第五話 アンジェリカ
「本当にいた。けど……」
二つ折りの階段。その踊り場から引き返した俺は身を隠し、極めて小さく呟いた。
なぜそのようにする必要があるのかと問われれば、それは発見した目的の人物の雰囲気が、普段のそれとは違っていたからだ。
俺は再度それを確かめようとして、ゆっくりと覗き込む。
アンジェリカさんは人気の少ないこの階段、その一番上に腰かけていた。集団の中にあったとしても、一際大きな輝きを放つ存在だ。見間違えるはずがないだろう。
膝をかかえている彼女は、紛うことなき、明るい性格が魅力の我が校のアイドル。場にいるだけで人を癒し、口を開けばみんなを笑顔にする。そんな少女。
だけども、どうしたというのか。そんなアンジェリカさんが今……――
「どうして、泣いてるんだ……?」
――……綺麗な青い瞳を涙に揺らし、嗚咽を漏らしていた。
震える細い肩を抱きしめ、しかし震えを抑えることは叶わない。その姿は何を恐れているかのようで、怯えているようにも感じられた。
触れれば壊れてしまいそうな儚さが、今のアンジェリカさんにはある。
「――っと、えっと! ど、どうすればいいんだ? えっと……」
目を奪われていた俺は、不意に我に返った。夢見心地な脳内に、現実感が戻ってくる。
すると改めて理解した現状に、俺は分かりやすく焦ってしまっていた。
「あ、そっか。エニシに――」
が、少しまごついてから協力者のことを思い出す。現状を書き込み、黙して返信を待つ。
――すると、いつもより長い時間をかけてから、
『考えるまでもない。そういう時は悩みを聞いてあげるのだ。だが、根掘り葉掘り聞くのではないぞ? 黙って隣に座って、相手が話すまで待ってあげるのだ。なんだったら、悩みを聞けなくても構わない。そうやって、傍にいてくれたことが、女の子にとっては心の……――』
「――……なげぇ。なんだこれ」
トーク画面いっぱいに埋まるほどの文章が送られてきた。しかも内容は、先ほどド下ネタを書き込んだ人物と、とても同一人物とは思えない、真面目一辺倒なもの。
さすがに全てを読んでいては時間が足りなくなってしまう。それなので、『分かった。やってみる』という短い返信をしてから、俺は深呼吸。そして「よしっ」と小さく声に出してから、さっきまでは壁のようだった段差に、一歩を踏み出した。
そうして、踊り場まで差し掛かった時――
「……このまま、自分の……友達も……うっ」
すすり泣く音の隙間から、そんな言葉が聞き取れた。
俺はとっさに意味を模索する。でも、その答えにたどり着くより先――
「……えっ、だれデス――あ、ユイちゃん……?」
アンジェリカさんはこちらの存在に気づいてしまった。
瞳を潤ませていた彼女は、慌ててそれを両手のひらで拭い取る。そして取り繕うように、ニッと、チャームポイントの八重歯を見せて笑った。
「こ、こんにちは、ユイちゃんっ! こんなトコで会うなんて、珍しいデスねっ!」
だけど赤くなった目は、すぐには隠しきれない。それは、この少女が無理をして笑っている何よりの証拠。――見ていると、ちくり、胸が痛む。
「こんにちは、アンジェリカさん。あと、俺は『ユイ』じゃなくて『ユウ』だけど」
挨拶をしつつ、俺は間違いを指摘した。話す機会も少ない俺とアンジェリカさんだが、少女の持つ空気はまるで、旧知の友を迎えるかのようにおおらかだ。
「えへへっ! でも、クラスの女の子みんな、ユイちゃんって言ってるデス」
「え、そうなのか? それって、どうし――」
「――だって、ユイちゃん。女の子みたいに可愛いデスから!」
「………………マジか」
俺は彼女の隣に腰を下ろす。
かなりショックな事実を知ってしまったが、自然とその場に収まることが出来た。それに何よりも拒絶がなかったことに、心の内で胸を撫で下ろした。
でも、すぐに気持ちを切り替える。
俺はアンジェリカさんの整った顔を見つめ、激しく脈打つ心臓に喝を入れて――
「あの、さ。さっき、友達が……とか、聞こえたんだけど……」
歯切れ悪くも、なけなしの勇気を振り絞って、そう切り出した。
「あっ……やっぱり、聞かれちゃったデスか」
「き、聞く気はなかったんだけど……ね」
