命のために
目を覚ますと、耳に入ってくるのはかすかな雨音。ここのところ毎朝こうだ。
この国でこんな風に何日も雨が降り続くのは、少なくとも僕が物心ついてからの記憶にはない。
着替えを済ませて部屋を出ると、いつも作業場か暖炉の前に居るはずのアイーダ先生の姿がない。不思議に思いながら外に出てみると、先生はそこで食い入るように空を見つめていた。いつものローブの上に、雨除けの皮のマントを羽織っている。
僕も少し前に誂えた自分用の外套を羽織り、外に出てみる。
「雨、止みませんね」
何の気なしに言って横に並ぶと、先生の険しい表情と視線の先に気がつく。金色の目は、木々の間から町の上の空を向いていた。
「危ないな」
妙に緊迫した声に、僕は意味を計りかねる。
「……雨が、ですか?」
「これはただの長雨じゃない。後先考えないマナの使い方が、こういう形で出たか」
息を飲み、以前先生が言っていたことを思い出す。
『力の在処も、使っている量も知らずに、一ヶ所で後先考えず魔法を使っている。いずれ破綻が来る』
もうその時が来た、ということなのか。
「どうなってしまうんですか?」
「今のダーネットは町中に川の水を引き込んでいる。しかし、雨が止まずに川が溢れた時の事など考えていないだろう」
ダーネットに流れ込んでいる川は、比較的緩やかな流れだ。過去にあの川が氾濫を起こした例なんて聞いたことがない。だからこそ、川の流れを捻じ曲げて街中に水を引き入れるような工事も行われたんだろう。
「でも……水門や何かで止められるんじゃないでしょうか。それに、あそこはいつも工事をやってて、魔法術士の人も居ますし」
「マナが乱れている時に、魔法術士では対応できない。余計に流れをおかしくする」
先生は険しい表情を崩さず、吐き捨てるように続けた。
「……火事場に油を撒くようなものだ」
ようやく僕にも事態の深刻さが飲み込めてきた。このままにしておいたら、誰にも対処ができず、大きな被害が出かねないということ。
「じゃあ、知らせてあげないと」
「それには二つ問題がある」
そう言って先生は人差し指を立てる。
「一つは、今から山を降りて向かえばこちらも危険だということ」
確かに、何度も繰り返して山の登り降りにはだいぶ慣れてきたけれど、こんなにひどい雨の日は経験がない。
地面は滑りやすく、崩れやすくなっているだろう。下手をすれば命に関わる危険な道になる。
その上、無事に町に着いたところで、どうする事もできなければ一緒に巻き込まれるだけなのだ。
「もう一つは……危険を伝える手立てがない。誰も私を信じないからだ」
それは先生だけじゃない。僕だって、なんの後ろ盾もないただの子供だ。
町の人たちに危険を訴え、魔法で対処してはいけないなんて警告したところで、変人扱いされてしまうのがオチだ。
何か方法は無いだろうか。僕は必死に考えを巡らせた。信じてもらう方法といっても、信用はそんなに簡単には得られない。なら、信用を持っている人なら?
「チックさんに頼みましょう」
「チックに? それは無茶だろう」
先生は露骨に顔を歪め、呆れたような声を出した。
「あの人なら、きっと顔が効きます。なんなら町の有力者の伝手だって知っているかもしれません」
「あの男はお人好しじゃない。顔見知りとは言っても、私達の言葉を信じないのは同じ事だぞ」
それはその通りだ。でも。
「でも、チックさんならお金さえ出せば動いてくれます。僕達を信じてくれるかどうかは問題じゃないんです。とにかく大金さえ用意すれば、避難を呼びかけるくらいなら、協力してくれるんじゃないですか」
「……それは一理ある」
先生が感心したように頷いたので、僕は我ながらよく考えついたものだと自分を褒めてやりたい気持ちになった。
とはいえ、この方法にも一つ大きな問題があるのだ。当然先生はそこを聞いてくる。
「だが、その金は誰が出す」
「それは……」
僕にそんな蓄えはない。工房の退職金は使わずに取ってあるけれど、きっとチックさんにとっては端金に過ぎない額だろう。
「私はそこまでして町の人間を助けたいとは思わない。杖の新しい卸し先を探すのは面倒ではあるが」
魔女である先生は人々に疎まれ、蔑まれるような事こそあっても、好感を待つ機会など無かったのだろう。
そうでなければこんな山奥に一人で住んでいるはずもない。
僕だって、ダーネットの町にそんなに沢山の知り合いがいるわけじゃない。せいぜいチックさんとエマくらいだ。
それは果たして、命懸けで助けなければいけないほど親しい人たちだろうか?
