第11話「チェンジ・ザ・イクイップ・ナウ」

 御神苗優輝オミナエユウキは緊張していた。

 混乱もしていたし、興奮もしていた。

 俗に言う『頭がフットーしそうだよおっっ』という状態だ。

 既に沸騰ふっとうを通り越して、蒸発しているかもしれない。

 それくらい、理解不明で意味不明な高揚感こうようかんが熱い。

 夕暮れ時、放課後の廊下で優輝はジャージ姿だ。そして、自分のクラスの教室からの声を待つ。それが、とんでもなく背徳感はいとくかんがあって、とんでもなく異常な事態だった。

 そして、時間軸はしばし前へと巻き戻る――




 シイナ・日番谷ヒツガヤ・ラインスタインは、頑張った。

 最善を尽くした、ベストの限りを尽くしたのである。

 だが、無情にも昨夜の特訓虚しく……クラスで彼だけが、漢字テストの赤点で居残り授業を課せられたのだった。こんな日に限って、柏木朔也カシワギサクヤ雨宮千咲アマミヤチサキも用事があって帰ってしまった。

 かわいそうだと思ってつい、優輝だけがシイナを待っていたのである。

 そうこうしていると、教室にシイナを残して国語教師が出てきた。

 挨拶して頭を下げるや、入れ違いに優輝は教室に飛び込む。

 そこには……へにゃーんとなったシイナが机に突っ伏していた。


「シイナッ、大丈夫? その、お疲れ様……どうだった?」

「あうう、優輝ぃ……ボク、ボク、もぉ……だ、駄目だーっ!」


 完璧にシイナは、グロッキー状態になっていた。

 少女然とした愛らしい美貌も、今はかげりに陰って縦線がどんより降りている。

 あれだけ熱心に勉強したが、やはり一夜漬けは無理だったらしい。


「元気出して、シイナ。漢字、また教えてあげるから。……私の教え方も、ちょっとよくなかったかもしれないしさ」

「ううん、優輝はすっごくわかりやすかったよ。でも、でもね」

「でも?」


 ふるふると生まれたての子ヤギのように、シイナは机から上体を起こした。

 相当弱っている。

 大きな瞳がうるうるとうるんで、星屑ほしくずを散りばめた海は涙をあふれさせそうだ。


「でもね……ボク、ちゃんと優輝の教えてくれた通り、右と左、上と下を意識して覚えたはずなんだけど、その。……わ、笑わないでね?」

「笑わないよ、シイナ」

「その……どっちがで、どっちがかわからなくなっちゃって」

「……へ?」

「右と左と、逆に書いたの沢山あった……上と下とが逆なのは、もっと沢山」

「あ、ああ、うん……その、ドンマイ?」


 再びぺしゃーんとなって、シイナは今度こそ動かなくなった。

 なんだか、ちょっと……いや、凄くかわいい。

 悪いなとは思ったが、思わずクスリと優輝は笑ってしまった。その笑顔を見上げて、ぷぅ! と頬を膨らませたシイナだったが……彼もやがて、へらりとゆるい笑みになった。


「やっぱ漢字って難しいなあ……もっと頑張って勉強しないとねっ」

「ふふ、でもシイナは頑張ってたよ? いつも、凄い頑張ってる」

「そ、そかな」

「うんっ! そうだよ! ……じゃあ、優輝お姉さんが御褒美をあげよう。ね?」

「ごほーび……?」


 帰り道でアイスでもおごってあげようと思った、その時だった。

 突然、シイナが椅子を蹴って立ち上がった。

 そして、ぎゅむと優輝の手を取り、そこにもう片方の手を重ねる。

 小さなシイナは、身を寄せて優輝を見上げてきた。

 やばい、なにこれ超やばい。

 まるで少女漫画のワンシーン……ただし性別が逆である。

 シイナはルンピカな笑顔になって、優輝へと背伸びしてきた。


「あっ、あのね! 変だって思うだろうけど……その、嫌なら言ってね? えっと」

「な、なにかな……私にできることなら」

「ボク、ずっと前から思ってたの! その、お願いがあるんだ。実は――」




 そして、現在の時間へと物語の流れは紡がれ集束する。

 今、教室の中にはシイナだけがいる。

 彼の声を待つ間、優輝は気が気ではない。

 そうこうしていると、中からシイナが呼びかけてきた。


「もういいよっ、優輝!」


 その一言で、恐る恐る教室の扉を開く。その奥へと、そーっと首を出してみる。

 そこには、夕焼けで真っ赤な教室に一人の美少女が立っていた。

 この学校の制服を着た、それはシイナだ。

 勿論、優輝の制服である。

