地元市役所勤務時代

#研修

 公務員生活は研修から始まった。2週間弱の期間でマナー講座や、役所のシステムの説明、法的な話、市内ツアーなどなどがあった。新卒の時に戻ったようで楽しかった。同期でグループLINEを作ったり、飲み会をしたりしてみんな仲良くなった。


#配属先での勤務

 環境系の部署に配属された。職員は6人の小さな課だが、一応、市の目玉プロジェクトを担っている課であった。しかし、私が入る頃にはプロジェクトも終盤で、あとは消化試合といった時期であった。なので、やる業務としては、毎年やっているものを基本的には繰り返しでやるというのが主な業務であった。あとは、とある補助金の受付業務などであった。

 自分は社会人経験者であったため、最初から主事というグレードが与えられていたが(普通の新卒は主事補からスタート)、新人であるということもあって、あまり大変な業務は割り当てられなかったし、責任の重い業務もなかった。従って、仕事は正直ラクだった。まあ、市役所の仕事なんて大体はラクだという話もあるのかもしれないが(例外もあることは記しておく)。


#所属課のメンバー

 課長:40代後半男性。温厚で面倒見が良い。普通に良い人。

 主査:40代前半男性。温厚で面白い人。普通に良い人。

 主査:60代女性。極めて温厚。仕事はそんなにできないが、とても優しいおばさん。

 主事:自分の一歳上男性。体育会系だったのか上下関係を重んじる人で、悪い人ではないのだろうが、やたらと細かく、言い方が厳しくて、苦手だった。仕事はできる。

 主事:自分の一歳下女性。温厚で優しい。自分のメンター役ということになっていた。普通に良い人。


#休職(1回目)

 課の先輩主事の厳しめの言い方がどうも苦手でストレスを貯めていた。役所では毎年ジョブローテーションがあるので、異動にあたっての自分の希望を人事部に上申する機会があるのだが、その時も、合わないので自分を別の部署に移してほしいというようなことを書いたりもした。ある時、自分も悪いのだが、先輩主事からかなり厳しいかつ非情な物言いをされたことで苦手意識がさらに強まりそのストレスでダウン気味になってしまった。鬱病が原因だったのだが、過敏性大腸が原因と言いながら、休みがちになっていった。そういった日が続いたところで、課長に鬱病であることを打ち明けて、休職(病気休職)したいと申し出た。ただ、休みがちだったのは仕事に行きたくないというなまけ心からだった気もするし、休職することも、先輩主事との悪関係を人事課に強く発信したいという狙いがあったことは否めない(つまり、頑張れば働ける状態にはあったと思う)。

 このようにして、11月頭頃から2か月間休職をすることになった。人事課は一年目の休職など異例のことだが、仕方がないので認めるということだった。ただし、休職は一度しか認めないぞと強く念押しをされていた。

 なお、役所の制度上、病気休職は数か月まで給与が出るので、自分の2か月間の休職でも給与が出ていた。

 休職中は内観療法を受けるために泊まり込みで寺のようなところに行ったり、週一でカウンセリングを受けるなどしてやれることは全てやったつもりであった。運動も散歩などしていた。


#復職

 2月頭ぐらいから復職して2ヵ月間は平和だった。普通に業務を行えたし、残業をすることもなかった。先輩主事もある程度気を使ってくれるようになったのか、それほど厳しい口調でものを言うことはなくなった。大変望ましい状況になったと思えた。


#4月

 4月になって、口うるさい先輩主事は異動していった。それは良かったのだが、課がとなりとくっついてより大きな課となり、前課長が室長となり、元隣の課の課長が新たな課長となった。この課長が厄介で、自分の上司となるまでは気の良いおっさんだなぐらいの印象だったのだが、着任早々、これまでの私の働きぶりなどについてガッと注意されるようなことがあった。その注意の中ではこれまでの自分のやり方はけしからんと、前の課長は許しても俺は許さない的な話があり、一気に苦手意識が生まれてしまった。その他にも、この課長は事務屋ではなく技術屋(技師)出身で起案についてもやたらと細かいケチをつけてくるし、ちょっとしたミスをした際も、こんなんじゃこれまでの仕事が信用できなくなるというようなことを言われたりした。

