お題 梅干し

 塩漬けのせいもあって梅干しの種は土に植えてみてもほとんど発芽しないそうだ。

 僕はそんなことをとあるページで見た。別に梅干しで検索したわけではない。ただリンクを渡っていってたどり着いただけのページにあっただけだ。どうしてそのようになったかなど思い出したり考えたりしてもいいけれど恥ずかしいことかもしれない。


 しかし梅干し自身はどう思っているのかそんなことを考えてみた。土に植えられて発芽しないことをだ。梅干しに働く頭なんてない。それは当然のことだ。だからそんなことをわざわざ言ったり書いたりしてくる人はきっと疲れている。疲れているのに、いや、疲れているからこそしたくなるのだろう。


 ああ、おやすみなさい。けれど目覚めてもあなたはそもそも疲れていることに気づかないでしょう。だからおやすみなさい。


 それはともかく梅干し自身についてだ。発芽するために生まれてきた(まだ発芽していないのだから生まれているわけではないがわかりやすくするためにそう書いた)のに、その使命を果たせないと気づくのはきっと塩漬けにされたときだろう。


 何も知らない梅干しは最初これがいわゆる土というものだと勘違いするだろうけれど、しばらく経てばわかってしまうのだ。これは土ではなく、しかし土意外に表す言葉を知らないから(そんなものは母木から教わっていない。なぜなら母木は種たちが梅干しになっていることを知らないからだ)、土だけど土ではない土なのだとわかってしまうのだ。


 ここから各梅干しの性格などその辺りが関わってくるだろう。

 運命を壊す、そして壊せると思える梅干しはこれでも頑張って発芽しようと何度も試みてみるだろう。

 賢(さか)しい梅干しはどうしてももう発芽することはできないのだと悟り、これまで塩漬けにされてきた梅干したちが広め伝え続けてきている梅干し教団の教えにすがり安らぎを得るだろう。

 そのどちらでもないのはどちらかである梅干しをバカにし続け、それこそが己の存在意義であると持ち上げていくのだろう。


 すべてで変わらないのは梅干しだということだ。つまり食べられるためにあるということだ。勇者でも賢しくても諦めてもすべて梅干しで、終着点が決まっているということだ。

 ただもし、梅干しであることに気づく梅干しが現れればどうなるか。きっとだめだ。そのようなことを周りの梅干したちに伝えても信じてくれるはずがない。塩すら知らないくらいなのに素直さはない。


 食べられるとき、ようやくその意味を知る。最後のときだ。

 と、そこで思いつく。梅干しは周りではなくその中にある種に意志があるのならば、食べてぷっと種を吐き出してみても、まだまだ大丈夫なのかもしれないと。

 まだ発芽できる希望を抱き、しかしやはりできないと教えに安らぎを得続け、しかし周りの梅干しをバカにし続ける。


 最後ではないのだとしたら。このいま僕の目の前にある梅干しを食べても、まだまだ梅干しとして続いていくのだとすれば。

 ではこのたまらない酸っぱさはどう解釈すれば良くなるのか。これが最後の抵抗でないのであれば、この酸っぱさの意味とは。

 梅干しめ、発芽できない恨みというわけではないのか。

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