するとアンジェリカさんは目を逸らし、ぼそり。それっきり、何も言わなくなった。
耳にかかった綺麗な金色の髪を軽く掻き上げ、小さく愛らしい唇を甘く噛んでいる。視線はまっすぐに前へ。こくりと、唾を呑み込んでいる様子は真剣に言葉を探しているようだった。
こちらは、それを急かすことはしない。
アンジェリカさんの気持ちを尊重する。エニシに教えられた、そんな当たり前にも思えることを胸に刻みつけ、俺は彼女の言葉を待ち続けた。
「…………ふぅ」
同じように前を見て、聞こえないよう静かに息をつく。
――……喧騒は、はるか遠くに。漏らした声が溶けるには、まだ少しかかりそうだった。
そう。ここにあるのは日常から少し外れ、かすかに張り詰めた時間。そんな不安定さを秘めた静寂の内にいたからか、俺はふと、僅かな疑問を抱いてしまった。
こんなことをしている俺は、本当に俺なのか。
果たして俺は、本当にこの少女のことを……――
「じつは……――」
思考があらぬ方向へ行きかけた時。意を決したように、アンジェリカさんが沈黙を破った。
静寂に生まれた声は、少女のこんな告白。
「――……ボク。友達との約束破っちゃって。謝りたいけど、会ってもらえなくて……」
横目で覗くと、アンジェリカさんは目を細めていた。膝を抱え込み、スカートの裾をきゅっと握りしめている。唇が渇くのか、短い間隔でそれを潤していた。
横顔には凛々しさ。あまりに秀麗な姿に、先ほどまでの疑問が再び顔を出し――
「友達? それって学校の?」
――そうになったが、俺はそれを押し殺した。
今は目の前の女の子と、まっすぐに向き合うことが大切だ。そう、自分に言い聞かせる。
「ガッコの友達じゃ、ないデス……」
こちらの問いかけに、ふるふると、首を横に振る金髪の女の子。言葉はそこで途切れてしまったようにも思えた。だが間を置いて「でも……」と漏らし、
「とても、とってもダイジな友達。ボクが日本に来るまえから、ずっと……」
まだ微かにカタさの残る口調でそう続けた。だけど『友達』と口にした瞬間だけは、表情と声色、そのどちらにも柔らかい気持ちがこもっていた。
少なくとも俺には、そう感じられた。
「そっか。アンジェリカさんは、その人のことが大好きなんだね」
だから、素直に感想を述べる。アンジェリカさんは軽く肩を弾ませ、ちらりと俺の方へと視線を送り、「えへへ」と微笑んで見せた。
肯定や否定の言葉はない。でもその遠慮がちな微笑は、認める意思と取っていいのだろう。
そしてその肯定の先にあったのは、またもや簡易な非日常。
だがしかし、今度はとても短い。
「あの、ユイちゃん。チョットだけ、ボクのお話聞いてもらえマスか?」
こちらへと身体を正対させたアンジェリカさんは、申し訳なさそうに眉尻を下げ、両手を組みながらそう言った。その姿は、まるで祈りを捧げているかのように純粋なもの。
頼られているのだ、と。少女の所作を見て、直感した。
バツが悪い。そう感じた俺は、声に出すことなく、見つめて頷くだけにとどめた。
「ありがとう、ユイちゃん……」
でもアンジェリカさんにとっては、それだけでも十分だったのかもしれない。愛らしき留学生は優しくまぶたを閉じ、感謝を示すように頭を下げた。
まっすぐな少女の気持ちに、俺の胸はなおさら、針で刺されたかのようになる。――こうなったらこちらも、より真剣に彼女の心に寄り添わなければならない。
強い責任感を覚え、俺は改めて決心し耳を傾ける。
そして薄く目を開いた少女は、ゆっくりと、記憶をたどるように話し始めた。
「ユイちゃんは、ボクが日本に来たリユウ……ドコまで、知ってマスか?」
「えっと。おばあさんが日本人で、その影響で日本の文化に興味を持ったから……だよね?」
俺の答えに、一つ、彼女は頷く。
「ハイ、そうデス。……でも、ホントはそれだけじゃ、なかったデス。ホントはもう一つ、オーマ――おばあちゃんとの約束があったから、ボクは日本にやってきたデス」
「約束……? それって、どんな――」
そこまで口にして、しまったと思った。
「………………」
アンジェリカさんの顔色をうかがうと案の定。彼女は唇を噛み、苦しげな表情を浮かべていた。それは、この話題が今、彼女にとって一番つらいものであるという証拠。