 このような過程であっという間にメンタルをやられてしまい、仕事もうまくできなくなり、休みがちとなって、4月第4週くらいに、また病気休職を申請することになった。


#休職を申し出る

 今回の休職はすんなりとは認められなかった。人事課には激詰めの面談をやられて、表現は婉曲的だがもう辞めてほしいというようなことを言われた。診断書(休職時には医師の診断書が必要)も出されても困るんだよねというようなことも言われた。確かに二か月弱で再度病気休職に入ることが普通ではないことだし、役所から見て好ましくないことは分かっているが、あまりにも非道かつ非情なやり方であった。面談は家族とゆっくり相談して答えを出してきて欲しいなどと言われて面談は終わった。

 これは2回目の面談に行っても休職は認められず辞めさせられると悟った自分は、診断書と休職の願いを簡易書留で人事課に送り付けるという手段をとった。建前上、体調が悪すぎて面談に出向けないからという風に言っておいたが、実際は無理やりにでも認めさせるための作戦であった。

 結果、人事課も認めざるを得なくなり(制度上可能なのだから当たり前なのだが)、休職に入ることになった。今回の休職は万全を期すということで医師の勧めから3カ月間となった。

 課長には、自分の狙いが見透かされていたらしく(人事課もそうであっただろうが)、電話では皮肉のようなことも言われたが、人事課で承認された以上、止めることはできなかった。周りに迷惑をかけているということだけは認識してくれと言われた。これは確かにそうで、ただでさえ課の統合で人手が減っていたので、自分でも罪悪感は感じていた。


#休職(2回目)

 この時の症状は本当にキツかった。日内変動で夕方過ぎになるまで、横になっていることしかできなかった。市役所の事務仕事(の職場)ですら自分はこなしていけないのかと絶望的な気分になった。前職での休職時にIT系でやっていけないと思った時と同様、自己否定をし、社会人として生きていく自信を失っていた。

 そんな状態であったが、嫁が友人の結婚式で京都に行くというので無理やり京都に連れていかれた。行きの新幹線の中では、ノイローゼ状態で、ただただ、神様にどうにかしてくれ(辛い精神状態を)と祈っていたのを覚えている。到着初日は大学時代の友人と会う約束を休職に入る前にしていたのだが、あまりに体調が悪いのでそれもキャンセルした。

 京都では、嫁に無理やり連れていかれて、伏見稲荷の鳥居の道を見てきたり、京都の歓楽街の先斗町を見て回ったり、次の日は嵐山周辺や、三十三間堂を観光したりした。頭はノイローゼ状態で辛かったが、今考えると息抜きになったというか、良い思い出になったなと思う(鬱病と結びついて強烈な思い出になったとも言える)。

 自宅へ帰ってきた後は、毎日日向ぼっこをしたり、散歩をしたり、週二でカウンセリング(対人関係に着目した認知行動療法が主)を受けたり、エアロバイクを買って漕いだり、プロテインを飲んだりとやれることはできる限りやった。

 そんなこんなで復職に向けて体制を整えていたが、復職直前になってやはり今の上司の元に戻りたくないという思いが強くなって、辞めさせてくれないと死ぬと実家の兄や妻に泣きついて、辞めさせてもらうことにした。辞めた後は、デイトレーダーになると宣言していた。これは受け入れられたようだったが、後になってそうではなかったことが分かったのであった・・・。


#退職

 一旦は復職に向けた人事課との面談で復職すると宣言したが、やはり復職に向けたならし勤務期間が近づくにつれてまた体調が悪化したので、退職することにするというように人事課には告げた。そして、退職の面談や、職場への荷物回収などを経て退職した。

 ちなみに、復職すると面談でいった時は次に休職しなければならない事態になったら退職すると無理やり宣言させられていて、これも非道というか下手したら法に触れる話だと思う(あまりに腹立たしかったので、休職に入る時から人事課との面談の内容は録音してある。また労組の人間にそのデータを渡してある)。


#また無職になった

 退職金は10万円ちょっともらえたが、公務員は失業保険に入っていないことを知らず、失業手当が受けられないことを知ってがっかりした。また、傷病手当金も過去(前職での休職の時)に受給していたため、支給されないということであった。まあ、生活はなんとかなるので問題なかったが、アテが外れたと言えばそうであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る