 この学校の、無駄にかわいい制服……それは、ブレザーにプリーツスカートだが、フリルのシャツと胸元のリボンはまるでお姫様だ。


「や、やあ……ど、どぉ?」

「うんっ! ちゃんと着れたよぉ……前からね、うちの制服ってかわいいなって思ってたんだ。だから、嬉しいっ!」

「そ、そう……す、凄い似合うよ。私より、全然似合う」


 いつもは少年剣士みたいなポニーテイルに結んでる緑の長髪は、今はサラサラと斜陽の光を反射させるストレートヘアーだ。

 シイナは先程、優輝に言った。

 優輝にしか頼めないからとも。

 そう、彼は……また彼女になっていた。

 そして彼女は、この学校の女子用の制服を着たがっていたのだ。


「ちょっと丈は長いかもしれないけど、でもウェストはぴったり。やっぱね、日本の学校の制服はどこもかわいいから」

「う、うん」

「……優輝?」

「うんっ! かわいい……凄く、かわいいよ」


 承諾してしまったのには訳がある。

 なにを隠そう、優輝が思わず見たがってしまったのだ。

 勇気は見た目に反して、可愛い女の子が大好きである。朔也が貸してくれるゲームの設定資料集やイラスト集など、御褒美ごほうびだ。かわいい女の子であれば、それは二次元と三次元の間にある境界線を超える。

 自分にないものを求めているのは、知っている。

 それでも、優輝は美少女に目がないのだった。

 そして、誰よりも美少女なのが、シイナという存在だった。

 きゃろーん、という擬音が聴こえてきそうな程に、可憐な美少女が目の前にいた。


「あ、あのさ、シイナ……えと、えと……そ、そうだ! 写真! 写真撮ったげる」

「いいの? うんっ!」


 シイナのスマホを受け取り、そのカメラを起動させる。

 ファインダーの中で微笑むのは、逢魔おうまときに現れた非現実的な存在。彼でも彼女でもあり、そのどちらでもない幻想的な妖精だ。

 カメラ目線で微笑むシイナを、優輝は写真に収める。

 自分が着れば、いやがおうにも優輝自身の類まれなるイケメンぷりが浮き彫りになってしまう制服。それをシイナが着ることで、改めて母校の無駄に華美な制服デザインを思い知らされたのだった。

 そうこうしていると、シイナが駆け寄ってくる。


「ねね、優輝! 一緒に写真、撮ろ?」

「えっ? あ、いや、私は」

「お願いっ! ボク、優輝との写真を待ち受けにしたいんだ……駄目?」

「そっ、そんなことない! じゃあ、ええと」

「ちょっとゴメンね」


 シイナは勇気に身を寄せて、そのまま二人でカメラの中に収まった。

 こういう時、手足が長いのって便利だな……なんて。生まれて初めて、優輝は自分の身体的特徴に感謝した。

 そして、並んだ二人の写真をパチリ。

 写りを確認したシイナは、うきゅー! と満面の笑みになった。


「優輝にもメールで送るねっ!」

「う、うん……ありがと。凄く、かわいいよ」

「エヘヘ……でも、誰の制服でもいいって訳じゃ、ないからね?」

「そ、そうなの?」

「そうなの! ……嫌、だった? 気持ち悪いとか」

「ないない! ただ、ちょっとびっくりして、まだ、ドキドキしてる」

「ふふ、よかった。優輝をいつも見てたらね、かわいいなって。制服も、優輝も」

「えっ?」

「よーし、じゃあ着替えて制服返すねっ! ちょっと外で待ってて!」


 シイナに背を押されて、優輝はまた廊下に出た。

 振り向けば、ニッコリ笑ってシイナが扉を閉める。

 そこで初めて、はしゃいでしまってる自分に羞恥心しゅうちしんが湧いてきた。

 そういえば今日、体育の時間があった。

 結構激しい運動をしたし、汗をかいたはず。

 そのあと着替えた制服を、シイナが着たのだ。

 しかも、それを板一枚向こう側の教室で……シイナが再び脱いでいるのだ。

 なんだが目の前がクラクラしてきて、鼻の奥がツンと痛んだ。

 とりあえず自分に平常心を呼びかけながらも、薄い胸の下で鼓動は高鳴りっぱなしだ。シイナの言葉……『誰の制服でもいいって訳じゃない』とは? その意味が優輝の中で独り歩きを始めようとする。

 とりあえず、さっきもらった写真を待ち受けにした。

 なんだか恋人みたいだが、やはり男女逆、あべこべである。

 だが、不思議と優輝はニヤケ笑いが止まらなかったのだった。

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