故郷(前)

 口元を手で押さえ、よろめくような足取りでアイーダ先生が僕へ近づいてくる。その姿は光の粒に彩られているけれど、不思議と目が眩む事はない。


「閉じろ」


 両頬に手を当てて顔を覗き込まれ、絞り出すような声でそう命じられる。先生の目にはいっぱいに涙が浮かんでいた。


「目を閉じろ。今すぐに」


 僕は慌ててぎゅっと目を瞑る。


「そうじゃない!」


 がくがくと肩を揺さぶられながら、僕は先生の必死の訴えを聞く。


「思い出しなさい。あなたが見ていた世界は、そんな風では無かったはず」


 何が何だか分からないけれど、僕が見ているこの光が先生の望まないものならば、見るのを止めた方がいいのだろう。止め方は、誰に教わったわけでもないけれど、分かっている気がする。


 次に目を開いた時、目の前を遍く覆っていた光は消えていた。

 先生は肩で息をしながら、僕と合わせていた視線を床に落とし、いっそう低い声を出す。


「外に……出ていなさい。出かける用意をして」

「町に降りる用意ですか?」

「そうだ」


 今日はもともとその予定だった。しかし、外に出ていろとはどういう事だろう。


 大急ぎで着替えと支度を済ませ、家の外に出る。あれこれと考えながら待っていると、家の中から出てきた先生が、手にしたものを地面に置いた。

 そこには、僕の持ち物が全部まとめられている。


「杖の作り方を教えるのは終わりだ」

「え……?」


 言葉の意味を理解する前に、扉は閉じられた。慌てて開けようとしても、びくともしなかった。中から閂をかけられている。


「先生。何言ってるんですか」


 自分でもはっきりとわかるほどに声が震えている。これが冗談なんかじゃない事はわかる。それでも、他になんと問いかけたら良いのか分からない。


「もう、ここには来るな」


 信じられない言葉ばかりが続く。


「待ってください」

「今ならまだ間に合う。家に帰るんだ」

「待ってくださいよ!」


 拳を握り、何度も扉を叩く。

 それほど頑丈な扉じゃない。本気になって体ごとぶつかれば壊せるかもしれない。

 でも、それには意味がない。

 先生が教える事自体を放棄してしまったら、僕がここに居ても何も学ぶことなんてできはしないから。


「説明してください! 何なんですか、何でそんな、急に……!」


 絶望と、悲しさと、怒りと、全部混じり合ったなんだか訳のわからない気持ちに突き動かされて、僕は声を振り絞って叫んでいた。


「途中で見放したりしないって、言ったじゃないか! 先生の嘘つき!」


 返事は無かった。

 ただ、山の中に僕の声だけが谺した。

 恐ろしいほど静まりかえった家の前、呆然とその場に座り込んでいた僕は、やがて荷物を拾い上げて立ち上がった。



 それから、どこをどのように歩いたのか、僕はよく覚えていない。

 山を下り、ダーネットの町に出た。街道を通り、山道をひたすら歩いて山を越え、一泊してもう一つの山を越えた。上の空でも迷わなかったのは、前に歩いた時よりも山道がきれいに整備されていたからだろう。


 道すがらに考えていたことはもちろん、なぜ突然先生が僕を追い出したのか、その事ばかりだ。

 あの光に満ちた光景が関係している事は間違いない。僕があれを見た事が、おそらく先生にとっては予想外の出来事で、とても恐ろしい事だったのだと思う。


『……目が開いているわけではないな』


 初めて先生に会った時、そんな事を言われた記憶がある。あれはどういう意味だったのか。

 異変が起きた後、先生は僕に対して必死に目を閉じろと言ったのだ。

 合わせて考える。開いていなかった、開いてはいけなかった目が、開いていた……という事になる。


『ラストは……ここに馴染み過ぎている』


 追い出される前の日に先生はそう言った。きっと、その事も関係がある。僕が山に、ないし森に馴染みすぎたらしい事が。


 今まで先生と一緒に過ごし、聞いた言葉の中に答えはあるような気がする。

 その答えが、もう一歩というところでするりと手の中を抜けていくようなもどかしさが、僕を苛立たせた。


 加えて、足を進めるごとに、道端の小さな白詰草や、遠く並ぶ山脈の、雪の残る峰、そういったものがきちんと認識できるようになってくる。

 考え事から気が逸れてしまう。


 やがて風景の中に見渡す限りの畑が広がり、牛や、がちょうの鳴き声が聞こえ始める。小さな頃に必死の思いで登って遊んだ大樹や、溺れそうになった小川が視界をよぎった。

 ここから離れていたのはたかだか二年と数ヶ月の月日だけれど、一つ一つの小さな事に、胸が詰まるような懐かしさを感じてしまう。


 そしてたどり着いたのは、こじんまりとした粗末な家。庭先には亜麻の茎を木槌で叩いている恰幅のいい女性がいる。


 僕が近づくと、その人がこちらを見た。あんぐりと口を開け、立ち上がって駆け足で近づいてきて、いきなり僕の頭を叩いた。


「馬鹿! 全然連絡もしないで、この子は本当に!」


 激しい口調だけれど、顔は笑っている。いつもの、僕の母さんだ。


「ごめん。連絡はしようと思ってたんだけど」

「思っただけじゃ意味がないでしょう! ちょっと、お父さん! お父さん!」


 呼びかけに応じ、家の陰からふらりと姿を現わした人物は、肩に積んでいた藁の束を下ろした。


「おや、おや」


 まばらな髭、癖毛の髪に、あまり僕と似てはいない面長の顔の持ち主。

 昔からとにかくのんびりとした人で、ぼんやりとした冗談とうたた寝が好きで、よく母さんに叱られている、僕の父さん。


 父さんは何を言うべきかと少し迷った様子を見せ、それからもそもそと口を開いた。


「おかえり」


 母さんも、それに続いた。


「おかえり、ラスト」


 この場合僕が言うべき言葉は決まっている。ほんの一瞬だけ迷い、それでも、覚悟を決めて口にした。

 生まれ育った家と、今もそこに住んでいる両親に向けて。


「……ただいま」


 僕は、とうとう故郷へ帰ってきてしまった。

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