑顔を浮かべ、祝福して――
「よ、よかったではないか! ――ったく。驚かせおって、この馬鹿者がっ」
――くれると、そう思っていた。でも、違った。
「それでは、明日は頑張らねばならんぞ? もし、儂の助力が必要になったら――」
少女は俺の背中を力いっぱいに叩きながら、前向きにそう話していた。
その顔にあるのは、一輪の小さな花のように愛おしい笑顔だ。柔らかい三角形になった小振りな口に、優しげに細められた目。白い頬にはまだ、わずかに赤みが残っていた。
何も思わず一見すれば、それは紛うことなき歓喜の微笑みに見えただろう。
だがしかし俺には、とてもそうは思えなかった。
「エニシ。なんで、そんな顔するんだよ……」
少女が今にも泣きだしそうになっている。
俺の目にはそのようにしか、映らなかったのだから……――
◆◇◆
――……その時のエニシの表情が、目蓋の裏に焼き付いて離れない。
そのため俺は一日経過した今でさえ、折に触れて思い返しているのだ。どうして彼女はあの時、あのように切なく、消えてしまいそうな笑顔を浮かべたのか、ということを。
そしてそれは、人気の少ない電車に乗っているこの時も――
「もう! どうしたデスか、ユイちゃん? そんなに、ボーっとして」
「――……えっ? あ、ごめん。アンジェリカ……俺、そんなに上の空だったかな?」
不意に隣から聞こえた綺麗な声に、反射的に謝罪する俺。白く光沢のある床を見つめていた視線を慌てて持ち上げて右隣を見ると、そこには唇を尖らせたアンジェリカの姿があった。
夏休み初日。初めて見る彼女の私服は、元気なアンジェリカらしい。――が、それと同時に目のやり場に困ってしまう。言い換えれば、眼福の極みとも表現できるだろうか。
アルファベットのロゴがプリントされた白の半袖シャツは、左肩とヘソが大きくはだけている。驚くほどに短い黒のホットパンツからは、ほどよく引き締まった小麦色の足が露わになっていた。――……要するに、生地が少ない。少なすぎるのである。
それに加えて、今さらになって分かったことなのだが、アンジェリカはどうも着やせするタイプらしい。彼女にその気はないのだろうけど、腕と腕を絡ませるようなスキンシップをしてきた際に、イズモさんほどではないにしてもエニシにはない二つの果実が、これでもかと、存在感を主張してきているのであった。……感触は、マシュマロに近かったかも。
「そうデスよー? こんな可愛い子がいるのに、なに考えてたデスか?」
動揺を隠しきれていない俺に、アンジェリカが追い打ち。――こつんと、額を指で。
「い、いやっ! そ、それよりもさ。その花だけど――」
――し、しかし! ここで理性を崩壊させるわけにはいかない!
そういう訳で俺は、駅前で会った時から彼女がずっと大切そうに持っていた物について触れる。するとアンジェリカは、自身が小脇に抱えているそれへと視線を落とした。
「き、綺麗な花だよね? その、淡くて優しいピンク色で、花びらが……」
彼女が持っていた物――それは、花束だった。
おそらくは駅前にある、老夫婦が営む花屋で購入したのだろう。白い包装紙の中には、美しい花弁が幾重にも折り重なった桃色の花が微笑んでいる。花に関して明るくない俺にも分かるほどに気品高く、しかし同時に夢のように儚い印象を与える輝きだった。
「アンジェリケ――アンジェリカっていうんデス。この花の、名前」
俺が曖昧な表現を繰り返していると、少女は自分と同じ名の花を撫でながら言った。
「時期外れだから、きっとすぐにダメになってしまうデスけど。でも、せっかくならこの花がいいって、思ったので……」
「……? それってもしかして、これから行く場所と関係あるのかな?」
アンジェリカの言葉に、俺はそう質問を返しながら車内を見回した。
俺も通学に使っているこの電車は、常から利用者は少ない。それも平日の昼間となればなおのこと。現在は立っている客など一人もおらず、空席ばかりだった。
そして、車窓から見えるのは一面の田園風景。市街地から遠ざかっていくこの光景は、俺やアンジェリカにとっては見慣れたものである。だが、デートという単語から連想するには、いささか困難なようにも思われた。
その理由は今ほど述べたように、彼女の提案があったためなのだが……。
「えへへっ! それは、行ってみてからのお楽しみ――すなわちヒミツ、なのデスっ!」
