32.わすれ

離れた席でくすくすと

耳障りな笑いを

漏らすふたりがいる

俺を嗤っているのだ

――などと

思っている自分を嗤う

嗤っても

俺を嗤っているのだ

と漣がたつ

開いた本の言葉がもう

頭に入らない

席を立って

デッキに上がろうと

そいつらの横をあえて通って

扉を開けた


大阪港から

瀬戸内を抜けて

松山へ行く汽船の眺めは

すべての人にかけられた

ただ一つのネックレス

穏やかな海の水平の

円周を飾る

円周の

あんなに遠くでも

生活している人がいるんだな

娘がお茶碗落としたとか

転勤がいよいよ決まりそうだとか

殺すとか殺さないとか

風呂上がりにビールを一杯やりながら野球中継だとか

チャンネルの奪い合いだとか

いろいろやっているんだな

煙突をごんごん鳴らして

黒煙吐いている汽船が俺には

こんなに巨大で

耳を震わすわ

潮風だって

耳朶を打って巻いているわ

それですっかり髪も枯れたようになったわで

無視のしようもないのに

おかじゃそんなこと

想像するのがせいぜいで

そもそもこの環境を知らなけりゃ

どこ吹く風

想像するさえままならないのだ

すれば彼らからは

いま甲板に立つ俺は

想像の外で潮気に晒されているらしい

切っても切れない俺の現在が

繋ごうにも繋がらない彼らの現在と

空間上で繋がっている

同時にあって

ここからはゴマ粒ほどもない窓の

カーテンの隙間から

こちらに手を振っている少女がいるのかもしれない

などと 彼らが俺を想像できないように

彼らの現在もまた

俺のザルみたいな想像をすり抜けていく


ザルみたいな想像の中で

みんな生きているんだななどと

思ったらいやに感傷的なネックレスだ

海面をぞうぞうと乱暴に切る汽船も

人を乗せた無人船みたいだな

仕上げの粗いセメントみたいな

無数の波頭がチラチラしている

そうか月がかけたネックレスか

とか思ったら

メルヘンメルヘン メルヘンだと自嘲する俺がいて

ナンセンスだと付け加えた

人の生活や心理への憶測も

同等にナンセンスだと

言い返してみたがそれは

気恥ずかしさが尾をひいたせいであるのは

俺自身だから無論知っていて

なんもかも自覚されているのがいっそう恥ずかしい


いちど船内に戻ると

照明はほの暗い電灯に切り替わっていて

どのテーブルにも人影はなかった

痛いほど明るい自販機でコーヒーを買って

椅子のひとつに腰かけた


さっきのあのふたりが

俺のことで笑っているのでないことくらい

もちろんわかっていた

仮に俺のことを嗤っていたとして

でも俺のことを嗤っているんだ

という確信は妄想だということを

わかっていた

俺はこの妄想に少々憔悴していた

反抗を示したい自分がいるし

それはただの発狂だという自分もいるし

右にも左にも体を振れない息苦しさに

この分裂した俺を

どっちかに振り切りたかった

狂気に落ちるならひと思いに落ちてしまいたい

そしたら然る事態が然る処置を運んでくるだろう

狂気に落ちられないなら

代わりに海にでも落ちるか

それもできないなら

処世術が必要だった


想像なんて

どうせたかが知れている

遠いったって手の届かない距離ではないあのふたりを

だからって手の内にあるとも思ってはいけないよ

他者は分からないから他者なんだし

その自嘲癖をさ 劣等感をさ

何者にもなれないで燻っている胸の泥濘をさ

あのふたりに投影していただけの話でさ

だから

後ろ向きに あったかもしれない過去を夢見て

否定形で考える自分をやめて

いまここに立ってる足をしっかりと見て

肯定形の自分になることだと思うよ

ただ事実だけを拾っていくんだ

空想に遊ぶのはいい

それを事実と混同してはいけない

あのふたりは勝手に笑ったし

俺は勝手に怨念を募らせた

それだけのことだ

それだけのこと

みんな空想が空想でしかないことを

忘れていてね

幾分やっぱり現実の認識にそれが混入している

それを達観してしまえば

自分の苦悩なんて解消されるし

人が俺をどう思っても

どこ吹く風

空想された無人の他者に自分の幻想が投影されているだけだと

言ってのけられる


空の墨が払われて

薄明かくなってきていた

俺はもう一度デッキに立ち景色を見まわした

まだ愛媛の陸は黒々しているが

海には金箔が散っていた

着岸にはまだ一時間ほどある

父は迎えの仕度をしているのだろうか

それとももうフェリーポートの駐車場にいて

海と時計を見比べたりしながら

船影が現れるのを待っているのだろうか

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