第4話「ミソ、シオ、ショーユ」

 その日の放課後を、御神苗優輝オミナエユウキはずっと忘れない。

 多分、忘れない。

 きっと、忘れられない。

 それは、日番谷ヒツガヤ・シイナ・ラインスタインによっていろどられた放課後であり、彼女に……ではなく、彼に思い知らされた現実だったからだ。

 なんとかアニメイトで買い物を終えた三人は、商店街のラーメン屋に来ていた。


「わあ、ここが日本のラーメン屋……本やアニメで見た通りだ、すごーい!」


 シイナは店内を見渡し、瞳の宇宙に星々をきらめかせてゆく。

 ほんのり上気した笑顔で、彼はふわりとその場で一回転した。

 ブレザー姿の美少年が、下町のラーメン屋にファンタジーな空気を広げてゆく。優輝は勿論、店の客もオヤジもシイナに目を奪われていた。

 ただ一人、柏木朔也カシワギサクヤだけがマイペースでカウンターに陣取る。


「シイナ氏、こっちですぞ。ささ、御神苗氏も」

「はいっ! ここに座るんだね」


 自然とつい、優輝はシイナを真ん中の席を進めて、椅子を引いてやる。どういう訳か、いつも女子といるとつい、エスコートしてしまう。そして、シイナの女子力は抗い難い程にナチュラルな純度だった。

 シイナは「ありがとっ」と微笑み、ペコリと頭を下げる。

 優輝はなんだか、意味もなく鼻の奥が熱くなった。

 慌てて自分も席に座り、メニューで顔を隠す。

 妙に熱くて、赤面しているのが恥ずかしかった。


「デュフフフ、二人共好きなラーメンをどうぞ……小生しょうせい、こんなこともあろうかと! この『熊猫飯店シュンマオはんてん』のクーポン券をここに。ささ、シイナ氏、チャーシュ増量券を進呈しんていですぞ」

「ありがとう、朔也も優輝も親切だよね。ねっ? ……優輝?」


 優輝はメニューの奥から、こっそりと顔を出す。

 そこには、小首を傾げて頭上に疑問符を浮かべるシイナの小顔があった。

 清楚せいそ可憐かれんで、まるで本当に女の子だ。

 制服がスカートでも、優輝なんか女子力ゼロどころかマイナスなのに。ガサツだとか粗野だとか、そういう意味ではないが……優輝にあるのは王子力おうじりょく紳士力しんしりょくだから。


「とっ、とと、とにかく、シイナ君。ほら、ラーメンを選ばなきゃ。どれにする?」

「えっと」

「シイナ氏、信仰上の理由で食べれぬ食材などありますかな? 苦手な食材とか」

「大丈夫だよ。ショーユと、シオ……ミソ。ふふ、色々あるんだね、ラーメンって」


 真剣にメニューを選ぶシイナの横顔を、つい見詰めてしまう。

 視線に気付いたシイナが、微笑んでくれると頬が火照る。

 慌てて優輝は「おじさん、私は醤油ラーメン!」と前を向く。

 妙な話だが、シイナを直視できない。

 みんなにとって転校生の、ちょっとかわいい男の子は……優輝にだけは、本物以上に本当の美少女、おとこなのだ。それを優輝だけはもう、先日はっきりと見ているのだ。


「えっと、じゃあボクも優輝と同じのにするね。ボクたち……同じだもんね」

「おっと、小生は味噌ラーメンにバターとコーン増し増しでござるよ」


 注文を終えてからも、シイナは日本のラーメン屋が珍しいらしく、周囲の光景に目を輝かせている。そして、朔也と先程のアニメイトでの買い物の話で盛り上がり出した。

 二人共アニメや漫画には詳しくて、シイナもイキイキしている。

 優輝は詳しくないが、二人が微妙にマニアックなことを話してるのが感じられた。

 だが、一生懸命喋るシイナも、聞き上手に頷く朔也も楽しそうだ。

 カウンターに頬杖ほおづえついて見守ってると、ふとシイナが振り返る。


「あっ、そうだ。あのね、優輝。あの……怒らない、でね?」

「ん? どしたの」

「さっきアニメイトでポスター見たから、やっぱりって思ったの。あのね、優輝」

「うん」


 少し俯き、一度言葉を止めてから、シイナはじっと優輝を見詰めてきた。

 つぼみのような唇が、意外な言葉を紡ぎ出した。

 何度聞いても、楽器が歌うような声音だ。


「あのね、優輝……エウロパに似てるね! あのね、望郷悲恋ぼうきょうひれんエウロパヘヴンっていうアニメがあって」

「あ、ああ、アニメね、アニメ! ……王女様の方のエウロパじゃなくてね」


 エウロパというのは、ギリシャ神話に登場する絶世の美女だ。主神ゼウスが恋した程の美貌で、木星の衛星エウロパはこの名を頂いているのである。

 まあ、優輝が王女様に似てるなんてことは絶対ない。

 そのことを思い知る日々で、心は衛星エウロパのように穴だらけだ。

 それを知ってて尚、びっくりして期待したのが少し恥ずかしい。

 だが、シイナはスマホを取り出して操作し、画面を向けてきた。


「ボクね、好きなんだ」


 ――好きなんだ!?