「そ、そっか。秘密か……」
こう言われてしまっては、どうしようもない。
彼女の笑顔から逃げるようにして、俺は前を向き直った。すると、
「あっ! それよりも、ユイちゃん。……ゴマカそうとしたって、無駄なのデスよ?」
こちらの腕を掴みながら、アンジェリカが非難するように言ってきた。――ちらり。目だけで隣を確認すると、彼女は頬を膨らませて拗ねていた。
「や、やっぱり……バレてたか?」
「えっへん! 女のカンは、舐めてるとイタい目見るデスよ? なんだったら、ユイちゃんが誰のこと考えてたか、当ててみましょうか。えっと、デスねぇ……――」
白状すると、今度は小悪魔的な微笑を浮かべつつ、ピンと人差し指を立ててくる。そして意気揚々と推理を開始したので、俺は遠慮していたのだが、思い切って聞くことにした。
「――なぁ、アンジェリカ。昨日の夜、エニシ……何か言ってなかったか?」
エニシはあの後『レディと約束があるのだ』と言って、当たり前のように俺のパソコンを起動していた。だからアンジェリカになら、何かしらの相談をしているかもしれない。
そう、思ったのだが……――
「エニシ、ちゃん……デスか? そう、デスね――」
返答は、どうにも歯切れが悪いものだった。
金髪の少女は胸を抑えるようにして考え込んでいる。所作には若干の違和感を覚えたが、それもほんの一瞬のことで、すぐに彼女は「あっ!」と呟いてからこう話し始めた。
「そ、そういえば『むぅ。連続ログインが途切れてしまったぞ……』って言って、すごく悔しがっていたみたいデシた。……えへへっ!」
――が、その内容は核心には程遠い。肩透かしな情報であった。
「そ、そうか……うん。ありがとう」
それでも、答えてくれたアンジェリカには感謝しなければならない。しかも今は、二人きりでのデートの途中なのだ。他の女の子の話を持ち出すのは、マナー違反と言っていい。
その謝罪の意味を込めて、俺は頭を下げた。すると返ってきたのは――
「――ヤメテ、ください。お礼なんて……」
そんな、冷酷かつ無感情に拒絶するような声だった。
「えっ!? ――ア、アンジェリ……カ? だよ、な」
慌てて面を上げた俺は、そんな当たり前のことを尋ねてしまう。
だが、それも仕方のないこと。――それほどまでに、今の彼女の声は異質だったのだ。
「あっ……――」
自身の放った音があまりに冷たかったことに、アンジェリカも気付いたらしい。
声と同様、冷たい氷の仮面を被っていた顔にようやく感情が戻ってくる。空気を丸呑みするように息を吸って、こくり、喉を鳴らしてからこちらを見た。すると――
「――ユイちゃん! だ、駄目デスよ? ボクとデートしてるのに、他の女の子の話をしちゃうなんて。でも、エニシちゃんのことは……その、ボクも心配……なので! 今回だけは許してあげるデスっ! か、感謝してくださいねっ?」
頬を掻き、取り繕うようにしてまくし立てる。
「アンジェリカ……なにか、悩んでるんだったら――」
明らかにアンジェリカの様子が変だと感じ、俺は不安になった。愛想笑いをしている少女の痛々しい姿を見つめ、とっさに言葉が口をついて出てしまう。――が、それを言い終えるより先に、彼女は逃げるようにして立ち上がってしまった。
「あっ! こ、この駅で降りるデス! ほら、ユイちゃん。準備してくださいっ!」
その直後、電車が年季の入った停止音と共に、一際大きく揺れる。どうやらアンジェリカの言った通り、目的の駅に着いたらしい。
そして、大げさにも思える噴出音――同時にドアが開き、
「さっ! 行くデスよ? ほら、ついてきてくださいっ!」
アンジェリカは鉄砲玉のようになって飛び出して行ってしまった。どうもその様子から鑑みるに、さっきのことについては触れてほしくないらしい。今ほどの態度は俺がやったのと同じで、何とも分かりやすい意思表示の仕方だった。
それだったら、あまり詮索はしない方が得策だろう。
とは、思うのだが――
「でも、本当にそれでいいのか……?」
改札口で手を振る少女を見て呟く。
俺には、アンジェリカのことが心配でならなかった。
それは下心などではなく。ただ純粋に、大切な
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