37.忘却ノ日

  1


小川の川水に

陽が

光の矢を刺し通すとき 川底でゆれた

水草は緑を覚まし 気孔から

酸素の粒を吐き出す

ゆれているから

水のおもてにあこがれて手をそれらはほどき

水のおもてで そのおもてをなでる

風へとはじけて解体するだろう

そして世界へ 銘々の世界へ


  2


少女と別れて家へと

かえる道に 敷きなおされた

アスファルトに落ちた引き延ばされた

ゆれる自分の影が

不穏なもののようで身がすくむ


誰だろう

少女に

恋するなんて


そうそうと山でゆれている

クスいっぽん いつから

そこにい 人の道の拓くまでの

三百年をゆれたか

おまえを初めて知る

いま今日の終わりの

陽を蓄えて 暗素のしだいに湧き

立ってきた空間にひっそり立ち

明るい薄緑を

おまえは蛍光している


埃っぽくなった

(アスファルトのそばは暑いだろう)

空気はどうだ これからはじまる澄んだ

たっぷりの夜に浸かるといい

なぜか いまはおまえの

根本で眠りたい


いつか暮れた

畑があった

小さな畑

いくつか並び その間を砂利道で切って

不揃いな区画 ゆれる細胞膜

奥へ行くごと草の

高くなり しだいに

高くなり

足もとの草から低木に 低木から高木に

高木は蔓草に苛まれ


高木の蔭につつまれ腐食した

土を歩き 踏むごとに

土は匂い 振り返れば

畑は遠い ――人の世界

離れていく

     気配にじて

引き返そう と

してしかし

道は埋もれながら ほのかに続く

その先に なにがあるか

その先に――

勝る好奇心が戸惑う足を

踏みなおし また奥へ

と入っていく


  3


月の射して揺れる小川の流れ

暗い水内みななか

妖しく緑色が水闇みなやみ

沈んだところで手招きする

それを月明かりに覗くと

雲間から死者が子らを見るようだ

子らよ子らよ水底で

死者の幼少期が遊んでいる


  4


山奥へずんずん踏み入ったつもりでいたが

道の果てに赤レンガの洋館が現れ

洋館は苔むした杉の刺す中に建っていた

ちょうどそれを認める瞬きほど手前に

湧き上がって一斉に色づく記憶とともに

洋館は現れたのだった

上階へいく階段はその半ばで闇に呑まれていて

こちらを見下ろしているこの世ならざる者を感じていた

地階の家具のコンポジション

埃の積もっていつからそうしていたのかと

思うと私は幼い身体で震えていた

私は山奥へ踏み入ったつもりが

いつか記憶の奥底へまで潜っていた

ふと衣を固く握った感触が手によみがえる

幼少の頃そうしたらしいすがるようなしぐさを再現した


誰だろう

このセーラー服の女性は

その腰元にしがみついて

怯えて強張る私を

彼女の笑顔がほどいてくれる

このひとは誰だろう


  5


いつか忘れてしまった泡沫の

根に触れてなお顔の霧がすみ

墨切る月光の雲間からさして

淡くたちあがったのは

あまりにも淡い初恋


  6


あまりにも淡い まだ

恋とは言葉に知らない幼少の

萱の葉で切ったように沁みる胸を

どう形容していいか分からない

それを思慕とも知らず しかし

たしかにその女性を思うそのときに

かならず萱は切っていく

傷む胸が彼女を慕う

恋とは言葉に知らない幼少を

結びとめるすべなくて

忘れてきた記憶の棲む洋館


  7


来た道をもどる

現在の生活へ帰っていく藪のなかで思う

 少女はいま どうしているか

 いつか少女も私を忘れる

 いつか忘れる少女には いま

 いまが どんな夜か

私はいつか忘れた初恋に

少女に恋した訳を知ったらしい

ああ ここからは

昼間渡ったあの橋も見える

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