根掘り葉掘り聞くのではないという、エニシの言葉が思い出された。だから俺は、慌てて飛び出してしまった言葉を捕まえようと――
「い、言いたくないなら言わなくても――」
「――いや、違うデス。話したくナイとか、そういうのじゃ、ないデス」
――したのだが、こちらの言葉を遮ってアンジェリカさんがそう言った。
言ってから、彼女は階段の方へと向けた。――いや。正確にはその上方。ほんの小さな窓の外だ。葉のない細枝が数本だけ、青色の四角いキャンバスを横切っている。
その内の細い枝の一本には、一羽の小鳥がとまっていた。
「オーマとの約束……探してるデス。オーマの、大切な……」
きゅっと目を閉じ、息をつく。そんな少女の挙動を注意深く確認し、俺は問いかけた。
「探してるって……何を? 人、とか?」
「あ、いえ――――ヒト……ではない、デス」
声を詰まらせ逡巡した後に、どうにか歯切れの悪い返事をするアンジェリカさん。
「えっと。それで、見つかったのかな? その、探し物は」
「……まだ。オーマ、ココに住んでたの、ずっと前デスから……」
そんな彼女を気遣い、最大限に優しい声色を心掛けたのだが、失敗してしまったらしい。ふっと、少女の表情に陰りが生まれた。
さすがに、頭の悪い俺でも感じ取ることの出来る変化だ。
「あっ……そ、そうなんだ。そう言えば、そっか……」
瞬間、自身の間違いに気づいた俺は自己嫌悪に陥った。――どうしてこうも俺は、肝心なところでミスを犯すのだろうかと。自らの愚かさを自覚し、いたたまれなくなる。
しかし、こちらの気持ちが沈み切るより先――アンジェリカさんは、重い口を開いた。
「でも、ボクが泣いてたの……それがリユウじゃ、ないデス」
「えっ? あ、そうか。そうだったね」
聞いてハッとする。そう言えば、彼女は『友達との約束を破った』と言っていた。――つまり今の話に出てきた『約束』とは、また異なった『約束』なのだろう。
納得し声を上げると、アンジェリカさんは続ける。
「ボクには、友達がいたデス。いつも相談に乗ってくれた、大切な友達……――」
そして、その時だった。
彼女の様子に、大きな変化があったのは……。
「――諦めそうになると、励ましてくれた。支えてくれた。それに、ボクに昔の日本のコトや今の日本のコト……そして、いろんなお祭りのコト、教えてくれた人……――」
声のトーンが落ちていく。膝を抱え、顔を埋めて隠してしまう。
そして、すべての活気が収束してしまった。
「――……それ、なのにっ……――」
次の瞬間――
「――……それなのにっ! ボクは、その人のコトを傷つけたっ! 約束破って、悲しませて、怒らせてしまったデス! たい、せつな……大切な、友達だったのにっ……」
――……決壊した。
アンジェリカさんの感情が、堪え切れなくなったその波が、とめどなく溢れ出してくる。
我慢してきた。ずっと我慢してきた涙を一気に流し、大声を上げて泣きじゃくる。膝を抱えて丸くなり、堪えようとするが、しかし叶わない。
「ボクはっ! ボクは、どうしたらいいデスかっ!? どう、したらっ……うぁっ……」
明るい仮面で隠そうとした。――そんな少女の、本当の思いがそこにあった。
「アンジェリカ、さん……――」
アンジェリカさんは、自分を支えてくれた友達との約束を反故にしてしまった。
そのことで、彼女は深く苦しんでいる。でもそれは、きっと友人を傷つけてしまったことによる悲しみだけではなくて、もっと名状のしがたい、感情の奔流なのだろう。
それでも強いて言うならば、おそらく、今の彼女の中にあるのは多くの不安だ。
――これまで自分の心を支えてくれた人が、離れていってしまうことへの不安。
――そして、おばあさんとの約束すら遂げられなくなるのではないかという不安。
他にも多く感情がない交ぜになって、あまりに複雑で、自分でも理解しきれない。どうすればいいのかも、分からなくなってくる。八方塞がりになる。
だから苦しいのだ。どうやって笑っていたのかされ、忘れてしまうほどに……。
――だったら、俺はどうしてあげればいいのだろうか。彼女の心を救うために。