 いやまて、落ち着け。

 ほら、違うだろうと優輝は高鳴る鼓動を平らな胸の下に押さえつける。


「昔から大好きなアニメで、ほら」

「これが……エウロパ? あんまし、似てる感じは……凄く、かわいいけど。や、脚ほっそいなあ。それに、服がかわいい。こういうのは私は、着れないんだよなあ」

「そうなの? 優輝もきっと似合うよ! あ、そうだ……んとね、途中の髪型がね」


 うんうんと朔也が腕組み頷いているから、似てるらしい。

 そして、シイナがタッチパネルに指を滑らせ、その訳がわかった。

 アニメのワンシーンが切り替わって、ベリーショートの少女が出てきた。髪型は丁度、優輝と同じくらいだ。まるで男子のスポーツ刈りのように、もの凄く短い。


「……似てる、かも。でも……」

「昨日会った時からね、どこかで見たなーって思ってたんだあ」

「あっ、いや! 昨日の話は、その! ……それに、私そんなにかわいくないよ」

「そうかなあ、ちょっとゴメンね」


 不意にシイナは身を乗り出して、優輝に頬を寄せてきた。

 二人で額を合わせるようにして、シイナの携帯を覗き込む。

 シイナは何の気なしにそういうことをしてるが、優輝は心臓が爆発しそうになった。こんな経験、今まで一度もない。女子に告白されることが多くて、男子に告白するとすぐダメになるのが御神苗優輝という少女だ。

 頬と頬とが触れ合う距離に、シイナの小さな横顔があった。


「ね? 似てるでしょ? 朔也もそう思わない?」

「オフゥ……小生、そのことはこっそり黙っていたのに、いかんですぞシイナ氏」

「あ、ごめん……なさい。失礼だった、よね?」

「因みに御神苗氏、エウロパヘヴンは神アニメなので是非視聴をオススメしますぞ! 小生、保存用と視聴用の他に布教用のDVDを持ってまして、今度貸し出しまずぞグフフフフ。特に小生、26話『ローリング・グロウ・イン』が好きでして」


 朔也が気を利かしてくれて、優輝もなんとか笑みを取り戻した。

 こういう時、白い歯を零して笑ったりするから、女子にばかり評判がよくなるのだ。

 でも、優輝はこれしか知らないから仕方がない。


「気にすることないよ、シイナ君。私、身長175cmあるんだよ? 髪型と、まあ……顔立ち? は似てるかもしれないけど。こういうかわいい女の子じゃないかな、多分」

「そんなこと、ないと思う……って、175cm!? そんなにあるのー!?」

「そ、おかげで運動部から引っ張りだこだよ。帰宅部だけど」

「ボクと、18cmも違うんだ。なんか、凄いね! モデルさんみたい」


 シイナが笑ってくれて、よかった。

 それに、彼の好きなアニメのヒロインに似てると言われて、ちょっと嬉しかった。自分でも今、そのことに少し驚いてる。ただ、シイナが言う程は似てないと思うから、浮かれる気分になれなかっただけだ。

 そうこうしていると、三人の前にラーメンの丼が並ぶ。

 くゆる湯気の中で、シイナの表情がみるみる輝きを増してゆく。


「わあ……本物のラーメンだね! 凄い凄いっ」

「はい、シイナ君。はし……で、いい? フォークとかもらおうか?」

「ううん、ママが日本人だから大丈夫。箸の使い方、習ったよ。ありがとう、優輝。……あのね、優輝」

「ん? あ、胡椒こしょう使う?」


 シイナが横に首を振るので、優輝はそのまま向こうの朔也に胡椒を手渡してやった。

 そして、ラーメンを口にしようとした、その時である。

 シイナは、割り箸を持ったまま、改まった口調に声を固くした。


「優輝、朔也も。ボクのこと……シイナ、って呼んで? ドイツでは、ほら、君とか様とかないんだ。目上の人やおおやけの場で使う言葉はあるけど」

「あ……じゃ、じゃあ、ええと……シイ、ナ……シイナ」

「うんっ! 大変よろしい! なんてね、ふふ。朔也も、いいかな?」

「小生はシイナ氏のままで勘弁していただきたく……代わりと言ってはなんですが、御神苗氏を今度からは優輝氏と呼びますぞ、デフェフェ」

「ちょっと朔也! 別に、いいけど……なんで? だいたい、いつものそのナントカ氏っての、ちょっと不思議なんだけど」

「フッフッフ、これには深い訳がありまして……あれは小生が中学生だった夏の日、忘れもせぬ宿命の対決を前に――」

「えっと……とりあえず食べようか、シイナ」

「うんっ」


 その後、朔也は禁忌きんきとか禁術きんじゅつとか、失われし漆黒の闇ノートがどうとか喋ってたが、なんだか楽しそうだったので放っておいた。彼も、シイナがさっきのお礼にとチャーシューを一枚あげたら、喜んでラーメンを食べ始める。

 ちょっと遅めのおやつだが、食べ盛りの高校生にはあまり関係ない。

 そして、改めて優輝は隣を見て思う。

 見目麗しい姿で、一生懸命ラーメンを頬張るシイナは……性別は男、男子なのだ。

 それが見た目だけでは信じられず、着ている制服にすら違和感を感じてしまう……そう思う優輝は、顔の熱さをラーメンのせいにして黙って食べるのだった。

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