僕は考える。先生は何も言わずに返事を待っているようだった。
大粒の雨に叩かれながら、口を開く。
「……この雨が止んだとして。僕はいずれまた、町に降りることになりますよね」
先生と目が合った。
「その時に、助けられたかもしれないって思うよりは、今、助けに行きたいです。お願いします。先生のお金を貸してください」
先生がチックさんに預けている杖の売り上げは、相当な額になっているはずだ。それを使わせてもらう以外に方法はない。
「……私の金は、別に決まった使い道があるわけじゃない。お前が助けたいのなら、助けよう」
先生は少し笑い、でもすぐに、ぐっと表情を引き締めた。
「ただし。危険になったら、自分の命を最優先することだ。それは分かるな?」
「はい。もちろんです!」
慌ただしく準備を済ませ、僕と先生は町に向かって山を降り始めた。と言っても、先生は杖を使って飛んで行ける。歩いて雨の山道を降りなければならないのは僕だけだ。
杖を使い、木の根を掴み、時には地面を這うような姿勢になって、慎重に坂を下る。
気が急いてしまうのを堪えて、滑り落ちないように、足をくじいたりしないように。
人を助けるには、まず自分が助けを必要としない状態でなければならないから。
ようやく麓の街道に出て先生と合流した頃には、雨はさらに激しさを増していた。視界は極端に悪く、叩きつけられるように降る水が顔を滴って、息苦しささえ覚える。
「急ごう」
先生は魔法で老婆の姿に変わり、僕が肩を貸して、二人で走り始めた。
町に着くと、水路沿いに集まった人々が砂袋を積んで溢れる水を堰き止めようとしていた。杖を持った魔法術士が待機しているのも見える。
まだ致命的な状況にはなっていない。間に合うかもしれない。
「ここで状況を見る。チックを呼んできてくれ」
先生の指示を受けて僕は走った。
空は厚い雲に覆われ、土砂降りの雨が重なって、まるで夜のように暗い。明かりも持たない僕は、何度か迷いかけながらもチックさんのお店に辿り着き、扉を叩く。
「チックさん! ラストです、開けてください!」
いくらドアを叩いても、なんの反応もない。
(留守なのか……!?)
それだけで、あっという間に僕の考えは白紙に戻ってしまった。そもそもチックさんが今日ここにいるという保証はどこにもなかったのだ。
「どうして、こんな時に!」
恨み言を言っても仕方がない。そうこうしているうちに、雨の勢いは一層強まってきている気がする。ここに居てもどうする事もできないと、走って先生の下へ引き返す。
「あれは……!?」
遠目から、魔法術士が高い台の上に立ち、杖を掲げているのが見えた。どこかで山が崩れでもしたのか、川から水路に流れ込む水が急激にかさを増している。魔法でそれを止めようとしているのだ。
慌てて走り寄ろうとする僕の肩を、近くにいた大人が掴む。
「邪魔するんじゃねえよ。危ねえぞ」
「違う。あの人が魔法を使っちゃ駄目なんです!」
「何言ってるんだ? おい、こいつおかしいぞ」
聞き覚えのある呪文が聞こえる。早瀬の鳴り杖を作り終えた時に見た、水を操る魔法だ。
水路の水が流木や土砂を巻き込みながら立ち上り、見守る人々の間からは歓声が上がる。
次の瞬間、水柱が弾けた。落下した流木が土嚢を崩し、溢れた水と土砂が周囲の物を押し流し始める。
歓声は悲鳴に変わり、一瞬にしてその場は混乱に飲まれる。
(間に合わなかった……!)
もはや、みんなを助けるどころじゃない。すぐにこの場を離れなければならない。いざとなれば自分の安全を最優先に、と先生にも言われている。その先生はどこにいるのか?
そして、僕は見た。
次々と水路を離れていく人々とすれ違いながら、逆にそこへ近づいていく先生の姿を。
先生は姿を変えるのをやめていた。何故?
先生は高く杖を掲げていた。何故?
「水底の眠る竜を、起こせ、舞わせ」
無数の巨大な水柱が、荒れ狂う水面から立ち上がった。それはお伽話に出てくる竜のようにうねりながら高く舞い上がり、次々と空へ吸い込まれていく。
誰もが息を止め、その不思議な光景を目に焼き付けていた。
水の柱が突き刺さる度、徐々に黒雲は薄くなり、雨足が弱まっていく。まるで、無数の槍が巨大な怪物を退治するかのようだった。
いつしか、足元を流れる水も、頬を叩く雨も、穏やかなものに変わり始めている。
そして、先生がゆっくりと倒れこんでいくのを僕は見た。
僕はどうして、こうなる可能性に思い至らなかったんだろう。先生は僕を助けた時のような捨て鉢ではなく、確かな意思で人の命を助けたのだ。自分を省みずに。
「先生!!」
無我夢中で駆け寄り、抱き起こす。先生は目を閉じてぴくりとも動かない。
先生が手にした魔法の杖は、ぼろぼろになって二つに折れていた。
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