「――……ねぇ。アンジェリカさん」
考えるよりも先、俺の口は勝手に動き出していた。呼びかけに反応したアンジェリカさんの、涙に濡れた、痛々しい表情をまっすぐに見つめ返す。
そして一つ、深く、胸に空気を送り込んでから。俺はハッキリと――
「俺に、その友達とのこと手伝わせてくれないか? 出来ることがあれば、言ってくれ」
――そう告げた。
「えっ……?」
当然ながら、アンジェリカさんは寝耳に水といった様子。空いたまま塞がらない口を、しばらくしてようやく手で覆う。きょとんと目は丸くなり、心底驚いているのが見て取れた。
そして、震える小さな声で――
「ホ、ホン……ト?」
「もちろん。こんな時に、嘘なんてつかないよ」
聞いてきたので、俺はすぐに肯定してみせた。――その言葉は誓って、嘘などではない。
俺の頭の中には、エニシの試験のことがある。それは多分、今の俺にとって一番に優先しなければいけないこと。だからこそ俺は、目の前の女の子との関係に疑問を抱いたのだと思う。
――……俺は本当に、この女の子のことを好きになるのだろうか、と。
でも、そうだとしても、だ。
少なくとも今この時に、アンジェリカという女の子を助けてあげたいという気持ちには、嘘なんてない。疑問を抱くような余地など、決してない。
なぜなら、友達のことを助けたい気持ちは、当たり前のことなのだから。
間違えるはずなど、ないのだから。
「ユイ、ちゃん……ありがとデスっ!」
アンジェリカさんはそう言って、涙を拭う。
「エヘヘっ! すみませんデス。こんなの、ボクらしくなかったデスよねっ!」
そして彼女は――清々しいほどの笑顔を浮かべてみせた。
チラリと見える八重歯がよく似合う。やはり、それこそが彼女の魅力なのだろう。――それを取り戻すことが出来て救われたのは、もしかしたら、俺の方なのかもしれない。
「じゃあ、ユイちゃんっ! 今日の放課後から、お願いしてもいいデスか?」
少女はスッと、右手を差し出してきた。その意味は聞かなくても分かる。
「あぁ、分かった。よろしく、アンジェリカさん」
俺は素直に、差し出されたその手を取ろうとした……のだが――
「むぅ……駄目デスっ!」
「えっ? なんで!?」
アンジェリカさんはどういう訳か、頬を膨らまして手を引いてしまった。そのまま後ろへ回し、ツンッと子供っぽい態度でそっぽを向いてしまう。
「え、あ……う? あのー……?」
俺は理由が分からずに、頭の上に「?」をいくつも浮かべて瞬きをする。すると唇を尖らせたアンジェリカが原因を口にした。
「……ボク、『さん』付け嫌デス。コレからは、呼び捨てを希望するデスっ!」
「あ、あぁ。なるほど……」
言われて納得した。たしかに、他人行儀な感じがするな。
だったら、と。今度はこちらから手を差し出しつつ、俺は彼女の顔を見て言った。
「それじゃ、改めてよろしく。……アンジェリカ」
アンジェリカは綺麗なその顔に再び花を咲かせる。そして勢いよく両手で、こちらの手を包み込んだ。柔らかな温もりが、しっかり伝わってくる。
「ハイっ! よろしくデス、ユイちゃん――――あっ!」
ハキハキとした口調で言った彼女。だがしかし唐突に声を発して、斜め上を見上げた。でもそれは暗い感情によるものではなく、むしろ歓喜による声。
視線を追えば、それは窓の外に向いていて――
「……よかった、デス」
そこには、二羽の小鳥が枝で羽を休めていた。
鳥たちは身を寄せ合うようにして、互いを支え合っているようにも思える。そして足場となった細い枝は、二羽のことを助けようと、必死に踏ん張っていた。
アンジェリカはその様子を見ながら、胸に自身の小さな手を当てている。きっと、彼女は危なっかしい鳥たちの様子を見て、自分のことのように思っていただろう。その顔に浮かんだ優しげな表情を見ていると、俺も頑張らないといけないと、そう思わされた。
「……よしっ」
そして、気合を入れるために声に出してから、ふと思った。
――……あぁ。
これでやっと、エニシから煽られなくても済むかもしれないな、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます